特殊清掃
中島が最初に説明したように、ゴミで埋め尽くされているのはその一室だけで、腐敗液は床下まで浸食しておらず、表面をきれいにして消毒を済ませた畳を撤去すればことは済んだ。とはいえ2人だけの作業なので、各部屋に散らばる遺品整理に移ったときには、すでに正午を過ぎていた。
帽子と防護ゴーグルと防毒マスクをはずし、ゴム手袋と長靴、養生テープやホウキ、ちりとり、雑巾といった使い捨ての道具を、祥太郎がゴミ袋に収めていると、
「そういえばさ、祥太郎くん、面接のとき、絵を描くのが趣味っていってたよね?」
今日三本目のたばこを美味そうに吸いながら、中島が声をかけてきた。
はい、と頷いた祥太郎は、首を傾げ中島を見返した。ただの雑談か業務上の話か判断がつかなかったからだ。
「じゃあさ、玄関入って右側の部屋、見てもらっていい? 僕には値打ちがある物なのかどうか、さっぱりわからないから」
「絵のコレクションがあるんですか?」
「コレクションなのか、本人が描いた物なのかも」中島は苦笑しながら肩を竦める。「依頼主に確認したら、家主さんは絵描きの趣味があったらしいけど、もしかしたら有名な画家が描いた絵が混ざってるかもしれない」
「僕もわからないですよ」
生前、美術大学の元教授だった父親が美術史のレクチャーを施そうとしたこともあったが、祥太郎は描画にしか興味がなくて聞く耳をもたなかった。だから、
「よほど有名な絵しかわからないです」と付け加えた。いくら立派な家でも家主は年金暮らしだったのだ。まさか、教科書に載るような作品があるとは思えなかった。
「そうなんだ。まあ、とにかく見てみてよ。僕は台所と居間を担当するから、なにかあったら声をかけて」
ポケット灰皿でタバコを揉み消すと、中島はタオルを頭に巻きつけながら、玄関のなかに入ってしまった。
はあ……、とため息を吐くように声を漏らした祥太郎は、厄介な荷物を無理やり担がされたような気分になった。真新しい白い綿手袋をはめて玄関に入り、土間で靴を脱いで家の中に上がった。生活の中心地だった和室とはまるで別宅のように、見渡すかぎり整然としていた。というより、スニーカーと革靴、土で汚れ黒ずんだテニスボールと自転車の空気入れがあるきりで、ほかにはなにも置いてなかった。かつては大世帯で住んでいたと思われる部屋数の多さと比して、あまりに物悲しく思えた。
「あ、その辺のは全部廃棄で」
居間の入り口の前から中島が指示を出し、室内に姿を消した。
祥太郎は靴下の上から足をビニール袋で覆い、ずれないように輪ゴムで留めると、上がり框の右手すぐにあるドアのノブを掴み、「失礼します」小さな声で挨拶をしながらドアをゆっくり開けると、その場に立ち尽くしてしまった。
無数の顔が、目が、こちらを見ていた。祥太郎にとっては、そのどれもが懐かしい顔だった。少年時代、まだ父親が生きていた頃、母親の遺影をデッサンする彼の傍らでいつも夢中になって模写した絵の数々。板張りの床が広がるその部屋には、壁中にピカソがキュービズムの技法を用いて描いた絵が何十枚も無造作に立て掛けられ、イーゼルには制作途中のキャンバスが置かれてあった。
キュービズムとは、19世紀初頭、ピカソとジョルジュ・ブラックによって確立された、事物を多様な側面から捉え、それらを一面的に描き出す手法を指す。両眼があらぬ場所に並んでいたり、鼻の横側が正面を向くなど、一見すると風変わりな構図が特徴的で、現代美術において重要な役割を果たす技法となった。それは『ゲルニカ』にも表れているが、父親のことを思い出してしまうため、祥太郎は意識してそれ以外のピカソの作品は見ないようにしていた。
それが、12年の年月を経て、一同に介したように目の前に現れたため、祥太郎は軽い眩暈を起こしそうになった。本物だろうか? いやまさかそんなはずはないと頭を振る。その旺盛な創作意欲で生涯に何万点もの作品を残したピカソだが、多作がゆえに希少価値が下がることはなく、片手間で描いた落書きのような素描ですら何十万、何百万円のバリューがある。名の知れた油絵であれば億単位で取り引きされ、たとえば祥太郎の真正面の壁に立て掛けられた『泣く女』は、2018年に東京都渋谷区で行われたオークションにおいて、『日本国内を本拠地とする競売会社が行なった競売において市場最高額』となる十億円で落札され話題になった。そんな貴重な作品を、底面を床に直置きにして放置するわけがない。
