計画の破綻
祥太郎はひとまず志穂へメッセージを返すのを保留して市立図書館へ向かった。
自転車を海側へと走らせ、家から五分とかからない距離にある。最近、外壁を白いペンキで塗り替えたばかりの建物の脇にある駐輪場に到着したところで、焦れったくなったのか、志穂から電話がかかってきた。出ないわけにはいかない。ため息を吐きながら、もしもし? と応じると、
『どういうこと?』志穂は挨拶抜きで切り出してきた。『なにがあったの? あんた以外、誰とも電話、繋がらないんだけど? 紗季姉にもだよ。なにがどうなってるわけ?』思わずスマートフォンを耳から遠ざけるほど大きな声。怒っているようだ。
「昨日、川見監督が殺されたって」
『それは知ってる。あんたたち一緒にいたんでしょ? なにか知ってるの?』
「知らない」と答えた祥太郎は、刑事に志穂の連絡先を教えたことを思い出した。「さっき警察が来て、事情聴取された。そのとき、連絡先教えたから、電話がかかってくるかも」
『え、誰の連絡先を教えたの?』
「志穂」
『なんでよ』さらにボリュームが増した怒鳴り声に祥太郎の鼓膜は破けそうになった。『私だってなにも事情知らないのに、勝手に巻き込まないでよね』
「巻き込んだわけじゃない。ファイターズの皆に事情を訊くんだと思う」
『てことは、監督を殺したのは元ファイターズの誰かってこと?』
「わからないけど、警察はそう考えてるみたい」
はあ、とため息。『でさ、なんで昨日、私らハブられたわけ? 私だけかと思ったら、萌絵も遥香も、女の子はみんな誘われてないって』
志穂が挙げたのはいずれも、〈平塚ファイターズ〉の元チームメイトの名前だ。
『そもそも、いままで大人数で飲み会することなかったけど、男だけでってどういうこと?』
「拓哉に訊いてよ」
『だから、拓哉に電話が繋がらないから、祥太郎に訊いてるんだって』
「わからない。ホントに。呼ばれて行っただけだから」
『あっそ』諦めたように志穂は声を落とすが、『今日六時から出勤だから、その前に飲もう。五時頃、家に迎えに行くから待ってて』そう命じると、祥太郎が返事をする前に通話を切ってしまった。
志穂の身勝手さを嘆くよりも、祥太郎は拓哉たちの動向が気になった。連絡がつかないということは、警察の疑念を強めることになってしまうのではないかと心配になった。
そもそも昨夜、拓哉たちは計画とはまるで違う行動を起こしていた。
『なるべく多くの人がいたほうがいいんだ。〈紋白蝶〉のママの目を誤魔化すために。だから、おまえも絶対に来いよ』
3日前、祥太郎のスマートフォンに見知らぬ番号から電話がかかってきた。バイト関係の電話かと思って出たら、拓哉がぶっきらぼうな調子で名乗り、久しぶりの挨拶もなく、川見の送別会に参加するよう強制してきた。よからぬことを企んでいると察し、なにをするつもりか訊くと、
『うるせえ、おまえには関係ねえ』と怒鳴られた。けれどすぐに冷静な声で『復讐だ』と告げられた。それだけで祥太郎には意味が伝わり、殺すつもりなのかどうか、震える声で訊いた。
『まさか』と拓哉は鼻で笑った。『やりたいのはやまやまだけどな。心配するな、犯罪者になるつもりはないし、おまえにも迷惑はかけない。ただ、足かせをはずすだけだ。みんなのな。だから、おまえも参加する義務がある』
具体的なことをいわれなくても祥太郎には通じた。共通の足かせなんて1つしか思いつかなかった。だから、送別会に参加するのは男だけだと聞いてもすんなり納得できたが、理解できないのは、なぜいまになってそれをしようと決断したのか、ということだった。
