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同窓会

 JR平塚駅西口から徒歩で5分ほど。飲み屋街からすこし離れた場所にあるスナック〈紋白蝶〉は、今年73歳になるママの野口紀子が、34歳のときからずっと1人で切り盛りしてきた。日曜日にはランチのみの営業をしていて、午前中に練習を終えた〈平塚ファイターズ〉の面々が、ユニフォーム姿のまま訪れて昼飯を食べるのが、昔からの恒例になっていた。

 11月16日月曜日。

 19時を40分ほど過ぎたいま、かつての野球少年たちが川見監督を含めて26名、狭い店内にひしめき合っていた。そのなかには祥太郎の姿もある。集まったのは全員、同学年の元チームメイトだった。

 すでに乾杯の音頭が取られ、それぞれのテーブルで思い出話に花が咲くなか、壁に『川見雅嗣監督 送別会』と書かれた張り紙の真下に、本日の主役が座っていた。短く刈り上げた白髪頭には、〈平塚ファイターズ〉の『HF』のロゴが白字で入った黒い野球帽子が載っている。漆を塗ったような日に焼けた顔は相変わらずだが、久しぶりに見る川見は頬がこけ、かつては子どもたちを震え上がらせた銅鑼声も鳴りを潜めていた。現在66歳だが、腰が曲がり耳は遠くなり、最近ボケ気味の紀子とそう変わらなく見えるくらい老けてしまっている。川見は監督を勇退する理由を一切語らないが、体調が思わしくないからであることは誰の目にも明らかだった。

 祥太郎から向かって、川見の右隣に座る目つきの鋭い色黒の男が、この世代のキャプテンを務めていた森拓哉だ。おなじく恩師を挟んで座る松本亮平とともに、乾杯直後から川見に対してしきりに酒を勧めていた。かつては酒豪だった川見だが、病のためかすっかり弱くなったようで、すでに酔いがまわり、いまにも眠りそうに目をしょぼつかせていた。

 コップに注がれたビールを一口飲んだ川見がふと顔を上げた刹那、祥太郎と目が合い、懐かしむような表情で笑みを向けてきた。その瞬間に吐き気が込み上げ、祥太郎はトイレへと駆け込んだ。

 男女共同の個室には便器が1つしかなく、正面に窓があるが、防犯のため外側にアルミ製の面格子が取りつけられてある。外は暗く、窓ガラスは雨で濡れそぼっていた。

 祥太郎はドアを閉めて便座を上げ、便器の前に屈み込んで吐こうとしたが、出てくるのは黄色い胃液混じりの唾だけだった。指を口のなかに突っ込んでみるも、料理にまったく手をつけてないためなにも出てこない。だが、空えずきしたことで吐き気は収まった。

 トイレから出た祥太郎は鋭い視線を感じた。拓哉が睨みつけ、席に座ってろとばかりに顎をしゃくった。亮平も冷ややかな目で視線を送ってきていた。祥太郎は頭を下げ、背中を丸めながら自分の席へと戻った。

「おい、そろそろ野球はじまるぞ」

 誰かが声を上げ、店内に一台きりのテレビの電源が点けられ、日本シリーズの中継にチャンネルが合わされた。自然、全員の視線がそちらに向けられた。

「圭吾くんは今日、投げるの?」と紀子が誰にともなく訊いた。

「だから、圭吾は初戦で投げたから今日は出番なしだって、何回もいってるでしょ」

 誰かが呆れ声で突っ込みを入れると、あちこちで笑いが起こった。そのなか、拓哉と亮平が両側から川見の肩を抱いて立ち上がった。だいぶ酔っ払ったらしい。トイレへ運ばれる川見の足取りは覚束ない。そのうしろから向井大介が付き添いでついて行き、計四人が個室に姿を消した。テレビ画面に意識を向けつつも、ママ以外の全員が拓哉たちの様子を目の隅で捉えているのを祥太郎は感じ取った。

「たまにはママも一緒に飲もうよ」

 誰かがいい、

「私はいいよ」

 ママが手を振り遠慮するも、

「いいからいいから」と5、6人で囲み、コップにビールを注いで強引に勧めた。いずれも体格のいい連中ばかりで、壁のように立ちはだかってママの姿が隠れてしまう。

 その様子を横目に、ウーロン茶が入ったコップを傾けた祥太郎は、早く時間が過ぎてくれと願うように壁時計を見つめるが、針の進みは遅く感じられた。誰も喋り相手がおらず、目を細めて懐かしむような思い出もないからだ。はしゃぎ騒ぐチームの輪から離れ、いつも1人きりだった。とくにイジメを受けた記憶はない。それは父親の事件があったからだろう。試合の応援に来る親も含めて、祥太郎はずっと誰からも腫れ物を触るように接せられてきた。

 しばらくしてトイレのドアが開き、店内にいる人数は再びおなじになった。ママは相変わらず数人に囲まれ、ビールを何杯も飲まされている。ほかの連中の顔には微妙に緊張の色が浮かび、探るような視線が主役の座へと向けられた。

