ゲルニカ
秋晴れの穏やかな朝陽が窓から射し込む。藤田祥太郎はその光にすこし目を細めながら、黒と白、藍色のみの油絵の具が載るパレットを右手に、左手で絵筆を握った。
イーゼルに置かれたキャンバスには鉛筆で『ゲルニカ』の下絵が描かれている。スペインの巨匠パブロ・ピカソが、1937年に母国で起きたドイツ空軍による都市無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)に憤り、批判の意を込めて描いた名画だ。爆撃により死んだ子どもを抱える女性や兵士、馬などを、ともすれば子どもの落書きのようにも見える独自のタッチで表現したオリジナル作品は、およそ横8メートル、縦3.5メートルの大作だが、祥太郎はその約十分の一のサイズのM20号のキャンバスを使い、これまでに描いた模写は数えきれない。暗鬱とした主題に向き合うことで心の平穏を保つことができた。祥太郎にとって『ゲルニカ』を模写することは、抗うつ薬を服用するような効果があった。
しかしいま、筆先に白の絵の具を付けたのと同時、背後のベッドの上でスマートフォンが鳴り、静謐な時間を壊した。
祥太郎がスマートフォンを手に取ると、画面には中島茂樹の名前が表示されていた。祥太郎が半年ほど前からバイト勤めをしている、遺品整理と特殊清掃を請け負う会社〈フラワー〉の社長だ。急遽依頼が入るか、あるいは新入りのバイトが逃げ出してしまい、早朝から祥太郎にお鉢が回ってくることは珍しくなかった。
中島からのメッセージを開くとやはり、
『おはよう。こんな早い時間から申し訳ないけど、今日もし時間があるなら、朝から手伝ってくれないかな? 大磯にある一軒家で80代男性の孤独死。天井から壁までゴミで埋め尽くされてる。一人じゃ手に負えないけど、一昨日雇った小宮君がバックレちゃって連絡取れないんだ。困ったよ、ほんと』という内容で、文末に添えられた八文字眉毛の泣き顔の絵文字は、頭に総白髪を載せればそのまま中島の顔を思い浮かべることができた。
『大丈夫です。すぐに支度して事務所へ向かいます』
今日にかぎっては、家に1人きりで過ごしていると気分が滅入ってしまう。だからむしろ助かった、と思いながら祥太郎が返信すると即座に、
『良かった、助かった、恩に着るよ、ありがとう』というメッセージが、文末にスマイルマークをつけて返ってきた。
パレットと絵筆に付いた油絵の具を洗浄液で流し、寝巻きの上下スウェットからジャージ姿に着替えると、祥太郎は仕事用のバックパックを背負って庭先に出た。空には雲一つなく、水彩絵の具で描写するのがぴったりな薄い青色が広がっていた。
祖父母の世代から建つ、築60年を超える平屋建ての母屋の玄関の引き戸を開けた。現在、母屋には誰も住んでおらず、全部で八部屋ある内、祥太郎が使用しているのは台所とトイレ、バスルームのみ。半年ほど前に叔父の哲司が忽然と姿を消して以降、その他の部屋はまったくの手つかずで埃が溜まる一方だが、祥太郎は見て見ぬふりをしていた。あまりに広い家を持て余しているが、家主である哲司が不在では売りに出すこともできず、たとえ好きに判断を下せようとも、祥太郎自身、まだ売却するつもりはなかった。
台所に入り、昨夜買っておいた菓子パンを冷蔵庫から取り出して咥えつつ、祥太郎は冷凍庫から材料を保存袋を取り出し、その中身を固い氷も軽々と粉砕できるミキサーにかけた。そうして、どろりとスムージー状になったモノを保存袋に戻し、それを200ミリリットル容量のステンレスボトルに収めてバックパックに入れると準備は完了。ヘルメットをカブり戸締りを確認してマウンテンバイクに跨ると、緩やかな坂道を下り、相模湾が見渡せる太平洋岸自転車道を小気味よく疾走シタ。〈フラワー〉の事務所がある中郡大磯町は、祥太郎が住む平塚市と隣接している。祥太郎の足なら15分とかからずに到着する距離だった。
