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捜査会議

 昨夜の豪雨が嘘のように晴れ渡った翌朝、犬の散歩中だった主婦が、花水川のなかに寝そべる白髪頭の男性の姿を認めた。目を見開き、口をぽっかりと開けたままの状態で表情は固まり、左胸にはナイフの柄が突き立ち、そこから流れ出た血液によって、クリーム色のセーターが真っ赤に染まっていた。死んでいるのは明らかで、主婦は震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、警察署に通報した。

 この報せを受け、まず最寄りの交番から巡査が現場へ急行し、通報に間違いはないと確認すると、次に警察署の刑事部機動捜査隊が初動捜査にあたり、検死の結果、他殺体と断定。重大な殺人事件とみなし、刑事捜査一課が始動すると同時に署内に捜査本部が設置され、昼過ぎには県警本部から数十名の捜査員が招集されることになった。


「嘘でしょ……」

 所轄と本部の刑事が顔を合わせ、初めておこなわれる捜査会議の直前、会議室が雑然とするなか、同僚の手から回ってきた、ホチキスで留められた捜査資料の1ページ目に視線を落とした、県警本部刑事部捜査第一課の沢北将也は、被害者の欄に『川見雅嗣』の名前を見つけ、愕然とした。

「なんだ、まさか知り合いか?」

 隣に座る先輩の永田剛志が、眉間にしわを寄せた顔を向けてきた。タワシのようにゴワついた髪の毛を短く刈り上げ、耳はカリフラワー状になっていて、ごつごつした岩のような顔をしているだけに、近くで見ると威圧感が増す。年齢は自身より4つ上の32歳だが、すくなくとも二、三歳はサバを読んでいるのではないか、と沢北は密かに思っていた。

「少年野球の有名な指導者ですよ。プロを何人か輩出してて、僕が子どものときはよくマスコミから取材を受けてました。指導本も何冊か出してます。リトルリーグ時代の監督がそれを参考にしてました。ああ、ほら、横浜マリンスターズのエース。佐々木圭吾も川見監督の教え子ですよ」

「へえ、そういやお前、元甲子園球児だったな」

 万年補欠だったけれど、という真実は明かさず、沢北は神妙な顔をして頷いた。

「甲子園球児なんて、両手にあまるくらい輩出してるんじゃないですかね。でもやっぱりそのなかでも、佐々木が頭ひとつ抜けてます」

「だけどそいつ、今シーズンは苦しんでるんだろ。2年目のジンクスとかで。野球はよくわからんが、よくスポーツ新聞で目にする。マウンド上でうなだれてる姿をな」

 永田は柔道一筋四段の猛者だが、それ以外のスポーツにはまるで興味がなかった。それでも名前を知っているということは、佐々木がそれだけメジャーな選手ということだ。

「2年目ってことは、いまハタチくらいか」

 早くも捜査資料の2ページ目に目をとおしている、おなじく沢北の先輩の宮本広治が、反対隣から口を挟んだ。こちらは剣道五段の手練れだ。野性味にあふれた永田とは対極的に、宮本は理知的だが鋭利な緊張感を全身から漂わせている。二人ともノンキャリアの同期で同い年。なにかといえば競い合う傾向があった。

 沢北は即座にスマートフォンを取り出してネット検索をかけた。

「そうですね、現在ハタチです」

 それがなにか? と訊きたいのをぐっと堪えてページをめくると、すぐにその理由がわかった。川見は昨夜19時から、佐々木と同年代の教え子たちが開いた送別会に参加していた旨が記載されていたからだ。資料にはほかに、川見が2年前に妻を亡くし、半年前に肺に癌の病巣が発見されたことも記されていた。

