サンタ・ロザリアの夜-1
二〇〇五年の真夏、七月のシチリア、灼熱の太陽が沈みかけた夕暮れ。海辺の街は「サンタ・ロザリア祭り」の準備でざわめいている。
リカルド・マリアーニはタトゥースタジオ「Inchiostro Vivo」の扉を閉め、くすんだ金髪を首筋に張り付かせながらシャッターを下ろす。外では地元民が聖ロザリアの像を担ぎ、花火の準備をする若者たちの笑い声が響いている。通りにはタランテッラの軽快なリズムが流れ、観光客たちがカメラを手にうろつく。通りを行き交う人々を見て舌打ちし、タバコを咥えた。
「またこの時期か…騒がしいだけだ」
呟き、店の横の路地へ足を踏み入れた。
恋人を失い、故郷から逃げた日の雨が頭を過ぎり、胸が締め付けられる。あの日から彼の時間は止まったまま、リカルドは一人を選んだ。
タバコに火をつけ、壁に凭れながら煙を吐き出す。遠くで花火が上がり、空が一瞬赤く染る。あの日の血の匂いが鼻を掠めた気がして、リカルドは左腕をそっと撫でた。
「祭りだろうと一人でいい」
言い聞かせるように呟くと、タバコを強く吸い込んだ。祭りの熱気が路地まで届き、汗と潮風が混じる。タバコを地面に押し付けてスタジオへ戻ろうとすると、路地の奥から言い争う声が聞こえてくる。
「財布出せよ。観光客なら金持ってるだろ」
眉をひそめて奥へ目を凝らす。薄暗い石畳の奥で、華奢な観光客が地元の不良に絡まれている。スケッチブックと麻袋を抱え、震える足で対峙している。リカルドは「めんどくせぇ」と舌打ちして目を背けるが、
「嫌だ」
と拒否する青年の声が背中に響いた。
さっさと金を渡せばいいものを、と呆れるが、相棒に助けられたあの夜が頭を過ぎる。
あの時も震えていた。
苛立ちが募るがあの日の自分の姿と重なり、踵を返して路地裏へと向かった。
「やめろ。何やってんだ」
リカルドが冷たく言い放つと、不良たちは一瞬怯んだ。一九〇センチ近い体格と、真っ黒なポリネシアン風のタトゥーが覗く首元と、両の腕が威圧感を放つ。
「店の近くでめんどくせぇことすんな」
低く声を響かせると、不良の一人は「うるせぇ、タトゥー野郎」と食ってかかるが、仲間と共に逃げていった。リカルドは舌打ちし、クソガキどもが、と毒付いた。視線を下げると、青年は地面に座り込んでいる。
「おい、生きてんのか」
足で膝を軽く小突くと、翡翠色の瞳を上げ、壁に手をつき、ふらつきながら立ち上がる。
「G-grazie……祭りで、迷って……」
青年は震える声で呟くが、顔は赤く、熱でふらついている様子は明らかだった。リカルドは片言のイタリア語に眉をひそめ、じっと見つめる。ポニーテールに結われた薄金色の髪に中性的な顔立ち、薄汚れて端が破れたスケッチブックを大事そうに抱える姿がリカルドの目に異様に映る。
「こんなところで何してる?」
警戒を滲ませながら、低く問いかける。
「祭り……宿、取れなかった……歩いてたら、ここに……」
青年の言葉は途切れがちの単語が混ざり、熱中症で意識が朦朧としているようだ。リカルドは目を細め、目の前の青年が何かを隠しているのか、それともただの疲れた観光客なのか判断がつかない。
「この時期に宿が空いてるわけねぇだろ。観光客ならもっと調べて来いよ」
呆れたように言うが、青年の倒れそうな様子に再び目を細めた。リカルドは腕を組み、彼を値踏みするように見る。
内心では、マフィア絡みの詐欺師やスリの可能性すら疑う。だが、祭りの花火が再び上がり、遠くで聖ロザリアへの祈りの歌が聞こえてくる。街全体が熱狂に包まれている今、こんな状態の奴を放っておくのも現実的ではない。
「このままじゃお前、倒れるぞ。熱中症だろ、その顔」
リカルドが顎で示すと、青年は小さく頷き、「少し……休めれば……」と掠れた声で答える。リカルドはため息をつき、頭を搔く。
「めんどくせぇな。店の前で倒れるなら水だけでも飲ましてやる。ほら、来い」
青年を睨むと肩を軽く支えてスタジオへ向かう。祭りの行列が通りを埋めつくし、観光客が浮き輪やビーチバッグを持って歩く中、二人は人混みを避けるように路地を抜ける。
「シチリアは優しくねぇ。少しはてめぇで調べて来い」