それから拓哉が簡潔に伝えてきた計画はこうだ。〈紋白蝶〉に集まり、川見に睡眠薬入りの酒を飲ませて眠らせ、拓哉、松本亮平、向井大介の3人でトイレへ連れて行き、窓から抜け出して、彼らのなりすまし要員として外で待機する四人と入れ替わる。ほかのメンバーは、紀子ママに酒を飲ませて記憶を曖昧にさせ、偽者の川見になるべく接近しないように気を配る。
そのあいだ、拓哉たちは車で川見を自宅まで連れて行き、川見が目を覚ましたところで〝足かせ〟をはずすよう命じる。川見が命令に従わなければ、〈紋白蝶〉で入れ替わりのトリックを使いアリバイ工作したことを伝え、『殺す』と脅す――。
事前に聞いた計画では、あくまでも威嚇するための入れ替わりトリックだった。だから祥太郎は昨夜、四人のなりすましメンバーがトイレから戻り、紀子ママに気づかれた様子がないことを確認すると、自分の役目は終えたと判断して店をあとにしたのだった。なにもかも予定どおりに運んでいれば、途中で彼らと遭遇して、あんな場面を目にすることにはならないはずだった。
それなのに、と祥太郎は昨夜のことを思い出してしまい、ぎゅっと両目をつぶって下唇を噛んだ。
――なぜ拓哉たちはあんなところにいたのだろう? どうしてあの人は川見を殺したのだろう?
雨のなかを自宅まで逃げ走ったときからいまに至るまで、その疑問が頭のなかで何度も浮かんだものの、答えはわからなかった。
とくに後者の謎については、なにかの弾みで拓哉たちが犯行におよんだのなら、祥太郎もまだ理解できた。けれど、真犯人が川見に殺意を抱いた理由についてはさっぱり見当がつかないし、そもそもあそこにいたこと自体も不思議だった。
――まさか拓哉たちが呼んだのだろうか? なんの目的で?
いくら考えてもわからない。彼らに訊かなければ。けれど志穂によれば、拓哉たちに電話が繋がらないという。警察からの連絡を恐れてのことだろう。
そう考えたところで、祥太郎は先程、刑事に自分の電話番号を教えてしまったことを思い出した。事件について訊くため、頻繁に電話がかかってくるかもしれない。調べものをしている最中に邪魔をされるのは面倒だ。そう思い、スマートフォンの電源を切ってから図書館内に入った。
年金暮らしの老人たちで席が埋まる雑誌と新聞の閲覧コーナーを素通りして、美術本が収められた書架のまえで立ち止まった。
背表紙に『ピカソ』の文字が入った書籍は5冊あった。それから『モナ・リザ』のみにフォーカスして書かれた専門書が1冊。祥太郎はそれらをまとめて抜き取ると、1人用の学習席に移動して、まずはピカソの伝記本を開いた。
生い立ちに興味はない。故郷のスペインからフランス・パリへと移住して以降のことが書かれたページへと飛び、見つけた。時系列で記すと、
・1911年8月22日、ルーブル美術館から『モナ・リザ』が何者かによって盗まれた。
・同年9月7日、ピカソの友人で詩人のギヨーム・アポリネールが、『モナ・リザ』盗難の容疑者として逮捕。
・その2日後、ピカソも『モナ・リザ』盗難の容疑で逮捕された。
ということだった。
ピカソ関連の書籍にはいずれも、それ以上詳しいことは記述されてなかった。けれど、『モナ・リザ』について書かれた専門書には、ピカソが逮捕されるに至るまでの経緯が、もうすこしだけ詳しく記載されていた。