「指導者の道から退いて、治療に専念しようとした矢先での事件ですか」資料に目を落としたまま呟いた沢北は、ハッとして顔を上げた。「まさか教え子たちが?」

「安直だな」永田が鼻を鳴らす。「思い出してみろ、自分の学生時代を。部活の顧問にいくらしごかれても、殺意なんて湧かなかっただろ? 理不尽に先輩風を吹かす上級生に対しては、殺してやりたいと思ったことはしょっちゅうだったが」

「とても刑事の発言とは思えんな」と宮本。

「黙れ」

 お馴染みの水と油コンビの言い合いを聞きながしながら、永田の指摘にはたしかに一理あるな、と沢北は内心で密かに頷いた。自身の経験を顧みて、肉体の限界まで鍛え抜くような厳しい練習メニューを課せられても、監督やコーチに対して殺意を抱いたことはなかったと気づく。とくに少年時代は年長者のいうことは絶対であり、全国的に知名度のある川見に対して反抗心を抱く子どもなどいなかったのではないか。そう考えた。一方で、なにかと雑用を押しつけ、気分次第で暴力を振るう何人かの先輩に対しては、本気で殺してやりたいと思ったことが何度かあったことを思い出した。

「仮にその推理が正しいとしたら」宮本は捜査資料に視線を落としたまま続けた。「余程の理由があってのことだろう」

 教え子が、よりによって送別会当日に恩師の命を奪う。その動機にはなにが考えられるのか気になり、沢北が宮本のほうを見て口を開きかけたところで、

「静かに。会議をはじめる」

 威厳のある声が響き、沢北の直属の上司である管理官の相葉統和が姿を現わした。

 出世街道を突き進むキャリア組のエリート。研究者を思わせる色白な細面は、肌艶がよいため三十九歳という実年齢から六歳は差し引いても通じそうだが、流行りの韓流アイドルのようにセンター分けした髪の毛には幾筋か白い物が混じり、ちぐはぐな印象を受ける。しかしそれが一種独特の雰囲気を醸し出し、頭脳明晰かつ判断力に優れているため、年上のノンキャリア組の部下からも一目置かれる存在だった。

 相葉という男をなにより端的に表しているのは目だ。くっきり二重で大きく、吊り上がり気味で鋭いが、瞳の奥には深海の底のような暗い静けさが潜んでいるように見える。その目で見つめられるたび、沢北はいつも、なにもかも見透かされるような気分に陥った。

 その相葉が全身から電流が迸るのが目に見えそうなほどの緊張感を漲らせて登場したため、その空気は瞬く間に室内に伝染して、一瞬で静まり返った。

 全員が姿勢を正して見つめるなか、髪の毛をうしろに撫でつけた眼光鋭い男、所轄署の署長を務める桑田和真が相葉に続いたことで、室内のムードはさらに引き締まった。年齢は50代半ばから後半といったところ。管轄内で起きた殺人事件に責任を感じ、必ずやホシを挙げてやる、という強い意志が感じられる表情を強面に浮かべていた。

 本部と所轄合わせて数十名からなる捜査員と対面する位置に、相葉は桑田と肩を並べ着席した。

 現在までに調べがついている捜査情報は、相葉の背後にあるホワイトボードに羅列されている。その傍らに書記係が立つと、相葉は挨拶もそこそこに早速本題に入った。

「今朝、市内西域を流れる花水川で他殺体が見つかった。被害者の名前は川見雅嗣。正業は鍼灸師。自宅の敷地内で診療する傍ら、30年以上にも渡り、平塚ファイターズという学童野球クラブの指導者として活躍してきた。ここ最近、その座を後進に譲り、昨夜はかつての教え子たちに送別会を開いてもらっていた。場所は〈紋白蝶〉という名のスナック。駅から徒歩五分圏内の場所にある。時間は19時から22時まで。店内の防犯カメラの映像を入手したから、まずはそれを見てくれ」