リカルドが呟くと彼は、「ありがとう……本当に……」と力なく微笑んだ。
◇
スタジオに入り、冷房の効いた室内に青年は安堵の息をつく。インクと消毒液の匂いが鼻を刺し、換気扇がカラカラと回っている。作業台にはコイルマシンとインク瓶が並び、ガラス瓶が光に鈍く反射する。リカルドは冷蔵庫から水を取り出し、「座ってろ」とソファを指さして手渡した。
タバコを咥え、ライターをかちりと鳴らすと煙がインクの匂いに混じっていく。青年は朦朧としたままスケッチブックを抱え、コンクリート壁に掛かったモノクロのデザイン画に目を向ける。
「タトゥー……の店?」
「飲んだら出てけよ」
リカルドは青年の言葉を無視してぶっきらぼうに吐き捨てると、青年は目を伏せて頷き、水を一気に飲み干した。
祭りの音楽が窓から流れ込み、花火の音が断続的に響く中、リカルドは青年を横目に見る。熱で赤い顔と震える手を見て、今にも倒れそうだ、と灰を弾く。このまま放り出せば祭りの混乱の中で倒れるか、また不良に絡まれる可能性が高い。
「お前、何者だよ。スケッチブックなんざ抱えて……あそこで何してた?」
リカルドはタバコを咥え直し、尚抱えたままのスケッチブックを一瞥して問いかけた。
「オリヴィエ、です。人、探してて……」
掠れた声で力なく呟く青年に、リカルドは眉間を寄せる。
「人を探してる? こんな夜に? 頭おかしいんじゃねぇか」
答えることなく、限界を迎えた翡翠色の瞳が揺れ、スケッチブックを握り締めたままソファーへと体を沈めた。リカルドは倒れ込む青年を見て、「ふざけんな」と舌打ちするが、朝になったら叩き出してやる、と心で決め、灰を弾きながら呻く青年をじっと見つめる。
「死ぬなら他所でやれよ」
不器用なイタリア語を話す青年に警戒を解かないまま、背を向けて吐き捨てる。
「すみません……」
青年はソファーに横になったまま掠れた声で呟いた。扇風機と換気扇がカラカラと回り、花火の音が頭に響く中、目を閉じて眠りにつく。
◇
朝日がシチリアの海辺の街を照らし、子供たちと遠くの市場の喧騒が聞こえる。外では地元民が祭りの飾りを外し、花火の残骸を掃く音が響く。オリヴィエはソファで寝ていたが、外からの物音に目を覚ました。
「おはようございます……」
眠そうに呟くが、スタジオの中は静寂に包まれている。
オリヴィエはソファーから起き上がり、一度部屋を見渡した。ベッドの周りには、タバコの空き箱と酒瓶が乱雑に置かれ、擦り切れた焦げ茶色の革ジャンが壁に掛かっている。部屋の隅には洗濯物の束が出来ていて、微かに汗の匂いが漂う。
昨夜の彼の姿はなく、湯気が出たままのモカポットからはエスプレッソの匂いが漂い、タバコの匂いと混ざり合う。
ヴェローナの陽の中、石畳に立ち尽くし、立ち去る背中へ手を伸ばした自分の姿が一瞬頭に過ぎった。
「タバコの匂い、どこかで……」
呟いた言葉は潮風に溶け、換気扇がカラカラと回る音と古いラジオの音にかき消された。
オリヴィエは麻袋を肩にかけ、スケッチブックを抱えてスタジオへ向かう。歩く度に軋み、木の床には吸い殻とインクの染みが広がっている。テーブルの上には薄汚れたマグカップとコイルマシン、いくつかの工具が放置されている。コンクリート壁に掛かるモノクロのデザイン画が目に入り、ここがタトゥースタジオであったことを思い出した。
彼はデザイン画を眺め、スケッチブックに目を落として太陽の描かれたページを開くと、指でなぞった。窓から吹き込む潮風がページを捲り、薄金色の髪を攫う。海の青にしばらく目を奪われるが、オリヴィエは紙の端を小さく破くと、礼と名前を軽く書き、そっとマグカップを持ち上げて挟んだ。
もう一度部屋を見渡してから荷物を肩に掛け直すと、扉へ歩き出す。
窓の外では地元民が笑い合いながら片付けを終え、街に日常が戻りつつある。オリヴィエは消毒液とインクの匂いに立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。
「シチリアで…あの人を探す」
手に持ったスケッチブックを握りしめ、外へ踏み出した。




