『モナ・リザ』失踪
19世紀後半以降、美術界では〝ガラス問題〟が論争の的になっていた。絵画を保護するためのガラス設置が盛んにおこなわれ、芸術を守るために必要であるという意見がある一方、「絵を見えにくくする」という不評を買っていた。
そんな風潮を逆手に取り、ユニークな作品に取りかかろうとする画家がいた。彼の名前はルイ・ベルー。1911年8月22日火曜日の朝、レオナルド・ダ・ヴィンチの名画『モナ・リザ』の防護ガラスを題材に、〝ガラスを鏡代わりに化粧をする女性を描く〟というアイデアを思いついたのだ。
ベルーはその朝、ルーブル美術館の一室サロン・カレ(方形の間)を一般の開館時間よりも前に訪れた。彼は五年前から同部屋に展示された絵をモチーフにした独自の作品を制作しており、一般の人々だけでなく、美術館の学芸員のあいだでも評判を得ていた。現在、美術界で取り沙汰される〝ガラス問題〟をテーマにした新作もきっと話題を集めるはず。ベルーは逸る気持ちを抑え切れず、いつもより早起きをしてサロン・カレに踏み入ったのだった。
ところが、いつも妖艶な笑みを浮かべて迎えてくれる『モナ・リザ』の姿はなく、ベラスケスの『マルガリータ王女』の横、赤い壁紙には額縁を固定する四本の釘が残されているだけで、ぽっかりと空間ができていた。
ベルーが顔なじみの警備主任ポパルダンに問い合わせたところ、
「写真館に行ってると思う。まもなく、元の場所に返されるだろう」という言葉が返ってきた。
ベルーはこの返答に納得した。ルーブル美術館と全国立美術館の公認写真館アドルフ・ブラウンには絶大な特権が与えられており、同写真館は契約により、特別に設けられたスタジオの中に作品を運び込み、撮影してカーボン印画紙に焼き付けをすることが許されていたからだ。
だから『モナ・リザ』は、束の間のバカンスが済み次第、所定の位置に戻ってくるはず。ベルーは知人の版画家ラギエルミーと雑談を交わし、『モナ・リザ誘拐』という冗談を言い合ったりして、貴婦人の帰還を待つことにした。
ところが、いくら待てどもお目当ての傑作は戻ってこず、一般公開の開館時間がきたところで静寂は破られてしまった。
ベルーがもう一度問い合わせると、ポパルダンはようやく異変に気づき、同僚の一人を写真室に向かわせた。だが、絵画はそこになかった。不安を抱いたポパルダンは職員を分散させて館内を捜索させた。
その内の一人が、職員用の通路の踊り場に、彫刻と塗金を施した額縁が放置されていることに気づいた。その飾り枠のなかには黒の丁寧な書体で、
『レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452~1519年)フィレンチェ派 「ラ・ジョコンド」(モナ・リザの肖像)』
そう記されていた。
折りしも夏のヴァカンス・シーズン真っ只中。国立美術館館長オモルが不在のなか、
「『モナ・リザ』を壁から外すのと、ノートル=ダム大聖堂の二つの塔を持ち去ることは不可能」と称されていた名画は、いとも簡単に何者かによって盗み出されてしまったのだ。
『モナ・リザ』失踪の報告は、正午すこし前、同館事務員のガルブランにより、臨時的にオモルの責務を代理するジョルジュ・ベネディクトに電話で伝えられた。
午後にはカルーゼル広場の入館が禁止され、警視総監ルイ・レピーヌ、パリ警察庁の捜査官アマールと、その部下の腕利きの刑事六十名ほどが集まり捜索が開始された。
さかのぼることおよそ1年前、『モナ・リザ』はル・クリ・ド・パリ紙によって盗難を誤報され、大きな波紋を呼んだ。同様の混乱を避けるため、美術館の入り口で事情を訊く人々に対して警備員の1人は、「水道管が破裂した」と説明した。
一方、別の扉では、気を高ぶらせた警備員が、ル・タン紙の記者に対して口を滑らせてしまい、『モナ・リザ』盗難を認めてしまった。しかし、美術館に出入りする関係者全員を把握していることを根拠に、
「きっと見つかりますよ。確実です」と発言した。
彼の言う通り、『モナ・リザ』はたしかに帰還した。しかし、再びルーブルのサロン・カレに展示されたのは1914年1月のこと。パリ市民がその名画を観賞するためには、失踪から2年半近くものあいだ、待たなければならなかったのだ。