 相葉の合図で室内の電気が消され、雑務係によってプロジェクターの電源が点けられ、ホワイトボードの横に垂れ下がったスクリーン上に映像が映し出された。〈紋白蝶〉の店内を天井の隅から俯瞰して撮影されたもので、カメラは昔からのかなり古い機種を使用しているらしく、画質はだいぶ粗かった。5人掛けのカウンターとボックス席が3つある店内には、ガタイのいい若者がひしめき合っているが、カメラの設置場所が悪いこともあり、それぞれの顔はほとんど認識できない。画面の右端には19時をすこし過ぎた時刻が表示されていた。すでに乾杯を終えたようで、各自飲みはじめ、席を移動している者もいた。

「飲み会に参加したのは、被害者を含めて全部で26名。カウンターの向こうに立つ老婆はこの店のママだから人数に含めない」

 つまりいま、画面上には計27名が映っていることになり、沢北は目算で素早くその通りであることを確認した。そして、相葉の口ぶりから、このなかに容疑者がいる可能性が高い、というニュアンスを感じ取り、集中して映像を見つめた。野球でずっと外野を守っていたお陰か、視力には自信があった。

 ほかの捜査員たちも相葉の意図に気づいたらしく、室内がすこしざわついた。沢北の隣では、

「容疑者が映ってるのか?」と永田が首を傾げ、

「だとしたら本部を開くことはないだろ。所轄だけですぐに解決できるはずだ」宮本が冷めた口調で指摘した。

 その通りだ、と沢北は気づかされ、相葉の思惑をもう一度、推察し直してみるがわからなかった。

「静かに」という相葉の一言で、室内は再び静寂に包まれた。

「被害者はここに座っている。帽子をかぶっている人物だ」相葉はレーザーポインターで、ドアから一番離れた奥のボックス席に座る人物を示すと、隣にちらっと目配せをした。

 以心伝心、桑田署長が左手でリモコンを掴み早送りをする。

 スクリーン上で若者たちの宴の様子が倍速再生されるなか、なにが映し出されるのかと、捜査員たちが固唾を呑んで見守っていた。そのあいだ、映像内の川見は一度も席を立たず、両脇を固める2人にビールを注がれ、すぐに飲み干しては注がれ、という流れを繰り返していた。早送りで見ていることを差し引いても、かなりハイペースに見えた。下戸の沢北からすれば、見ているだけで吐き気が込み上げてくる。昔話に花が咲いて盛り上がっているのだろうか。じきに殺される運命とも知らずに。

 ――ん?

 そういえば、川見は何時に殺されたのだろう。沢北は疑問を感じ、資料に目を落とすが暗くて字が見えなかった。

 やがて、桑田が再生ボタンを押した。画面の右上には19時42分と表示されている。

「ここで被害者は、周囲にいる3人に付き添われてトイレへ行く。足元が覚束なくなるほど、だいぶ酔っていたようだ」

 相葉の説明通りの動きが、5秒ほど遅れて画面上で展開された。その直後、ママが5、6人に囲まれビールを注がれる様子が映し出された。

 ――まさか、この間に川見はトイレで殺害された? 

 そう推理したのは自分だけではないのではないかと沢北は予想した。周囲の空気がピリつく雰囲気を感じ取ったからだ。

 だが、その予想を裏切り、数分後にトイレのドアが開いて、川見を含めた四人が姿を見せて元の席に戻った。川見はコップを手にするものの、明らかに先程と比べて飲むペースが落ちていた。

 それからまた早送りされ、途中でママがカウンターに肘を突いて居眠りしてしまう様子が映し出された。珍しい光景ではないのか、その周りで若者たちは構わず騒ぎ続け、自分たちで食べ物や飲み物の補充をしていた。

 やがて、川見の真正面に座る男が1人立ち上がり、誰に挨拶するでもなく外へ出て行く直前、桑田が停止ボタンを押した。時刻は20時10分。その男のうしろ姿をレーザーポインターで丸く囲んだ相葉から、