それに、と祥太郎は苦笑いを浮かべた。自身の『ゲルニカ』の模写にもいえることだが、本物の芸術家の筆によって生み出された作品に宿る執念だったり、迸る情熱、神聖な霊魂といった、抽象的だが作品にとって何よりも大切で本質となるなにかが、それらの絵からは感じられなかった。
そして急に恐ろしくなった。ピカソの作品の模写を続け、誰に知られることなくある日急に死に、腐った状態で発見される――将来の自分だ。
このバイトをはじめてから、『孤独死』の実例を見る機会が増えたが、自分がおなじような最期を迎える可能性があることを、これほど強烈に感じさせられたのは、これが初めてだった。頭をガツンと殴られたような衝撃を受け、身動きが取れなくなってしまった。『ゲルニカ』の模写がないだけよかったと思った。もしそれがあれば、夥しい量のゴミを放置しておく無神経さ以外は自分そのもの。写し鏡を見ているような気分になるところだった。
「どう?」突然、背後から声をかけられ、油断していた祥太郎はビクッと身体を震わせて振り返った。心配して様子を見に来たらしい。中島が立っていた。「本物?」
「違います」祥太郎は即答した。詳しく調べるまでもなく、ただの模写だと断定できる自信があった。「全部、家主さんが練習で描いていたものだと思います」
「だよね。一瞬、ピカソの絵かと思ったんだけど、まさかだよね」
「全部、ピカソの絵を手本にしてます。僕も一瞬、驚きました」
「あ、やっぱりピカソなんだ。元々の絵が、子どもが描いたみたいな、っていったら失礼だけど」中島は笑う。「素人目にはイタズラ描きみたいに見えるからさ。実際にはどうなの? 祥太郎君の目から見て、ここにある絵は」
「上手です。とても」祥太郎は素直に認めた。「キュービズムの絵だからわかりにくいですけど、ちゃんとした素養があります」
「へえ、そうなんだ。とりあえず、高価な物じゃないってわかって安心した。依頼主さんと、いろいろトラブルになっても困るからね」
中島が安堵のため息を吐く姿を見て、祥太郎は先日行った現場を思い出した。おなじような古民家で、亡くなった家主が蒐集していた骨董品が思いがけず高値で売れることを知り、遺族の醜い争いがはじまっただけでなく、ネコババしてないかと、中島と祥太郎にあらぬ疑いが向けられた。
「じゃあ、ここは任せた。よろしく」
中島が立ち去り、1人になった祥太郎は、室内に踏み入り、なにから手をつけようかと見回した。いくら一般的には価値のない物でも、家主にとっては大事な品々だ。まとめて廃棄、というには忍びない。だが、祖父を毛嫌いしているという、あの冷たい印象の依頼人は、きれいさっぱり処分することを望んでいるのだろう。
祥太郎は重い気分になりながら、押入れの存在に気づいた。このなかにもキャンバスが収納されているのだろうか。興味を抱いて襖を開けると、2段に分かれた上段には使い古した美術道具が、下段には絵画関連の書物が乱雑に詰め込まれ、美術販売店と古本屋が混ざったような臭いがした。あるのは古色蒼然とした背表紙の書物ばかり。もしかしたら稀覯本なのかもしれない。
しかし手をこまねいてばかりでは作業は進まない。とりあえずひとまとめにして、捨てる捨てないの判断は依頼主に任せよう。そう決心すると、祥太郎は古びた本を数冊ずつビニール紐で縛っていくことにした。
そうして片づけをはじめようにも、いままでは興味はなかったはずの美術関連の書物に不思議と心を惹かれ、気づくと手が止まってしまった。とくにピカソ関連の作品集や研究書が多く、1冊1冊ページをめくって中身を見ては時間をロスしてしまった。そしてキュービズムの絵画集に目を通していると、書物の束に雪崩が起き、祥太郎の手元に1冊の本が転がり込んだ。表紙には怪しげに微笑む貴婦人の絵。いわずと知れた、天才レオナルド・ダ・ヴィンチによる名画『モナ・リザ』だ。それが、ピカソの作品と並んで目に飛び込んできたことで祥太郎は、
「モナ・リザとピカソのキュービズムの作品には、たくさんの情報や謎、テクニックが凝縮されてるんだ」
ある日の午後、陽だまりのなか、ロッキングチェアをゆっくり揺らしながら、父親が穏やかな口調で話した言葉を思い出した。
「これはお父さんの勝手な持論だけどね。ピカソはモナ・リザから盗み取ったと思うんだ」
なにを? と訊いた祥太郎に、いつもは沈痛な表情ばかりだった父親が、珍しくいたずらっぽい笑みを浮かべていった。
「美術史に名前を刻むことになった宝物を」
その〝宝物〟がなにか、祥太郎が訊いても父親はうれしそうに微笑むばかりでなにも教えてくれなかった。ピカソはこの絵から一体なにを学び、あるいは奪い取ったというのだろう?