ピカソには以前、ルーブル美術館から盗まれたフェニキア美術の石彫を、盗品とは知らずにギヨーム・アポリネールから1個50フランで購入した過去があった。その石彫を盗難した実行犯の男が、パリ=ジュルナル紙の記者に過去の犯罪を暴露したことにより、8月29日付の同紙によって報じられてしまった。これが契機となり、その盗難者と過去に関係のあった人物が『モナ・リザ』窃盗の容疑をかけられることになった。
さらに、ギヨーム・アポリネールは以前、『すべて美術館は想像力を麻痺させるものであるがゆえに破壊さるべき』と過激に論じたことがあるため、ルーブル美術館に危害を加えるために犯行におよんだのではないか、と疑われて逮捕。芋づる式にピカソも捕縛されてしまった、という経緯だった。
結局、証拠不十分で2人は釈放。その後、警察が血眼になって捜索したものの、『モナ・リザ』の行方は杳として掴めなかった。
事態が急展開を迎えたのは事件発生からおよそ二年後。レオナルド・ダ・ヴィンチが『モナ・リザ』を制作したイタリア・フィレンツェで発見された。犯人は以前、ルーブル美術館に展示されている作品に防犯用のガラスを取り付ける作業で雇われたことがある、イタリア人のビンセンツォ・ペルージャという建築塗装人の男だった。つまり、ピカソが逮捕されたのは完全に濡れ衣だったのだ。
1914年1月4日に『モナ・リザ』がルーブル美術館に無事に戻ったことを確認すると、祥太郎は一旦大きく伸びをして、バックパックから川島章吉の日記帳を取り出した。名筆による日々の記録は、1911年の4月10日にはじまり、その年の大晦日まで、日によって内容の多寡はあるものの、ほぼ毎日のペースで綴られていた。
ということは、章吉は当時パリで大騒ぎになったであろう、『モナ・リザ』喪失事件の真っ只中にいたわけだ。それならば当然、日記にそのことを記してあるに違いない。しかも、東京23区のおよそ六分の一ほどの面積しかないパリ市内に住んでいたのだ。もしかしたらピカソと面識があり、どこかにその記述があるかもしれない。
祥太郎は手帳のページを開き、黄ばんだ紙に丁寧な字で書かれた文字をゆっくり目で追った。見慣れない漢字や古文書を読むような堅苦しい文章も、そのどこかにピカソの存在が潜んでいるのではないかと思うと、黄金の文章が羅列されているように感じられ、次第に宝探しをするような高揚感が胸のうちに湧いた。読書に集中すればするだけ、川見殺害事件に関する煩いごとが頭のなかから消え去った。
そして祥太郎はついに見つけた。『May,16』のページ。章吉がフランスに到着して1ヶ月弱が経過した5月16日付の日記に、〝パブロ・ピカソ〟と明記されているのを発見したときは、思わず歓喜の声を漏らしそうになり、あわてて両手で口をふさいだ。
ちなみに、ピカソと知り合うまで章吉がなにをしていたかというと、4月10日にル・アーブル港から汽車に乗り、約4時間かけてパリ市内にあるサン・ラザール駅に到着。駅近くの安宿を拠点として、ルーブル美術館やエッフェル塔、凱旋門、ノートルダム寺院、シャンゼリゼ通りなど、観光名所巡りを楽しんだということだった。
パリ到着から1週間が経った頃、章吉は念願だった、パリ18区モンマルトルの『洗濯船』に、狭いながらもひと部屋を借りることができた。この『洗濯船』とは、ピカソやジョルジュ・ブラック、モディリアーニらのちの巨匠が住み、ギヨーム・アポリネールやジャン・コクトー、アンリ・マティスら、20世紀初頭を代表する芸術家たちが活動の拠点とした集合アトリエ兼アパートの呼び名だった。