「沢北!」

 突然、自分の名前を呼ばれた沢北は、心臓が停まりそうになるほど驚き、

「あっ、は、はい!」と慌てて返事をしたことで周囲の視線を集めた。

 だが、沢北への注目は、

「ヌクミズ」と呼びかける桑田の声で前方へ散った。沢北の耳には聞こえなかったが、誰かが返事をしたらしい。所轄の刑事たちのシルエットがいくつか動くのが見えた。

「この男の名前はフジタショウタロウ。2人には、この男の身辺を洗ってもらう。詳細は手元の資料の3ページ目に記載されてる」

 相葉からの命令に返事をした沢北は、資料のページをめくるも、暗がりのなかでは文字を目で追えなかった。バディを組むことになるヌクミズという所轄の刑事の姿を見たくても、こちらも電気が点かなければ確認できない。歯がゆく思い、せめて資料に関してはスマートフォンの懐中電灯機能を使って灯そうかと迷ったが、桑田が再生ボタンを押したために自重した。担当を忘れないように、頭の中でフジタショウタロウ、ヌクミズの名前を繰り返して覚えた。

「このあと、解散するまで人数は変わらない」

 相葉のその言葉を聞いた途端、なぜか所轄の刑事たちがざわつきはじめた。

「なんだ?」と永田に訊かれるが、沢北が知る由もなかった。

「静かに」という相葉の注意でざわめきは収まったが、所轄の刑事たちは顔を見合わせ、互いに首を傾げ、無言で会話をしているようだった。

 桑田が構わず早送りのボタンを押し、やがてスクリーン上に映る全員が荷物を手に立ち上がり、解散ムードが漂う場面で再生ボタンを押した。時刻は21時55分を示し、何人かが肩を揺り起こすまで、ママはずっとカウンターで眠りこけていた。

 飲むペースを緩めたとはいえ、川見も足腰にきているらしく、トイレに付き添った3人に身体を支えられながら店をあとにした。

 全員が店の外に出て、開放したドアからママが手を振る様子が映し出されたところで、桑田が一時停止ボタンを押した。

「みんな、ここを見てくれ」と、相葉は右上をレーザーポインターで丸く囲んだ。時刻は22時を過ぎていた。

「そんなはずないですよ」堪らず、といった感じで、所轄の刑事のなかから声が漏れ、「すみません」とすぐさま謝罪の言葉が続いたが、周囲の同僚も混乱している様子が、暗闇のなかでも把握できた。

「そういうことか」宮本が呟いた。

「なにが?」と沢北よりも先に永田が訊くも返事はなく、

「検死の結果によれば」

 相葉が口を開いたことで、全員の耳目がそちらへ向けられた。

「被害者の死亡推定時刻は20時から20時40分とのことだ」

 所轄の刑事たちを困惑させた原因がわかったらしく、今度は沢北の周囲も騒然となった。それが号令となったように電気が一斉に点けられ、沢北は眩しさに顔をしかめた。光に慣れると、無表情のままの相葉、苦虫を噛み潰したような桑田と、まるで対照的なボス二人の顔が見えた。

「手元の資料、2ページ目を見てくれ」

 相葉の指示に全員が従い、室内に紙をめくる音が響いた。

「ああ……」

 沢北は納得の吐息を漏らした。所轄の刑事たちが動揺した原因を、宮本がいち早く察知した理由がわかったからだ。そのページには、川見の死亡推定時刻が記されていた。

 だが、それとは別の欄に、

『22時、スナック〈紋白蝶〉を出てタクシーに乗る?』

『22時12分、タクシーで自宅に到着?』

 まるでパラレル・ワールドを生きる、もう1人の川見が存在したことを疑うように、クエスチョンマーク付きで、そう記載されていた。冗談のような話だが、実際に防犯カメラに川見らしき人物が映っている以上、初動捜査の段階で無視するわけにはいかなかった。