祥太郎は考え込んでしまい、やがて庭先から車のエンジン音が聞こえてきて我に返った。トラックの音ではない。押入れから離れ、掃き出し窓に近づくと、玄関前に黄色のポルシェが停まった。運転席の真理子と目が合う。作業が終わってないのに、どうして戻ってきたのだろう。不思議に思い窓を開けて佇む祥太郎の元へ、運転席から降りてきた真理子が近づいてきた。
「やっぱり、なんの値打ちもなかったみたいね」と馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
え、と意味がわからず祥太郎は真理子を見つめ返すしかなかった。
「ひょっとしたらって、すこしは期待してたんだけど」真理子は電子たばこを持つ手で壁際に置かれたキャンバスを指し示した。どうやら、ただの模写であることを中島が連絡したらしい。
「どうしますか」真理子の冷めた様子から訊くまでもないように思えたが、祥太郎は一応確認した。
「捨てて」真理子はきっぱりといった。
祥太郎は胸に棘が刺さるような痛みを感じた。
「本もですか?」
「本?」真理子は眉間にしわを寄せる。「本て?」
祥太郎は身体をどけて、「押入れのなかに」と指し示した。
「なんの本よ」
厄介事を押しつけられて苛立ったように呟きながら、真理子はその場でハイヒールを脱いで室内に上がり込み、押入れの前まで大股で歩いた。
「これ?」と束ねた本を指差しながら、ため息を吐くようにいって祥太郎を見つめてきた。
そうです、と祥太郎が頷くと、
「捨てて」真理子はまたしても冷淡に即決して、窓のほうへ戻った。
「全部ですか?」
ハイヒールを履く真理子に、祥太郎はおずおずと訊ねた。貴重な書物の可能性があるし、デザイナーの仕事にもなにか役に立つのではないか、と思ったからだ。だが、
「あたり前でしょ。なんか文句ある?」
思いがけず鋭い言葉を返され、祥太郎はたじろいでしまった。
「どうかなさいましたか」喋り声を聞きつけたらしく、中島が廊下から顔を覗かせた。「うちのスタッフがなにか不手際でも?」
「別に」真理子は電子たばこの煙を素早く吸って吐いた。「そこの本、全部捨ててっていったら、この子がなにかいいたそうにしたから」
「本?」押入れのほうへ視線を向けた中島は、納得がいったように微苦笑した。「ああ、すみません、彼も絵が好きみたいでして」
「へえ、そうなの。たいそうな趣味をお持ちで」嫌味ったらしくいったものの、「なんか気になる本があるならいいわ、好きに持ってって」という真理子の口調には、どこか優しさが感じられた。
「いいんですか?」
祥太郎は真理子を、それから中島を見た。トラブルの元になるから、依頼主からは正規の報酬以外は受け取らない、というのが〈フラワー〉の基本方針だった。祥太郎はこれまで、依頼主の好意で作業後に労いのビールやジュースを頂いたことはあったが、遺品を譲り受けたことはなかった。
困った表情を浮かべ即答しない中島を見かねて、
「いいわよ。私がいってんだから。遠慮せず持っていきなさいよ」真理子は意地になったようにいった。
「じゃあ、お言葉に甘えちゃいなさい」中島は祥太郎に頷くと、「リビングと台所にある遺品はどうされます? すべて廃棄してしまいますか?」真理子に顔を向けた。
「最初にいったでしょ。全部捨ててって。欲しい物があるなら勝手に持ってっていいから。いちいち判断を仰がないでよね、面倒くさい」
そういって背を向け、ポルシェに戻りかける真理子に祥太郎は声をかけた。
「亀はどうします?」
「亀?」真理子は怪訝な顔をして振り返った。