その名づけ親は詩人のマックス・ジャコブ。当時のパリは上下水道の設備が整っておらず、セーヌ川で洗濯をするために洗濯婦が乗り込む平底船が、モンマルトルのある右岸に何十隻も浮かんでいた。その船と、貧しくも精力的な芸術家たちがひしめき合い暮らすアパートの様子とが似ていた、というのが名称の由来だった。
この『洗濯船』にピカソは、1904年4月から住みはじめ、ジョルジュ・ブラックとともにキュービズムの画法を確立して富と名声を手に入れ、クリシー大通りにあるお手伝いつきの広いアパートに引っ越す1909年までの約5年間、当時の恋人だったフェルナンド・オリヴィエとともに濃密な青春時代を過ごした。
つまり、章吉が居を構えた1911年にはすでに立ち去っていたのだが、アトリエだけは1912年まで賃貸契約を結んでいたため、『洗濯船』を利用していた。
そしてまさしく、章吉とピカソの初対面の場となったのは、その『洗濯船』だったらしい。
『May,16』のページを開いた瞬間、まるでそこだけが光を放つように、文中に、『パブロ・ピカソ』の名前を見つけた祥太郎は、以降の文章を集中して目で追った。
『廊下から女人の凄まじき喚き声が聞こえてきた。不本意ながらも目を覚ました我だが、頭の中でまるで西班牙の美女が四ツ竹を打ち鳴らす如く、血液が激しく脈打ち痛くて枕から頭を上げられなかった。
『洗濯船』に越して来て早1ヶ月。隣室に住みし画家のピエール氏に油彩画を学び、気の赴くままに絵を描く以外、日中はモンマルトルの丘に建つ白亜の寺院サクレ・クール周辺を散策して回り、日が暮れし頃には珈琲店や居酒屋を数軒、酔い潰れるまで巡る日々を送っている。
昨夜はレストランでまず食前酒アペリチフを飲みて食慾を増強し、2フラン半の定食タアブルドオトで腹を満たした後、見世物小屋『地獄極楽』にて、種々の奇天烈なる人や動物を見て唖然とせし。
その後、バル・タバランなる舞踏場に移動し、胡弓の調べや蓄音機が奏し流行唄に耳を傾けつつ、朝まで珍しき橙子や杏実の酒を飲みて今に至る。部屋に籠りて鬱屈した日々を送っていた亜米利加時代とは至極真逆だ。華やか乱舞な生活に染まりて我は満足なり。
それはさて置き、部屋の外では相も変わらず女人が荒れ狂い、誰かを罵っては壁を殴り、床を踏む音聞こえたり。
疾風怒濤なるその怒声の合間に時折、反論の隙を窺うような男の声が聞こえるが、嵐の如き女人の罵詈雑言に蹴散らされ、反旗を翻すに至りはしない。女人の声は我の鼓膜をも破壊せんとし、枕で耳を覆いてもまるで効果なし。よもやの事態に呆然とす。
シテエ島にあるノオトルダアム寺院の鐘に等しき重い頭を持ち上げ、ベッドに腰掛けし我は、脳中に鳴る四ツ竹の音を払拭せし為、少時、シガアの煙を燻らせた。
廊下の女人は猶も猛り、『洗濯船』の住人、誰も関わらず。唯、嵐が過ぎ去るまで看過する意向と見たり。
されば我、喧嘩を制圧せんとし、扉を開けし。廊下の奥は、噂に聞きし西班牙の新進気鋭なる画家、人間をぶつ切りにし、福笑いの如く再加工して描く、キュービズムなる奇抜な画法を編み出した、美術界を騒然とさせる異端児パブロ・ピカソのアトリエがある。
その前に、我と変わらぬ年恰好の男女見つけたり。金髪で痩身なりし女人、我に背を向け、その陰に男の姿は隠れている為、両者の顔はまったく見えず。従って、ピカソ当人かも判定できず。唯、女人の優勢は一目瞭然なりし。
やがて、
「あんたとはこれで終わり。金輪際、関わりたくないわ!」
女人は唾棄し、くるりと振り返り、我の方へと歩き来る。杏実の形をした瞳は翠玉の如く緑色を成し、誠に美貌なれど、表情は鬼神の如し。