「いっておくが、被害者は双子ではない。ましてや3つ子でも。兄弟は1人もいない」相葉は大真面目な顔をしていった。「なにか小細工がされたとしたら、トイレへ連れて行かれたタイミングだろう。ママに確認したところ、アルコールが回ったせいで、昨夜のことはほとんど記憶にないらしい。タクシー運転手も、被害者は眠っていたらしく、顔はよく見なかったそうだ」

 各自が小さな声で推理をはじめるが、数十人が一斉に口を開けば、囁き声でも騒音になる。

「静かにっ!」

 相葉がひと際大きな声で注意を促すと、一瞬で私語は止んだ。

「これから各担当を伝える。次のページを開いてくれ」

 相葉の言葉に再び全員が反応して、室内に資料をめくる音が満ちた。

 3ページ目を開いた沢北は目を剥いた。そこには昨夜の送別会に参加した教え子を含め、川見の知人の名前が記載されていたが、学童野球の指導者として高い知名度を誇り、多岐に渡るパイプがあっただけに、パッと見ただけでも数百名以上の名前が連なっていたからだ。現在進行形で親交の深い知人は絞り込めるだろうが、その作業だけでも途方に暮れそうになった。

 だが、1番に疑われるのはやはり、昨夜の送別会に参加していたメンバーだろう。被害者の知人や交友関係を洗う鑑取り捜査の役割を発表しはじめた相葉が、まず口にしたのは、送別会を途中で退席した人物――藤田祥太郎――の担当を任す沢北、ヌクミズリュウジの2人だった。

「……はい」

 相葉に名前を呼ばれ、覇気のない声で返事をした、前方に座るヌクミズのうしろ姿を、沢北はじっと見つめた。普通、ペアが発表されると、相棒を確認するものだが、ヌクミズはその素振りをまったく見せず、うしろを振り向かないため、顔がわからなかった。白髪が何本か目立つ後頭部は、つむじの周辺が薄くなりはじめている。年齢は40代前半くらいだろうか。小柄な上になで肩で、声も小さくいかにも頼りない。人は見かけによる、というのが、これまで何人もの犯罪者に接してきた沢北の持論だった。だから、相棒に対してひと目で不安を抱いた。

 沢北の心中を察したのか、

「頑張れ」と小声で励ましてきた永田には、川見がトイレに行くときに付き添っていた森拓哉という青年への事情聴取が命じられた。

 その森とともに川見の身体を支えてトイレに行った、松本亮平という青年への聞き込みを、宮本が請け負うことになった。

「このなかに犯人がいれば、早期解決になりそうだが」と宮本が呟いた。その口調には、送別会に参加してない別の誰かを疑うニュアンスが感じられ、沢北は捜査が長引くのではないかと嫌な予感を抱いた。

「死体発見場所は被害者の自宅から徒歩で200メートルと離れていない。被害者は犯人と自宅で会い、なんらかのトラブルで花水川まで逃げたのかもしれない。だが、昨夜の豪雨によって足跡はまったく残っていない状況だ」

 捜査員の役割分担の発表を終えた相葉がトーンを変えて説明を続けた。

「それから、検死の結果についてだが、5ページ目を開いてくれ」

 一斉にページをめくる音。最上部に『死亡診断書(死体検案書)』と記された紙に、沢北はざっと目を通した。『死亡の原因』の欄には、『胸部を刃物で刺されたことによる失血性ショック』と記述されていた。

「胸に刺さったナイフの角度から、犯人は左利きの可能性が高いそうだ。柄の部分の指紋は拭き取られていたが、わずかに断片が採取できた。ただ、照合するデータはなかったそうだ。それと、被害者の全身に痣が散見された。生活反応が認められ、痣の度合いは一定ではないことから、複数人によって殺される前にリンチされたのかもしれない。また、被害者のポケットからはスマートフォンと財布が発見されたが、紙幣もクレジットカードの(たぐい)も手つかずだった。以上を踏まえて、断定はできないが、殺しの動機は怨恨の可能性が高いと考えられる。とくに昨夜の送別会に参加したメンバーの鑑取りを任された捜査員は、相互で綿密に情報交換をするように。そして都度、私への報告を徹底して欲しい。以上だ。なにか質問は?」