「家主さんの寝床から見つかったんです。まだ生きてます。縁側に」と祥太郎は窓から半身を出して、トラックが停まっている縁側のほうを指差した。そこには、ミドリガメが入った水槽が置いてある。新鮮な水に取り換えて、日当たりのいい場所に移動させたのだ。
「へえ、亀なんて飼ってたんだ、意外。人にはちっとも興味を示さないくせにね」真理子は薄ら笑いを浮かべた。「その辺に放してあげればいいんじゃない? 偏屈な爺さんから解放されて、亀も清々してるでしょ。それともなに? 亀も欲しいの?」
はい、と返事をしかけた祥太郎は思い止まり、上司を見た。中島は肩を竦めて真理子を見た。
「ミドリガメはたしか、繁殖力が強く生態系を破壊してしまうので、野外に放すことは法律で禁止されているはずです」
「そうなの? じゃあきみ、欲しいならどうぞ」真理子は祥太郎に素っ気なくいうと、「それよりさっさと終わらせて。あとどれくらいかかりそう?」急かすように自分の腕時計を叩いた。
「そうですね」と中島。「あと2時間ほどかかりそうです」
「まだそんなにかかるの?」真理子は大袈裟に目を丸くした。「わかった。車のなかで待つから、なるべく早く終わらせて」そういうと、ポルシェの運転席に戻ってノートパソコンを開いた。
「どうしたの祥太郎くん。今日は珍しく主張するね」中島の指摘にはかすかに非難するニュアンスが感じられた。
「すいません」
「いや、いいんだけど。ああはいってるけど、あとで値打ちがある物だとわかって返してくれっていわれたら困るからさ」中島は古本の束に目を落とした。
「すいません」
「あ、いいのいいの。そういう場合もあるよってだけだから。早く終わらせちゃおうか。台所とリビングは終わったから、ほかの部屋を見てくる。っていっても、そんなに荷物はないけど」
「お願いします」
それから作業を再開させ、二時間ほどで片づけは終了した。
運転席で居眠りしている真理子を中島が起こし、最終チェックをしてもらう。
「へえ、たった二人であのゴミ屋敷をこんなにきれいに」寝起きの真理子は機嫌がよかった。
「ゴミが集中していた部屋以外は、比較的整理されていたので助かりました。満足して頂けたら、ここにサインを頂戴できますか」
「ありがとう。助かった」
中島が真理子から作業完了報告書にサインを貰い、現場作業は終了した。
祥太郎は、『モナ・リザ』が表紙を飾る本と、ピカソ関連の書物十冊ほどをビニール紐で束にした物を抱え、真理子に訊いた。
「これ、本当に頂いちゃってもいいんですか」
「いいっていったでしょ、しつこいわね」真理子は笑う。「描くの? きみも」
「模写ですけど」
「だけ? オリジナルは?」
「描きません」
「へえ。人の絵を描き写してなにが楽しいんだか。私にはちっとも理解できないけど。まあいいわ。とにかく、ありがとう。もう帰って」
いわれたとおり、中島と祥太郎はさっさと帰り支度にとりかかった。清掃道具を片づけ、トラックに乗り込むと、祥太郎は古本を入れたバックパックを膝の上に載せて、その上にミドリガメが入った水槽を置いた。
「じゃあね」
腕組みをした真理子に見送られ、トラックを発進させた中島は、
「いやあ、予定よりもだいぶ早く終わったね」
そういいながら、タオルで額の汗を拭った。時刻はまだ十四時だが、これで今日の仕事がすべて終わったわけではない。事務所に戻り、ゴミの分別作業が待っていた。
「それ、どうするつもり?」中島は水槽を指差した。
「飼います」
「いや、そうじゃなくて、帰り」
「あ……」事務所までは自転車で来ている。祥太郎はなにも考えてなかったことに気づいた。「電車で帰ります」
「それを抱えて?」中島は目尻にしわをつくって笑う。「車で送ってあげるよ」