 それから約30分後、四回の表に〈横浜マリンスターズ〉が大量リードを許し、早くも敗色が濃厚になると、店内の雰囲気が暗くなった。ママはカウンターに肘をつき、いつのまにか眠ってしまっている。それに気づいた祥太郎は立ち上がり、スマートフォンを手に外に電話をかけに行く振りをしてドアへ向かった。誰かに咎められるかと思ったが、祥太郎になど誰も注意を払ってないらしく、そのまま外に出ることができた。

 トイレへ行ったときよりも雨の強さは増していたが、祥太郎は傘を持ってきてなかった。パーカーのフードをかぶり、濡れるのも構わず歩きだした。地下道を通って駅の反対側に出ると、線路に沿って西側へ進む。やがて花水川に突き当たると、その流れに合わせて南下した。

 外灯がまばらで人気のない静かな道を、一定のペースでとぼとぼと歩き続けていると、次第に祥太郎の脳裏には暗い記憶が蘇った。まるでその場にタイムリープしたように、閉め切った狭い室内に充満する臭気が鼻腔を刺激するようだった。シェービングクリームにヘアトニック、制汗剤のライム、それらと混ざり合った皮脂と汗の臭い。黄ばんだ歯からは、タバコとミントガムの香りが漂う。

 そして、ぬめりとした手の感触。大きて分厚く、湿り気を帯びた手が、なめくじが這うようにゆっくりと祥太郎の頬を、首筋を、鎖骨を、胸を、腹を――。

『心配するな。みんな、やってることだ』

 耳元でざらついた声で囁きかけられ、全身が硬直した。だが、恐怖のせいで性器は萎んだ風船のように縮こまっていた。

『リラックスするんだ。ほら、肩の力を抜いて。大丈夫、これは〇〇も××も経験した。藤田も〇〇や××のようになりたいだろう?』

 祥太郎はもう詳細を忘れてしまったが、あのとき、1学年上の先輩2人の名前が引き合いに出されたことは覚えていた。そして、その名前を聞いたことで、不覚にもすこし安心してしまった記憶も。

 しかし、なによりも鮮烈に残っているのは目だった。祥太郎の全身を、お好みの人形でも見るように見つめる目つき。祥太郎はあとになって、見た者を恐怖で石にしてしまうというギリシャ神話上の怪物メドゥーサの存在を知ったとき、まさにあいつにそっくりだ、と思った。

 そう、思い出したくもない記憶が勝手に蘇ってしまうのは、あの目を見てしまったのが原因だということを祥太郎は理解していた。目は心の窓という。かつての獰猛さや鋭い光はまるで失われたとはいえ、いやだからこそ、心の底の卑しさが表出していた。

 そんなことを考えていると、雨音に混じってどこかから話し声が聞こえてきたため、祥太郎は我に返った。周囲を見回すが、暗闇のなかには誰の姿も見えない。だが、耳を澄ますとたしかに人の声がする。どこだ? 下……川原のほうからだ。

 祥太郎は立ち止まり、ガードレールの上部に両手を置いて、数メートル下を流れる川を見た。すると、雑草が伸び放題に伸びた手前の岸に、複数の黒い影があるのを見つけた。なにか言い争いをしているようだ。やがて一人が相手を殴りつけた。腰の入った威力のあるパンチで、受けた側は浅い川のなかにうしろ向きに倒れ、水が跳ねる音が祥太郎の耳にまで届いた。パンチを繰り出したのとは別の影がポケットからなにか取り出した。外灯の光がかすかにそこまで届き、きらりと反射した。その鋭い光に、

「あっ……」

 祥太郎は思わず驚きの声を発してしまった。それは川岸まで聞こえたらしく、

「誰だ!」

 黒い影が一斉に祥太郎のほうを向いた。と同時、北側から車が一台走ってきて、ハイビームで前方を照らした。突然、強烈な閃光にさらされた祥太郎は反射的に振り返り、眩しさに顔をしかめた。乗用車はすぐにヘッドライトをロービームに切り替えて、そのまま祥太郎の横を通り過ぎて去ってしまった。走行音が聞こえなくなると、静寂が訪れる前に川原の影が怒るような口調でいった。

「祥太郎か?」

 返事をしたものか、このまま黙って立ち去るべきか、祥太郎が判断をつけかねて立ち尽くしていると、

「なんで祥太郎がここに?」別の影がいった。その言葉をそっくりそのまま返したかったが、祥太郎は言葉を吞み込んだ。そして、どうして通りかかってしまったのだろうと、タイミングの悪さを呪った。計画とは違うじゃないか、と彼らの行動を訝しみもした。

「助けてくれ!」川のなかで仰向けに倒れたままの影が、救いを求めて祥太郎のほうへ向けて片腕を上げたが、

「黙れ!」

 艶めかしく光る得物を手にした影が、押し殺した声で咎め、

「ちょうどいい。祥太郎、そこで見てろ。おまえも共犯だからな」

 暗闇で表情はわからないが、祥太郎の目にはその影が不気味な笑みを浮かべたように見えた。戦慄で金縛りにあったようにその場から動けなくなってしまった。そして直後、約12年ぶりに、目の前で人が人を殺す瞬間を目撃した。

 雨が、激しさを増した。

 祥太郎は、誰かに突き飛ばされたように駆け出し、一度も振り返ることなく走り続けた。



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