 沈黙。疑問点がないわけではなく、訊きたいことは山ほどあるが、まだ手探り状態のため、なにから訊けばいいのかわからない。そんな様子で、あちこちに囁き声が広がった。

 そのうち、

「あの、ちょっと」と永田が挙手した。

「なんだ?」

「スナック……えっと、〈紋白蝶〉のトイレから直接、外に出ることは可能なんですか?」

「トイレには人が出入りできる大きさの窓があるが、外からアルミ製の面格子が取り付けられている」相葉の代わりに桑田署長が答えた。

「その面格子の取りはずしは?」

「あくまでも視覚的、心理的な防犯目的のため、ドライバーを使って取りはずすことは可能だ」

「それは、トイレの内側からもですか?」

「不可能ではないが、ネジは外壁に付いているから、相当に手こずるだろう」

「では、共犯者が外から面格子をはずして、被害者と、それからトイレに付き添った3人、計4人が入れ替わることも可能だったわけですね」

「不可能ではない。被害者の死亡推定時刻と照らし合わせれば、それが1番説明がつく。だが、証拠はなにもない。〈紋白蝶〉のトイレの外に防犯カメラは設置されてないし、いまのところ近辺の他の飲食店からも目撃情報はなにも得られてない、という状況だ」

 だから、その証拠を掴め、と桑田は暗に言葉に込め、隣に座る相葉が神妙な面持ちで頷いた。

 川見はトイレに連れて行かれたときに外で待機していた、〝防犯カメラ対策〟の成りすましメンバーと入れ替わり、自宅ないし殺害現場に直接運ばれて殺された。死亡推定時刻を考えれば、その推理がもっとも自然であり、その証拠さえ掴めれば、事件は早期解決となる。

 だとすると、トイレでの入れ替わりがおこなわれた約30分後、1人だけ店の外に出て行った藤田の役割はなんだろう? 実行犯だろうか? 沢北は、防犯カメラの映像で見た、藤田のうしろ姿を思い出しながら、そこからの行動に想像を巡らせようとしたが、いかんせん周辺の地理が不明のためどうにもならない。まずは〈紋白蝶〉から被害者の自宅、それと死体発見現場までの道のりを調べたい。そう思った。

 地理に明るくない県警本部の刑事はみんな、おなじ気持ちでいるようで、

 はい、と挙手して質問権を与えられた宮本が、死体発見現場の状況の説明を求めた。相葉に目配せをされ、答えたのは桑田だった。

「現場は通勤・通学路のため、朝夕は人や車両が行き交うが、被害者が殺された時間帯は比較的、人通りはすくない。すでに看板を立てて目撃情報を募っている」

「なにか有力な情報は?」

「まだだ。あれば伝えている」桑田の声にかすかに苛立ちの感情が感じられた。

「それはそうだな」宮本は涼しげな顔で呟いて薄く笑った。

「ほかに質問は?」相葉が室内を見回す。

「あの……」沢北は遠慮がちに挙手した。

「どうぞ」

「動機は怨恨の可能性が高いと仰られていましたが、被害者に最近、なにかトラブルは?」

 相葉の目配せに桑田が頷き、

「その情報はまだ掴めてないが、川見監督は非常に優れた人柄で知られ、長年、野球関係者だけでなく有力者からも慕われてきた。だから、誰かから強い恨みを買って殺されるなんて考えられない。あるとしたら妬みだろう」怒りを押し殺した声でいい、場が静まり返った。