朝陽を反射して煌めく海原が広がる日には、祥太郎は必ずといっていいほど考えた。いつか赤やオレンジといった暖色系の油絵の具を使い、この風景を描く時がくるのだろうかと。そして即座に、それは恐らく無理だろうと、その考えを払拭するように頭を横に振るのが、晴天の日の半ば習慣と化していた。
12年前、母屋のアトリエ内で父親の哲生が惨殺される様子を目撃した直後、祥太郎は暖色系の油絵の具をすべて捨てた。以降、『ゲロニカ』の模写を続け、黒と白、藍色の絵の具以外は一度も買い足すことはなかった。今後もおなじことを繰り返し、自分のオリジナル作品を制作することはない。そう思っていた。
けれどその一方で、ピカソが長年過ごしたフランス・パリに行ってみたい、という気持ちも密かに抱いていた。とりわけ、巨匠が貧窮のなか、数多くの芸術家とともに青春時代を過ごしたモンマルトルに住み、感性の赴くまま自由に絵を描き、気ままに暮らしてみたい。そうすることができれば、鬱屈とした人生が一変するかもしれない。
そんな夢を見ることもあるが、それこそ絵に描いた餅。先立つものがない、というのが実情だった。けれど、中島社長から出勤日を増やすか、あるいは正社員登用の打診を受けているものの、祥太郎にその気はなかった。中島にはまだ伝えていないものの、祥太郎はじきにバイトを辞めるつもりでいた。
傍らを流れる絶景を忘れるほど自分の考えに没頭しているうちに、いつしか大磯町に入り、祥太郎はサイクリングロードから横道へと抜けた。そのまま大磯駅方面へ続くなだらかな坂道を登る。閑静な住宅街で、通勤や通学にはまだ早い時間帯のため、人の気配はなかった。
やがて〈フラワー〉が所有する敷地に到着した。駐車場に停まる2トントラックはすでにエンジンがかかっており、二棟あるプレハブ小屋の一棟、事務所として使用しているほうから、作業着を着た中島が姿を見せた。小柄だが力仕事をしているために肩回りはごつく、
「おはよう。急にすまないね。ありがとう。いつも助かるよ」と祥太郎に向けた柔和な笑顔とはギャップがあった。
おはようございます、と祥太郎は軽く頭を下げながら自転車を停めて、「すぐに着替えます」口早にいうと、軽く雑談を交わそうとする中島から逃れるように、物置兼更衣室として使用するもう一棟のプレハブ小屋に入り作業着に着替えた。バックパックの中からステンレスボトルだけを取り出してポケットに忍ばせ外に出ると、
「道具は全部積んであるから」駐車場の横に設置された自動販売機の前から中島が声をかけてきた。「どれ飲む?」
遠慮しても無駄だと知る祥太郎は、ホットの缶コーヒーを奢ってもらい、トラックの助手席に座った。車内はラジオがかかりニュースを伝えていた。
「日中は季節外れの夏日になるって。さっき、天気予報でいってた」運転席に乗り込みながら中島はため息混じりにいう。「11月になっても気温がちっとも下がらないのは異常だよね。やっぱり温暖化が進んでるんだな。あ、これ今日の現場」
中島が差し出したクリップボードには、見積書の他に数枚の紙が挟まれていた。依頼主の欄には『川島真理子』と記載されている。一枚めくると、前もって撮影された現場の写真がプリントされてあった。平屋の古民家。部屋を埋め尽くすゴミの山、そのなかにぽっかり空いたわずかなスペースの床が黒い染みで汚れていた。