「フェルナンド!」
男が叫び呼び止めようと試みるも、女人は鼻息を荒々しく吐き出して憤怒。
「邪魔!」
何の罪もなき、廊下に置かれし鉄板製の塵桶を蹴散らして立ち去る。台風一過。静まり返りし廊下の奥で男1人、掏摸に遭遇した阿呆のようにぽっかりと開口したまま佇んでいる。我と変わらぬ身長。漆黒の髪は額と突出した耳にかかり、瞳は黒く、肩回りは頑強としている。手は女人の如く美しい。果たして彼がピカソか否か。一瞬の間、逡巡した我だが、この好機を逸するべからずと思い、勇気を奮いし。
「もしや貴君、ピカソさんではないですか?」
我の声に男は、たった今目覚めた如く瞠目せし。途端、鴉色の瞳に力強き光宿り、誰何する如く我を見たり。彼こそがピカソなりと確信し我は、胸に熱が迸るのを抑え切れず。
「嗚呼! 貴君の名を聞かぬ日はないほど、毎日のように噂は耳にしています」
我はピカソの小さき手を掴み、日本から訪れし某であると自己紹介した。するとピカソ、我が祖国の浮世絵に興味あるらしく、目を一層見開き、喜多川歌麿、東洲斎写楽、菱川師宣らの名前をすらすらと述べ、我は驚嘆するばかり。
「そうだ!」
すっかり興奮の様相を呈したピカソ、激しく手を叩き、
「日本人なら漢字は書けるだろう?」
勿論なりと我が応答すると、ピカソは「ちょっと待っててくれ」と自らのアトリエに姿を消し、間もなく一枚の真っ新な帆布を抱えて戻ってきた。
「これに漢字を書いてくれ」
我に鉛筆を渡すピカソの瞳は少年の如くきらきら輝きしも、我はその理由が掴めなかった。
「どうして?」
「絵の中に文字を散りばめる新たな手法を、ジョルジュとともに考えついたんだ。今、取り掛かってる作品に、漢字が合うか試してみたい」
なれば、ピカソの作中に我が教授し漢字が採用される可能性があるということ。俄然、我の胸は高鳴りしこと云うまでもなく。
「何の字を書けばいいですか?」
「何でもいい。そうだな、きみの名前を書いてみてくれ」
我は震える手で『川島章吉』と書いた。
「うん。素晴らしい」
ピカソ満足の様子に、我は自分の名前に生涯で最高度の誇りを抱き、故郷の両親に感謝しきりなり。
ピカソはアトリエに姿を消し、空手で戻った。我、不図思い立ち、勇気を奮いて悩みを問うことにしたり。
「最近、そこに住むピエールさんから油彩画を学んでいるのですが、中々、自分の思うままに上手く描けません。どうしたら上達するのでしょう?」
我の質問を受けしピカソ、急に真面目腐った顔になり、我に近づき両肩を万力の如き力で掴んだ。接吻でも迫るが如く顔を近づけ一言。
「描きたい物を描け。絶対に上手く描こうとするな。そんな邪心を抱きながら描いて何が楽しい? 心から楽しまなきゃ意味がない。誰かに褒められたいだとか、けなされたくないだとか気にするな、バカらしい!」
憤然としたのかと疑うほど猛烈なる調子で言い、ピカソは疾風の如く立ち去りし。我はその後ろ姿を呆然と見送り、芸術の神から天啓を受けし気分に耽った。
思えばピエールに与えられし課題は、卓に放置し桃や梨を只管に素描するのみ。基礎を積むは大事なれど、至極退屈なり。退屈なれど師の教えと我慢し続けたり。我慢の中に楽しみは無きにけり。
「描きたい物を描け」
「心から楽しまなきゃ意味がない」
ピカソが我に贈りし言葉が脳中に蘇り、燐寸の如く我の心に芸術の火を灯したり。居ても立ってもいられず、我は自室に戻り、林檎を描いた帆布を破りて、画架の上に新たな帆布を置きて、心臓高鳴るのを感じた。その心、新大陸を目指し出航せし探検家に似たり』