 やがて、

「あくまでも、桑田署長の個人的な意見として、胸に留めておいてくれ」

 相葉が平淡な口調でいった。捜査する側が私情に左右されるな、と暗に釘をさしているようだった。桑田の顔が一瞬だけ引き攣り、

「やるな」永田がうれしそうに呟いたが、沢北は賛同できなかった。所轄の刑事たちとのあいだに溝ができるような発言をしても、メリットは1つもない。そのことはなによりも、人心掌握術に長ける相葉が熟知しているはず。それだけに、いまの発言はなにか意図があってのものなのかと沢北は訝しんだ。

「ほかに質問は?」相葉は何事もなかったように表情を変えず見回した。「なければ解散にするが」

 桑田の放つピリついた空気から早く解放されたいのか、所轄の刑事たちは誰も挙手しなかった。沢北ら本部の刑事にしても、まずは現場を見なければなにもはじまらないと考え、押し黙って上司を見た。

「よし、なにか気になる点があれば、遠慮せず訊くように。早々に犯人を挙げるべく、各自が全力を尽くして捜査にあたれ。いいな?」

 はいっ! と威勢のいい返事が室内に反響して、

「よし、解散!」

 相葉の気合いを込めた合図で全員が一斉に立ち上がった。

「よっしゃ、いっちょ、やったるか」密室での会議を毛嫌いする永田は、解放感に満ちた表情を浮かべ、両手を突き上げて伸びをすると、両手で顔をバシバシと叩き、瞬時に厳しい顔つきになり、相棒のほうへ立ち去った。

「これは、あくまでも俺の勘だが」宮本がこっそり打ち明けるように、沢北に小声で話しかけてきた。「沢北の相棒、かなりの切れ者だと思う」

「そうですか?」

 宮本の勘はよく当たると評判だが、今回にかぎり、沢北はそれを疑った。まだヌクミズのうしろ姿しか見えないものの、まとっているオーラがどうにも貧相に見えるからだ。とても、鋭敏な観察力や推理を働かせそうにはなかった。

「向こうの署長の顔を見ればわかる。信頼してるってことがな」と付け加えた宮本だが、「いや、待てよ。あるいは……」と急に首を傾げた。

「どうしました?」

「いや、なんでもない」歯切れ悪くいうと、「まあ、お互い頑張ろう」宮本は沢北の心を搔き乱したまま立ち去ってしまった。

「なんすか……」

 ため息を吐きながら沢北は立ち上がり、ヌクミズの前へと回り込んだ。

「沢北秀次です。よろしくお願いします」と名刺を差し出した。

「ん? ああ、こちらこそ」

 寝ぼけたような調子で差し出された名刺には、

『温水竜二』

 そう記され、それを見た瞬間に沢北は、宮本の勘は間違っていると直感した。人は見かけによる。その定義でいえば、温水は生え際が後退して額が広く、目尻が下がり気味で、ひどい乱杭歯のせいで口元に締まりがなかった。沢北自身、先輩たちから迫力が足りない、それではチンピラどもに舐められるぞ、といわれるが、温水はそれにも増して柔和な顔をしていて、『竜二』といういかつい名前に完全に負けてしまっていた。

 いやしかし、と沢北は名刺を交換しながら考え直した。本部の刑事に対して露骨に競争心を抱いたり、協力する気がない相棒に比べれば、温水は(くみ)しやすそうだと。年齢はひと回り以上は離れていそうだが、威厳や威圧感はまったく感じられない。温水が相手なら、自分が主導で捜査ができそうだ。案外、一番の当たりを引いたのかもしれない。そう思った。

 そして早速、主導権を握ろうと、捜査の進め方について切り出そうとしたところ、

「いやぁ、久しぶりに見て、懐かしくなりました」温水は細い目をさらに細め、黄色い歯を剥き出しにして、穏やかな笑顔を見せた。

「え?」

 沢北はたじろいだ。以前、どこかで会ったことがあるのだろうか? 親しげに見つめてくる温水の様子から察するに、袖振り合っただけの縁ではないように思えるが、ちっとも思い出せなかった。