中島は百円ライターで紙たばこに火をつけ、トラックを発進させながら横目で祥太郎の手元を見た。
「異臭に気づいた近所の人が警察に連絡して、ご遺体を発見したらしい。死因は心疾患で、死後二週間ほど経過。真夏じゃないとはいえ、このところ暖かい日が続いてるから、腐敗はかなり進行してた。昨日の夜、オゾン脱臭機を設置してきたから、臭いはすこしは緩和されてると思うけど」とラジオの音量を下げて説明をはじめた。「家主は長らく1人で住んでて、近所の方々とはあまり交流がなかったみたいだね。家族は東京に住むお孫さんが1人きりだけど、ここ数年顔を合わすことも連絡を取ることもなかったって。昨日、見積もりの時に会ったけど、土地を相続したら高く売りたいから、悪い噂が流れないように目立たず作業をしてくれって」
狭い道を巧みなハンドルさばきで運転する中島の話に耳を傾けながら、祥太郎はまたか、と思った。大磯町は、明治・昭和にかけて、伊藤博文や吉田茂、岩崎弥之助など、日本を代表する政財界の大物たちがこぞって集まる避暑・避寒地として栄え、彼らの邸宅や別荘が建ち並んだ。現在はマンション建設や宅地分譲などで当時とは環境が変わっているものの、先祖代々受け継がれた古民家で1人暮らす老人が孤独死を迎えるケースはすくなくない。祥太郎が〈フラワー〉でバイトをするようになった半年あまりの期間だけでも、すでに数件、同様の現場を経験していた。
「というわけだからよろしく」と説明を終えた中島は、ラジオの音量を元に戻した。ニュースは昨夜おこなわれた、プロ野球日本シリーズの結果を伝えていた。〈横浜マリンスターズ〉の3連敗を耳にした中島が、
「王手かけられちゃったか。復調しないね、佐々木くん。初戦を落としたのが痛かった」と苦笑いしながら祥太郎をちらっと見た。「夏過ぎてからずっと調子崩してる。2年目のジンクスってやつなのかなぁ。エースがあれじゃあ、ちょっと厳しいよね」
祥太郎は曖昧に頷いた。
「昨日は応援、行かなかったの? 昔のよしみでチケット貰えたりしないの?」
昨年、夏の甲子園優勝投手として鳴り物入りで〈横浜マリンスターズ〉に入団した佐々木圭吾は、学童野球クラブ〈平塚ファイターズ〉で祥太郎のチームメイトだった。といっても、当時から体格も実力もずば抜けて目立ち、エースで4番を務めていた佐々木に比べ、祥太郎は万年補欠。影の薄い存在だった。練習が辛く辞めたかったが、父親の死後、家のなかで塞ぎ込んでいては駄目だと、叔父に無理やり入団させられたために、歯を食いしばって続けた。いまとなっては苦い思い出だった。
「僕はそんなに仲がよかったわけではないので」
「そっかぁ。監督さんは?」
「たぶん、招待されたと思います」
「だよね。恩師だもん。平塚ファイターズの川見監督っていったら、野球に詳しい人のあいだでは有名だもんね。そんな人にじきじきに指導してもらったんだから羨ましいよ」
「……そうですか」祥太郎はぼそりと答えた。
「あのさ、祥太郎くん、無理してない?」
中島のトーンが急に下がったことに祥太郎は驚き、
「なにがですか?」と振り返ると、憐れむような視線にぶつかった。
「いや、こちらから頼んでおいて、こんなこと訊くのもなんだけどさ。祥太郎くん、過去にあんなことがあったわけでしょ? だから現場で血とか見て辛くないのかって、秋元さんも心配してた」