「そんな、大丈夫です」
「いいよ、祥太郎くんが来てくれたお陰で助かったんだから、それくらい」
「……ありがとうございます」と頭を下げつつ、祥太郎は中島に家に来られるのを億劫に感じた。
ゴミ部屋の臭いが全身に付着しているため、そのまま事務所へ戻り、中島があらかじめ用意してくれていたおにぎりを食べると、ゴミの分別に取りかかった。再び悪臭にまみれながら、すべての作業を終えたときには、すっかり陽が傾いていた。
事務所に備えつけられたシャワーユニットで髪の毛を3回、身体は4回、入念に洗うことでようやく、全身にこびりついた腐敗臭はほぼ消えた。作業着は最低でも3回は洗濯しなければならないが、それはいつも中島に任せていた。
「はい、今日のバイト代」
祥太郎がタオルで髪の毛を拭いていると、中島が茶封筒を差し出してきた。祥太郎はそれを受け取ると、中身を確認せずにバックパックのなかにしまった。
帰りの準備が整うと、祥太郎は中島が通勤に使う軽自動車に乗り込んだ。時刻は18時をすこし過ぎた頃。外はすっかり暗くなっていた。けれど海岸沿いの国道134号を走れば、祥太郎の家までは十五分とかからない。
「祥太郎くん、いつも夜はなにしてるの? 飲み行ったりする?」中島に訊かれたことで祥太郎は胃が痛くなるのを感じた。今日一日、なるべく仕事に没頭して考えないようにしていたことを思い出したからだ。
たまに、と祥太郎が小声で曖昧に答えると、
「じゃあ、今度飲もうよ」中島は快活にいった。おなじ会話を何度もしているが、実際に酒を酌み交わしたことは一度もない。ただの社交辞令なのだ。
「ここで大丈夫です」祥太郎は家の近所のコンビニを指差したが、
「あとちょっとでしょ。遠慮しないで」住所を知る中島は、水槽を指差しながら笑っていった。その親切心がいまは煩わしく、祥太郎は苛立ちから爪を噛みそうになったが、爪の間からかすかに腐敗臭が漂ってきたためにやめた。家に帰ってすぐに爪を切って入念に手を洗わなければ。そう思った。
やがて祥太郎の家に到着した。電気は点いてなくて室内は真っ暗だった。
「叔父さんにちょっとご挨拶しようかと思ったんだけど、まだ帰ってないみたいだね」
叔父の失踪について、祥太郎は中島に伝えてなかった。もしかしたら、正社員登用のための外堀を埋めるつもりかもしれない。叔父が帰るまで待つといわれたら厄介だな、と祥太郎は思ったが、
「それじゃあ、ご挨拶するのはまた今度にしようかな」中島はあっさり引き下がった。祥太郎は安堵しつつ、礼をいって車から降りた。
ありがとうございました、と頭を下げて見送り、中島の姿が完全に見えなくなったところで、祥太郎は母屋の玄関のドアを開けようとした。そこへ、
「いまの誰?」
突然、暗がりから女性の声が聞こえたため、祥太郎は驚き、危うく水槽を地面に落としそうになった。
「なに、ビビってるの」
笑い声。カチャッという金属音が鳴ると同時に小さなオレンジ色が灯り、ジッポーで紙たばこに火をつける紗季の顔が暗闇の中に浮かんだ。ポニーテールにした髪は金色で、口元は緩めているのに、祥太郎を見上げる目はキツい。看護師になったいまも、ヤンチャをしていた頃の名残りはさっぱり消えてなかった。紗季は左手に持ったジッポーをポケットにしまうと、おなじ手でタバコを指の間に挟み、深々と吸ってから祥太郎の顔に煙を吐きかけた。
たばこが苦手な祥太郎は顔をしかめ、煙を手で払いながら、「姉ちゃん、どうして?」と突然の来訪を警戒して訊いた。
「どうしてって、ここは私の家なんだから、いつ帰ってきても自由でしょ」