「お父様にあんなことがあって、あの頃はどうなってしまうことかと心配していたのですがね。すっかり大きくなって。天国にいるご両親もよろこんでいることでしょう」

 温水はそう続けたが、沢北はますます混乱してしまった。父親は沢北が3歳のとき、交通事故で亡くなったため、『あんなことがあって』というのはあてはまるが、フィリピン人の母親が女手一つで育て上げてくれた。お金が無くて苦労したこともあったが、タガログ語で『楽しい』を意味する『将也』という名前通りの人生を送れるようにと、母親がいつも明るい笑顔を心がけていたこともあり、沢北は少年時代を辛いと思ったことはなかった。

 その母親はいまも健在で、最近はパート先の仕事仲間と、晴れていれば休日に山登りをするのを趣味にするほど健康的だった。沢北がそのことを口にする前に、

「それだけに、こんな事件に巻き込まれてしまって、なんといえばいいのやら」温水はそう続け、急に沈痛な面持ちになった。

「いえ、仕事ですから」

 すかさず、沢北は反論した。まだまだ先輩たちに怒られることは多いが、凶悪犯を捕まえるために尽力する刑事の仕事は天職だと思い、一度も『巻き込まれる』なんて受け身のスタンスで捜査に臨んだことはなかった。

「絶対に犯人を挙げてやりましょう」

 沢北が意気込みを語ると、

「え、仕事?」今度は温水がきょとんとしてしまった。

「え?」どうにも会話が嚙み合っていない。温水のことを〝切れ者〟と評した宮本の鑑識眼に呆れつつ、「以前、お会いしたことありました? 失礼ですけど、誰かとお間違えではないですか?」失礼にならないように柔らかな物腰で訊いた。

「え?」と、口をあんぐり開けた状態で一瞬フリーズした温水は、「ああっ!」と納得した表情になり、「違います、誤解です」くしゃくしゃに破顔させた鼻先で両手を振った。

「誤解?」

「ええ、私が話していたのは、我々が担当することになった藤田祥太郎くんのことです」

「ああ……」そういうことかと、会話のすれ違いに軽い疲労感を抱いた沢北だが、すぐに驚きの感情が込み上げ、「え、つまり、温水さんは、藤田さんをご存知ということですか?」温水の口振りは、藤田の少年期を知っている様子だった。

「祥太郎くんは――」と話しかけた温水だったが、沢北の肩の向こうをハッとした顔で見て口を噤んだ。

 沢北は温水の視線だけでなく、背後に気配を感じたことで振り向いた。いつの間にか桑田署長が立っていて、

「藤田祥太郎に会う前に、きみには知っておくべきことがある」厳かな調子でそう告げられた。神妙な表情に沢北は身構えてしまう。

「知っておくべきこと?」

「温水、頼んだ」

 桑田はその場を部下に任せ、自分の席に戻った。沢北は、その隣で背筋を伸ばして腰かける相葉と目が合った。上司はなにか意図があるように目を逸らさない。一体なにを伝えようとしているのだろう? 沢北は首を傾げてアピールしたい衝動に駆られたが、

「では、行きましょうか」

 のっそり立ち上がった温水に腕を取られたことで、相葉への意識が分断された。

「どこへ?」

「私の机の上に、当時の資料を用意してあります」

「当時?」

 沢北は首を傾げ、なにやら訳ありな微苦笑を浮かべる温水の顔を見つめ、その肩口の向こうから相葉の視線を感じ取った。そして理解した。事件解決のカギを握るのは藤田なのだと。すくなくとも相葉と桑田はそう考えていて、その根拠は〝当時の資料〟にあることを。

 そんな重要な役割を任せてくれたことに感謝し、絶対に期待に応えようと身を引き締める一方、どうしてその相棒が、こんな冴えない中年刑事なのかと困惑しながら、沢北は温水の頼りないうしろ姿を追って廊下に出た。


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