第29話 穢れの香り
本日は夜までに4話投稿予定です。よろしくお願いします。
聖域での余韻がまだ消えないうちに、私は街へ戻っていた。
アウラに言われた言葉が、頭の片隅でずっと鳴っている。
――力を磨け。
――実戦で鍛えよ。
――智慧をもって進め。
(まずは……力の精度。実戦だよね)
そう自分に言い聞かせた、そのとき。
商人の小屋の前から駆け出してきた男が、私にぶつかった。
顔は土で汚れ、息は切れ、目だけが真剣にこちらを射抜いている。
「お嬢さん! 西の村が……化け物に襲われてる! 誰か助けてくれって……!」
言葉尻が震えていた。
噂より早い。
現場に行け。
直感がそう叫ぶ。
「分かった。場所は?」
男が指差した方向へ、私は走り出した。
西へ向かう一本道は、朝靄のせいで視界がぼやけていた。
遠くに見えるはずの丘が、今日は薄暗く鈍い。
やがて――煙と、焦げた匂いが風に混ざった。
村の入口に立った瞬間、足が止まりそうになる。
地面には黒い斑。
木々の葉は萎れ、土は不自然に乾き、空気が“重い”。
普段なら子どもの声で賑わう広場には、押し黙った大人たちがうずくまっていた。
その中の一人が、縋るように言う。
「来てくれたのか……救い主か?」
「違う。私は……ただの冒険者だよ」
それでも、村人の目にわずかな安堵が灯った。
だが表情は硬いまま。
喉を刺すような、嫌らしい匂いが漂っている。
(……瘴気。これ、山のときと同じ系統だ)
私は村の奥へ視線を走らせた。
「何があったの?」
老いた男が枯れた声で答える。
「夜ごと獣が増えて、祠の灯りが消えるんだ。守りの力が薄れたと思ったら、次の日には畑が黒くなって……」
断片的な言葉。
だけど、十分だった。
(守りの力が薄れる――守護の気が奪われてる)
私は祠へ向かった。
祠は無残に壊れ、中央の聖石はひび割れ、そこから黒い霧がじわりと滲んでいた。
近づくだけで、胸の奥がざらつく。
(……触れちゃいけない)
直感が鋭く告げる。
これは自然発生の災いじゃない。
誰かが、意図的に“穢れ”を流し込んでいる。
そのとき。
遠くから、獣の唸りが聞こえた。
木陰を走る影。
次いで、赤い眼がいくつも灯る。
群れだ。
瘴気に染まった獣たちは、毛が煤のように灰色で、口の端から黒い泡を垂らしている。
(数が多い……!)
村人が悲鳴を上げかける。
「下がって!」
私は叫んで、両手を胸の前で合わせた。
掌に宿る光が、ひそやかに脈打つ。
(まず、守る)
――結界。
透明な膜が地を這うように広がり、村の中心を包み込む。
獣たちが結界にぶつかり、爪を立て、牙を剥く。
結界が、きしむ。
(……やばい。これ、押し切られる)
数が多すぎる。
結界は“時間稼ぎ”にしかならない。
(次は、削る。浄化で数を落とす)
私は息を吸い、詠唱を紡いだ。
光が、日輪のように膨らんでいく。
獣の群れが一斉に突っ込んできた瞬間――私は静かに叫んだ。
「来て。還れ――汚れの根を断つ光よ!」
光の輪が地を走り、瘴気を裂いていく。
獣たちが苦悶の声をあげ、次々に掻き消された。
……だが。
最後に残った一体だけが、異様だった。
巨大な躯体。棘のような尾。
そして、黒い血のような体液を垂らしている。
(これが……核)
そいつだけ、浄化の光に“抵抗”している。
胸の奥が冷える。
(普通の獣じゃない。穢れを食わせて、作った……?)
私は歯を食いしばった。
(ここで引いたら、村が終わる)
私は胸の奥へ意識を沈める。
もっと深い――聖女としての根源的な光を。
周囲の風が止まり、時間が一瞬だけ収縮したように感じた。
「……お願い。今だけ、力を貸して」
掌から放たれた光は、ただ癒すだけじゃない。
穢れの“記憶”ごと洗い流す光。
瘴気が震え、剥がれ落ち、獣の身体から黒い影が抜けていく。
巨大な獣はゆっくり膝をつき――最後に、低く哀しみの咆哮を上げて消え去った。
私はその場に膝をついた。
全身に重い倦怠が押し寄せる。
(……出せた。でも、削られた)
力を引き出すたび、身体が確実に摩耗していくのが分かる。
村は静けさを取り戻した。
空は少しだけ明るくなり、若者たちが祠の残骸を片づけ始める。
そのとき、小さな声が聞こえた。
「……おねーさんは聖女さま……?」
子どもだった。
(違う。私はただの人)
(でも、今は――こうするしかない)
私は笑って首を振り、村長に近づく。
ケープの内側から小さな布袋を取り出し、手渡した。
薬草と包帯、それに少量の回復薬。
「これで応急処置して。無理はしないで、今日は休んで」
できる範囲で手当てをしながら、私は祠の周囲をもう一度見回した。
そして――見つけた。
石の陰に落ちていた、黒い布片。
それと、血のように濃い粉が残る小さな小瓶。
さらに、歪んだ印が描かれた紙片。
教会の標章に似ている。
でも、どこか違う。
(……人為的な痕跡。しかも、“祈祷”めいた匂い)
村人に問いただすのは危険だ。
ここで噂になれば、仕掛けた側に気づかれる。
私はそれらを一つの布袋にまとめ、そっと隠した。
(証拠は持ち帰る。誰にも知られずに)
(今はまだ“影”だ。けど確かに、誰かが仕組んでる)
夜、村を出る前。
子どもが小さな手紙を差し出してきた。
裏に描かれているのは、白い羽根が一つ。
「いつか、また来てね。聖女さま」
胸が熱くなる。
でも私は、その小さな手をぎゅっと握り返すだけにした。
「またね。でも、私は聖女なんかじゃない」
言葉は少しきつく聞こえたかもしれない。
それでも続ける。
「……覚えておきなさい。強くなれ」
誰かの救いを待つだけじゃなく。
自分で立てるように。
村を離れる道中、肩に鈍い痛みが残っていた。
けれど胸の中には、確かな手応えがある。
(力は戻りつつある。だけど、まだ足りない)
(精度を上げないと、次は潰れる)
私は空を見上げた。
暗い夜空の向こう、海の方角に遠い灯がいくつか瞬いている。
海の向こう――セレスティアへと繋がる道は、まだ遠い。
でも、歩き出せば届く。
(まずは証拠を持ち帰ろう)
(次の手を考える)
(影は、見えないほど巧妙に動いてる)
私は歩き出した。
背後で、小さな村の人々が少しずつ日常へ戻っていく。
誰も、私が抱えた真実を知らない。
だけど、それでいい。
私の道は――まだ始まったばかりなのだから。