〝秋元さん〟というのは、〈フラワー〉に週2回、事務作業でパート勤務する秋元和恵のことだ。せんべいを口にしてない時は常に喋り続け、いかにも噂好きの中年女性という印象だった。結婚してから20年以上、大磯に住んでいると聞いた。だから、自分の過去の事件のことも当時から知っていて、あることないこと耳にして興味を抱いているのだろう、と祥太郎は以前から鬱陶しく思っていた。
「祥太郎くん、真面目だし、よく働いてくれるから助かってるんだけど、だからこそ断れなくて無理してるんじゃないかって思ってさ。秋元さんがいうには、フラッシュバックしたりするんじゃないかって」中島は話を続け、信号待ちでトラックを停めると、眉毛を八の字にさせた顔を祥太郎に向けてきた。「そんなことない?」
「ないです」祥太郎は微笑みながら即答した。「昔のことを思い出すことはないですし、とても意義のある仕事だと思ってますから」
「そう? 本当に? それならよかった」中島の顔から八の字が消えて笑みがこぼれた。「正社員の件、考え直してくれるなら、うちはいつでも大歓迎だから」
特殊な業態柄、人材難に悩まされているのだろう。中島は言葉に力を込め、信号が青に変わったのに気づくとアクセルを踏んだ。
「考えておきます」
社交辞令で答えた祥太郎に、中島は「うん」と上機嫌で頷くと、「寄っていこうか」と、すぐ近くのコンビニにトラックを停めた。現場に到着して作業が始まると、室内の臭いが身体中に付着してしまうため、昼休憩は取らず、ぶっ通しで清掃することになる。水分補給だけは欠かせないため、中島は2リットルのペットボトル入りのミネラルウォーターとスポーツドリンクを四本ずつ、ロックアイスを数袋、塩タブレットを購入した。トラックの荷台に積んであるクーラーボックスに買ったばかりの氷を敷き詰め、その上にペットボトルを並べて蓋をきっちり閉めると準備は完了だ。
コンビニから山林地帯に入ると家の数は減るが、それに比例して一世帯当たりの敷地は広くなり、古くからの住民であることを誇示するような風情ある日本家屋が散見されるようになった。
舗装されてない隘路をしばらく進んだところで、
「ああ、あそこ。見えた」
竹林に囲まれた平屋を指差し、中島は窓を開けて隙間風に鼻先を向けた。とくに夏場、遺体が放置されていた期間が長い場合や、あるいはオゾン脱臭機がなんらかのトラブルによって停止してしまった場合、現場周辺に腐敗臭が漂うことがある。そうなると当然、作業のきつさは増すことになる。祥太郎も窓を開けて風に意識を向けるが、すこし湿り気を帯びた草と土の香りを感じるだけだった。
「問題なさそうだね」と呟いた中島は、「依頼主が待ってる」平屋の玄関先に駐車された黄色い車体のポルシェに顎をしゃくり、「お孫さん、名の知れたファッションデザイナーらしいよ」まるで内緒ごとのように声を潜めていった。
先方もトラックに気づいたらしく、茶色のボブヘアーに整った顔立ち、いかにもブランド然とした艶のあるスーツで身を固めた長身の中年女性が、眉間にしわを寄せながら電子たばこを手に、ポルシェの運転席から出てきた。まるでタクシーを呼び止めるように片手を上げて合図した。中島に倣い、祥太郎も会釈を返した。どうやら彼女が依頼主の川島真理子で間違いないようだ。彼女の鋭い眼差しを受け、作業に細かく口出しする面倒な顧客でなければいいのだが、と祥太郎は心配したけれど、杞憂であることはすぐにわかった。
「私、あの爺さんとは仲が悪かったの」