そのページはそこで終わり、読み終えた祥太郎は呆然自失。かるく酔いが回って頭がくらくらするような感覚を抱いた。まさか本当に章吉がピカソと会っていたなんて。それも会話まで交わし、曲がりなりにもピカソからアドバイスをもらっている。信じられない。ただの創作ではないか。祥太郎は疑い、そのページを何度も読み返した。真偽はわからないが、読み返すたびに、
『描きたい物を描け』
その言葉が、時空を超えてピカソ本人から語りかけられているように心に響いた。祥太郎が頭のなかでつくりあげたピカソは、さらにこう続けた。
『ゲルニカの模写ばかり続けて楽しいのか?』と。
楽しくて描いているわけじゃない。それは祥太郎自身、理解していた。ただ、『ゲルニカ』を模写することで不思議と精神が安定するのだ。そのために10年以上、飽きもせず日課にし続けてきた。そして、ほかの絵を模写するだけでなく、自分が描きたい絵を自由に描くことも、なにか心にブレーキがかかるようになってしまい、一歩踏み出せずに過ごしてきた。
だけどいまなら――。
祥太郎は、ドクンと1つ大きく胸に鼓動が打つのを感じた。ピカソの言葉に背中を押され、いまなら楽しむためだけに絵を描けるのではないか。黒と白、藍色以外の絵の具も使って、色彩豊かな作品に取り組めるのではないか。そして12年前の事件以来、ずっと遠ざかっていた父親のアトリエのなかにも入ることができるかもしれない。
ただ、なにを描けばいいのだろう? 自分が心の底から描きたい対象物がなんなのか、すぐには思い浮かばなかった。
では、ピカソの助言を受けた章吉は一体なにを描いたのか。次のページを開こうとしたところで、ふと窓の外がすっかり暗くなっていることに気づいた。
顔を上げて壁時計を見ると、18時を10分ほど過ぎていた。志穂の怒る様子が、ピカソに激怒したフェルナンドの姿にリンクして、祥太郎はあわてて立ち上がった。
章吉の日記帳をバックパックのなかにしまい、ピカソの伝記本と『モナ・リザ』の専門書は参考のために借りていくことにした。
スマートフォンの電源をつけるが、立ち上がるのに時間がかかった。家まで自転車で飛ばせば5分もかからない。祥太郎は電話をせず、すぐに帰ることにした。
息を切らし自宅に到着すると、暗がりのなかに青白い光が浮かび、やがて薄い煙が立ちのぼるのが見えた。祥太郎が意図したわけではなく、自転車のヘッドライトが、母屋の縁側に腰かけ電子たばこを燻らせていた志穂の顔を真正面から照らしてしまい、
「眩しい!」怒られてしまった。
「ごめん」祥太郎は志穂の目の前に自転車を停め、庭の電気をつけた。
「遅いよ、何時だと思ってるの?」
フェルナンドとおなじく金色の髪の毛を肩まで伸ばし、派手なギャルメイクを施した志穂の顔は、鬼神のごとく怒りの表情を浮かべていた。
ごめん、ともう一度謝ろうとした祥太郎は、脇から気配を感じて身構えた。拓哉たちに待ち伏せされたのかと思ったからだ。全身が強張るのを感じた。
「あ、ごめん」と志穂がなぜか謝った。「祥太郎と連絡が取れないっていうからさ、ここで待ち合わせしてるの教えちゃった」
「そういうことなんだ」と続けて男の声。暗がりから現れた男たちの姿を見て、祥太郎はひとまず安堵したものの、すぐに気を引き締め直した。
「ほら、なにやってるの」志穂が肩を握り拳で小突いてきた。「寒いから家のなかに案内して、お茶くらい出してあげなさいよ」と命じる言葉の裏に、祥太郎はなにか企みがあるのではないかと感じた。