紗季はそういうが、もうかれこれ3年近く、ここへは戻ってなかった。それが、なんの前触れもなく姿を見せたのだ。その理由は1つしか考えられない。祥太郎は不安を抱いた。
「家のなかには?」
「まだ。ちょうどいま来たとこだし、鍵かかってたから。あんたに連絡しようとしたら、車の音がしたから」紗季は抑揚のない口調でいう。「なに? 勝手に入ったら文句あんの?」
首を振る祥太郎を足元からゆっくり見上げると、紗季は水槽に目をやり、
「なに、それ」近づいて来たものの、「くさっ!」と指で鼻をつまみながら退き、眉間にしわを寄せて祥太郎の顔を見た。
「バイト先で譲ってもらった」
「バイト? なに? あんた、いつの間に働いてたの?」
うん、と答えた祥太郎は玄関のドアを開けて電気を点けると、靴棚の上に水槽を置いた。紗季も土間に入ってくるが、祥太郎はドアは開けたままにしておいた。すぐに帰って欲しい、という意志表示だ。
「なんのバイトしてるのさ?」
「掃除の仕事」
「掃除?」紗季は訝しむ様子で祥太郎の腕に鼻を近づけ、「卵が腐ったみたいな臭い。ただの掃除じゃないでしょ」とうしろに下がると、またわざとらしく眉間にしわを寄せながら指で鼻をつまんだ。
「特殊清掃」祥太郎は視線を逸らして答えた。
「それって、遺体の後処理もあるやつでしょ?」紗季の声のトーンが高くなる。「どうして、わざわざそんな仕事すんの? バカじゃない」といいながら、廊下の先、父親がかつてアトリエとして使っていた部屋のドアにちらっと視線を送った。
血を目の当たりにする、あるいは死に関連した仕事という意味なら、『わざわざ』はそっちも一緒だ、という言葉を祥太郎はぐっと呑み込み、その代わりに、
「割がいいから」と答えた。
ふんっ、と鼻で笑うと、紗季は真顔になり本題に入った。
「それより、あいつが行方不明になってるって警察から聞いたけど、なんで私に連絡しないわけ?」
『あいつ』というのは叔父のことだ。
「しようと思ってた」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」といいつつ、祥太郎は紗季の顔を直視できなかった。
「どこに行ったの?」紗季は祥太郎にぐっと距離を縮め、囁き声で訊いた。
「知らない。知ってたらとっくに――」
「私が帰ってくると思ったんでしょ」
「え?」祥太郎が顔を上げると、すぐそばに紗季の微笑む顔があった。
「あいつがいなくなったと知ったら、アパートを引き払って、こっちに戻ってくるって。だから、私に報せなかったんでしょ」
図星だった。だからこそ、祥太郎は目を逸らして押し黙るしかなかった。
「腹立つ」紗季は感情を押し殺した声で呟き、祥太郎の左手を力強く掴んだ。
「痛っ……」祥太郎は苦悶の表情を浮かべ、呻き声を発した。
「あんたのそういうとこムカつく」紗季は吐き捨てるようにいうと、折れ曲がったたばこを土間に捨てて祥太郎から手を離した。
祥太郎は、解放された左手を見つめた。あまりに強く握りしめられたため、紫色に変色していた。
「心配しなくても戻ってこないから。こんな陰気くさい家」
そう言い置いて去って行く紗季のうしろ姿を見送りながら、祥太郎は安堵した。そして腕に鼻を近づけ首を傾げた。嗅覚が麻痺しているため、自分では臭いがわからないが、念のためにもう一度シャワーを浴びることにした。その前に爪を切ろうと、母屋から出てプレハブ小屋に向かおうとしたところで、着信音が鳴った。ポケットからスマートフォンを取り出して、画面に『森拓哉』という名前が浮かぶのを見た途端、胃が痛みだして顔をしかめた。スマートフォンのディスプレイにぽつりぽつりと雫が落ちる。見上げると、小雨が降りはじめていた。