中島と祥太郎がトラックから出ると、真理子は挨拶もそこそこに、ブルーベリーの香りがする煙を口から吐き出しながら、興味なさそうな顔でいった。見た目はまったく異なるが、祥太郎は姉のことを思い出した。2歳上の紗季は昔から叔父夫婦と折り合いが悪く、看護師の資格を取って就職が決まると、すぐに家を出てしまった。自分とは違い叔父たちに優しく接してもらう祥太郎のことを快く思っていないようで、父親が亡くなってからはずっと冷やかな態度を見せていた。その姿が真理子の様子と重なり、祥太郎は居心地の悪さを感じた。
「だから要らないの。金品以外、遺品は全部、容赦なく捨てちゃっていいから。いちいち私に確認取らなくていい」という真理子の口調は冷淡だった。
中島が2、3の確認事項を済ますと、
「じゃあ、近くのファミレスで仕事してるから、終わったら呼んで。なるべく早く。だけどきれいに。近所の連中にはなにしてるのかバレないように。よろしく」
真理子はポルシェに乗り込み、颯爽と去って行ってしまった。
「さてと」中島は苦笑いを浮かべ、「じゃあ、はじめるとしますか。まずは換気をよろしく。それから流れを指示するよ」そういうとトラックの運転席に乗り込み、縁側に荷台を寄せて停めた。廊下を隔てた窓ガラスは全面、びっしりと黒い物体に覆われ、かすかに揺れていた。オゾンの刺激に耐えかね、逃げ場を求める蝿の群れだ。おそらく数千、もしかしたら一万匹近く棲息しているかもしれない。
「ゴミと汚れが集中してるのは、この部屋だけだから頑張ろう」
運転席から降りてきた中島が鼓舞するようにいい、祥太郎は頷くと、トラックの荷台に置かれた仕事道具一式を縁側に並べた。遺体が放置されていた現場には得体の知れない無数の細菌が蔓延しているため、帽子をかぶり、防護ゴーグルと防毒マスクは必須で着用しなければならない。たとえ完璧に対策をしたつもりでも、結膜炎や扁桃腺が腫れて高熱を出したり、厚い生地の作業着越しに腐敗液に触れたせいで皮膚が爛れたことが何度かあり、祥太郎はこの仕事の過酷さを身をもって知っていた。だから、作業着の上から雨合羽を着てゴム手袋と長靴を着用すると、隙間から汚物が入り込まないようにと、養生テープを何重にも巻きつけた。
縁側に上がり準備を整えた祥太郎は、廊下へと進みガラス戸の取っ手に手をかけた。うしろを振り返り、「開けます」と、おなじく完全装備でホウキとちりとりを手に待機している中島に声をかけた。
「いいよ」という中島の返事に頷き返すと、祥太郎は一気に引き戸を開け放った。
天井まで積み上げられたゴミが雪崩を起こして落ちてくるのと同時に、サーッという羽音を立てながら、黒い雲のような蝿の群れが室内から外へと飛び出してきた。
最初に現場を訪れたとき、なにも知らなかった祥太郎は、この群れをモロに真正面から受けて卒倒しそうになった。そのときの教訓から、いまは脇に寄って待機していた。
業務用のオゾン脱臭機は、人間ですら生命に危険が及ぶほど強力だ。たとえ防毒マスクをしていても作業前には一定時間の換気が必須。廊下に流れ出たゴミの上には死んだ蝿やサナギの山が築かれていて、なんとか生き延びていた蝿も、外に飛び出した直後に息絶えてしまい、廊下と縁側、庭先に黒い列をなして死骸が積み重なっていった。
中島がそれらを素早くホウキで掃き、ちりとりの中に回収。祥太郎は九十リットル容量のゴミ袋を広げて待ち受けた。オゾンの影響で、蝿を踏みつけると、枯れ葉道を歩くようなサクサクとした感覚が、ゴム底越しに足の裏に伝わった。蛆虫を踏んだときの、絵の具がブチュッと飛び出すような不快な感触と比べると、祥太郎はちっとも気にならなかった。
部屋のなかからオゾン脱臭機を見つけ出して電源を切り、ゴミ袋がいっぱいになると、口を縛ってトラックの荷台に放り投げた。
