誰かの光-1
翌日、朝陽がシチリアの市場を金色に染め、石畳にトマトの赤やレモンの黄が眩しく映える。魚屋の呼び声が波の音と混じり、潮風がオリヴィエの薄金色の髪を汗で額に貼り付ける。麻袋を肩に掛け、リカルドの使い走りで魚とパンを買う。スケッチブックが腰で揺れ、鉛筆の擦れる音が市場の喧騒に溶ける。鮮魚の氷が溶ける滴が石畳に落ち、朝の涼しさが肌を撫でる。
「リカルドのガキか! マリオが昨日、魚のタトゥー市場で自慢してたぞ!」
魚屋の店主ヴィットリオ、ハゲ頭が朝陽に光り、日に焼けた腕で魚を捌きながら豪快に笑う。
「僕は描いただけで……リカルドさん、彫ってくれただけ。タトゥーって……そんなに大事、ですか?」
マグロと赤エビを受け取り、潮の匂いを吸い込むと、オリヴィエは首を傾ける。
「漁師にとっては大事さ。願いを込めたタトゥーは誇りだ、シチリアの魂だよ」
もう一つエビを放り、エプロンで手を拭く。
「願い……。僕の魚、誰かにとって大事なもの、なれたんだ」
ヴェローナの月明かりで描いた太陽が頭を過ぎる。あの太陽が自分に光を与えたように、スケッチが誰かの希望になれるのか。翡翠色の瞳が熱っぽく揺れ、潮風が頬を撫でる。「グラッツィ」と言って小さく笑い、雑踏の中トマト屋に向かう。
目の前に鮮やかな実が広がり、トマト売りのアンナの露店の前に立つ。
「アンナさん、トマト一つ、お願いします」
「いつものね。あんな男の使い走りなんてよくやるね。ほら、オマケしとくよ」
「グラッツィ、アンナさん」
シワだらけの顔をくしゃっと笑いかけ、トマトを一つ多めに放り投げると、オリヴィエの目の前を遮るように手が伸び、代わりに誰かがトマトを受け取めた。
「そんなにトマト要らねぇぞ」
リカルドがタバコを咥え、トマトを手に赤く光る表面を値踏みするようにぐるりと回して見る。オリヴィエはタバコとインクの匂いに疼きを覚え、言葉に詰まる。
「相変わらず遅せぇな。タバコが無くなっちまった」
「あ、えっと……アンナさん、いつも1個多くくれる……」
「無駄話して気に入られてんのか。おい婆さん、俺には質の悪いトマトばっかよこす癖に、ガキには上等なもんかよ」
「お前は文句しか言わねぇからさ。ガキは素直だ」
露店の奥から指を振りながらアンナが吼える。リカルドはタバコを摘み、白い煙を漂わせながらニヤリと口角を上げた。
「そうかよ。だが残念だったな、こいつへのオマケも全部俺の腹ん中だ」
「相変わらず嫌な男だね、アンタは!」
切れ端のちぎれたトマトを投げつけ、シチリア語のスラングで捲し立てる。
リカルドが「やめろ!」と言うが、白いTシャツに赤い汁が滲む。
「また婆さんと喧嘩してんのか」と通り過ぎる地元民に笑われ、魚屋のヴィットリオも「マンマミーア!」とシチリア語で笑う。
「クソッタレ、汚れた」
リカルドはタバコを咋み、胸元のトマトを払いオリヴィエを睨みつける。刺すような青い瞳に謝りかけるが、いつもの冷たい態度にトマトの汁が滲む姿が不釣り合いで、思わず笑みが零れる。すると、彼にもう一度睨みつけられた。
◇
灼熱の太陽が石畳を照らし出す中、市場の喧騒を遠ざかる。海辺の道を、不機嫌なリカルドの後ろを一歩下がって歩く。スタジオへの海辺の石畳を二人分の足音が響く。ヴィットリオに言われた言葉──願い──が頭にこびりつき、スケッチが誰かの体に意味を刻む。
漁師にとっての願い、自分にとっての希望。鉛筆は消えてしまうけど、タトゥーは永遠に誰かの中で生き続ける。
前を歩くリカルドの背中を見つめる。太陽がタトゥーで覆われた腕を照らし、黒いインクが輝く。
「クソッタレ……タバコ買いに行っただけで、何でトマト塗れにならなきゃならねぇ」
トマトの汁が黒いインクに滲み、赤と黒が混ざって不気味に光った。オリヴィエは目を奪われる。
「リカルドさんのタトゥー、どんな意味、ありますか?」
潮風が背を冷たく撫でる。
「意味なんかねぇ。ただの落書きだ」
リカルドは背を向けたまま答え、白い煙が潮風に揺れてタトゥーを隠す。
「でもマリオさん、漁師の誇りだって……すごいです」
肩越しに翡翠色の瞳を一瞥し、鼻で笑った。
「うるせぇ。荷物持ってスタジオ戻れ」
と吐き捨てる。オリヴィエの瞳は尚熱っぽく揺れる。
「タトゥーって……誰かの中に、意味を残すんですね」
と呟くと、リカルドは一瞬立ち止まる。
瞳の奥、純粋な輝きに恋人の影が再び頭を殴る。
「絵が消えねぇだけだ」
静かな言葉は風に溶け、左腕を撫でる手が、インクの影を覆い隠した。
石畳を踏む音と波の打ち寄せる音だけが響く。潮風がスケッチブックのページを揺らし、やがてスタジオの扉が軋むと、リカルドは作業台に凭れ、タバコの火を灰皿に押し付けた。