阿吽の呼吸で蝿とサナギの除去を終えた頃には、室内の換気は済んでいるため、そのままゴミの撤去に取りかかった。分別は事務所に戻ってからのあと回しで、手に取った物をリレー方式の流れ作業でトラックの荷台に積み込んでいく。ゴミ屋敷を掃除する上で効率がいいのは、オセロのように四隅を攻めていくこと。中島からそう教わった祥太郎は、ガラス戸と壁に沿い、自分が歩けるスペース分だけのゴミを廊下へ放り投げながら突き進んでいった。
畳にはジュースやカップラーメンの汁などが浸食して、その表面にカビが発生しているため、黒や茶色のまだら模様になっていた。ひと晩脱臭しても猛烈な腐敗臭を完全に取り除くのは困難で、防毒マスク越しにも悪臭が鼻腔を刺激した。
それでも休む間もなく身体を動かしていると、5分もしないうちに全身から汗が滲み出してきて、ゴーグルが曇りはじめたが、構わず作業を続けた。
そうして3時間あまりが経過した頃、ようやく部屋の中心が見えてきた。そこから油の腐ったような臭いが漂ってきた。家主が1日の大半を過ごし、最後は死に絶えた場所だ。そこだけぽっかり一畳ほどの空間があり、そこで亡くなった家主の身体が溶けて真っ黒な腐敗液と化し、体型が大の字状にくっきりと残り、その表面に乳白色のウジやハサミ虫、蝿の死骸がこんもりと横たわっていた。そのなかにはまだ生きているウジがいて、海中で潮の流れに翻弄されるイソギンチャクのように波打って蠢いていた。
遺体はすでに警察が運び出したあとだが、搬出の際に頭皮ごとずり落ちたらしく、頭があった部分に白髪が散在していた。その傍に小さな水槽が置かれ、底に張られた茶色い水のなかで、祥太郎の手のひらほどの大きさのミドリガメが、助けを求めるように手足をバタつかせていた。
「生きてる……」その生命力に驚き、祥太郎は思わず呟いた。
家主が心を寄せる生き物はおそらく、この世でこのミドリガメしかいなかったのだ。そう思うと寂寥感が胸を衝いたが、いちいち感傷に浸っていては日が暮れてしまう。手早く残りのゴミを片づけ、縁側から噴霧器を取ってくると、腐敗液の上に二酸化塩素を主成分とする特殊な消毒液を散布しはじめた。そうすることで腐敗液の表面が固まり、それをスクレーバーで削り取ってからスポンジで汚れを拭き、最後に消毒剤を撒いて畳を撤去するのだ。
ゴミの回収を終えた中島が、日本酒の入った小瓶を手に祥太郎の隣に立ち、
「床下までは浸食してなさそうだね」とひと目で判断を下した。それから、祥太郎が消毒液の散布を終えたタイミングで、
「じゃあ、ちょっといいかな」と声をかけた。
はい、と頷いた祥太郎は噴霧器を傍らに置き、家主の遺体の痕跡の上に酒を振り撒く中島の横に立った。中島が慣例とする弔いの儀式だ。
「よし」小瓶を空にした中島が合掌瞑目する。祥太郎もそれに倣うと、室内に静寂が訪れた。祥太郎は毎回、死者の声が聞こえてくるのではないかと耳を澄ますが、いままで一度もそんな現象が起こることはなかった。
よし、という合図で中島は儀式を終え、「すこし休憩しようか。たばこ吸ってくるから、祥太郎くんも適当に休んで」といいながら、さっさと縁側へ向かう。
全身に汗を掻き、喉はカラカラに乾き水分を欲していたけれど、祥太郎はすぐにはその場を離れなかった。中島とは違う自分なりの鎮魂の方法があるからだ。
カチカチと百円ライターのボタンを押す音が背後から聞こえ、祥太郎は振り返った。中島がこちらに背中を向けて、たばこの煙を深々と吸い込む様子を確認すると、祥太郎はポケットのなかにそっと手を差し入れた。