水を呪う
「これ…何?」
研究室のいつも本が山積みの机はその一角だけが綺麗に片付けられていた。そしてそこにはペットボトルが五本並んでいる。手に取った一本目には赤いマジックで「呪」と書かれている。隣には同様に「苦」「楽」「死」と文字が続く。何かの悪戯のようにも見えた。ラベルは某有名メーカーの天然水だ。最後の一本のみ何も書かれてはいない。全てのペットボトルが未開封のようだった。
「文字通りの意味ですよ」
後輩の神谷は笑う。
「呪われたくなかったら飲まないように。それよりも卒論のテーマをそろそろ決める時期なのに先輩はどうするんですか?」
ミチルの手からペットボトルをやんわりと奪い取り神谷はそれを再び元の場所に並べ直す。
「…そもそもなんで民俗学なんて選んでしまったのかも思い出せないのに、卒論なんて無理無理」
言いながらも不意にミチルは無防備な表情を晒した。本当にこれがここ数ヶ月間、神谷を脅かしていた存在なのだろうか。
「なんて…などと言われるとは残念ですねぇ。先輩は優秀な学生だったんですよ?」
「そんなこと言われても…何も思い出せないもの」
春休みに郷里に帰省すると言っていた。お土産は何がいい?土産は要らないから早く帰って来て下さいと心にも無いことを言って見送った。そのまま彼女は戻らなかった。交通事故に遭ったという知らせを聞いたのは程なくしてからだった。怪我自体はそこまで酷いものではないと聞いてホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、戻ってきた彼女は、自分が所属していた学部はおろか、民俗学への執着をも失っていた。そして神谷にずっと向けられていた重苦しいほどに絡み付く負の感情も。
(いや、むしろこれで良かったのかもしれない…)
ただの先輩と後輩に戻れるならば。今ならまだ間に合う。これ以上罪を重ねる前に。
そこまで考えて神谷は己の拳を握る。そうでもしていないと溢れ出す怒りとも憎悪ともつかぬ激情を抑えられなかった。
「先輩の事情を鑑みて多少は採点を甘くすることも考慮に入れるって先生も言ってたじゃないですか。以前、出していたタイトルは本当に破棄していいんですか?」
「あぁ何だっけ?産土神信仰となんちゃらかんちゃら…ってやたらと長いやつ?タイトルを聞いてもさっぱりなんで、破棄よ破棄!」
ミチルは鞄にノートをしまうと足早に研究室から出てゆく。鼻につく香水の香りだけが残った。気分が悪い。閉まったドアを見つめて神谷は深いため息をついた。程なくして部屋の奥から仮眠を取っていた、この研究室の主がだらしない顔を覗かせた。犬神絢斗助教授だ。文字通りの師であり残念な主。ヨレヨレの白衣を着ているのは、服を選ぶのが面倒だからだと聞いたことがある。
「あれはもう…すっかり別人だな。怪我の功名というと不謹慎だが」
椅子に座って何やら思案する様子の神谷に向かって、犬神は冷蔵庫を開けて中からコーヒーを二本取り出した。一本を神谷の額に当てる。ビクリとして神谷はようやく視線を犬神に向けた。
「神谷もつくづく厄介な奴に好かれるよなぁ…」
本人はブラック派なのに違うものを渡してくれるのは、神谷がブラックは飲めないのを知っているからだ。その程度には気遣ってもらえる。でも今日のは何故かカフェインレスのカフェラテだった。しかも甘くないと書いてある。甘い方が好きなのに。それでも有り難く受け取って缶のキャップを開けようとしたが、力が入らず回らなかった。気持ち悪い。
「非力かよ」
神谷の手からカフェラテを奪い取りキャップを難なく開ける。それを渡しながら犬神は告げた。
「神谷もそろそろ腹を括れ。私はそこまで気長じゃないんでね。この程度で怖気づいているなら私がやる」
神谷は力なく首を横に振る。カフェラテに口をつけた。ふうっと息を吐く。美味しいと思った。そうして机にきちんと並んだペットボトルに顔を向けた。
「…先生なら…どれを飲みますか?」
犬神はフンと鼻を鳴らして手にした缶コーヒーを持ち上げた。
「ぬるい水など、どれも勘弁願いたいね。私はよく冷えたブラック一択だ」
***
最初は余興だったが、どうせならやってみようと、このよく分からない試みは今も続いていた。言い出した本人は途中本当に死に魅せられたのか、はたまた偶然か、その代償として記憶まで失っているというのに、ペットボトルはまだ残っている。最低でも一日一回、書いた文字にふさわしい物語や言葉をゼミの各担当者がそのペットボトルに語って聞かせる。「呪」には悪口雑言、過去に誰かから言われて嫌だった言葉などを片っ端から投げつけた。だからそのとき口から不意に漏れた低い呟きを聞かれるとは思ってもみなかった。
「…生まれてこなきゃ良かったのに」
自分のものとは思えない声にゾッとする。カタリと音がして振り返ると虚を突かれたような顔をした犬神が立ち尽くしていた。
「あ、あの…先生…今のはちょっとした検証でして、僕には無関係な言葉なので気にしないで下さい…」
無理矢理笑って誤魔化そうとしたが失敗した。途方に暮れた子どものような顔の神谷を見下ろして、犬神は困った顔で長めの前髪をわしわしと掻いた。
「神谷、今どんな顔してるか分かってないだろ。完全に迷子になってるぞ?あー困るんだよなぁ。こういうのは。結局他人より血縁からの呪いが一番深く抉られるんだよ」
ちょっと来いと言われて、犬神は研究室の奥にあるドアノブの札を仮眠中にひっくり返し、招き入れると内側から鍵をかけた。
「今はただの犬神と神谷だ。他のことは忘れろ。この部屋は音楽好きな前の教授が防音工事をしたから泣いても大丈夫だ。研究室には聞こえない。好きなだけ泣いとけよ」
犬神に頭を撫でられて、神谷は結局縋り付いてしまった。それでもかろうじて声は押し殺す。
「ご…めんなさい…」
「何で謝るんだよ。俺が好きで胸を貸してやってるだけだから気にするな」
しばらく犬神は黙っていたが、ためらった末に口を開いた。
「答えたくなかったら言わなくていいが、さっきのは神谷が必要以上に男みたいな格好をしているのと関係してるのか?まぁ似合ってるけどな…でも時々無理してるようにも見える。単なる独り言だ、聞き流せ」
静かに頭を撫でる大きな手に安堵しつつも神谷は若干のもどかしさを感じる。だがこれ以上を求めればいつか足元をすくわれる気もした。
「二年前に…弟が…死んで…それで母が…」
この格好でなければ、男のフリをしていなければ帰れない。春休みはバイトが忙しいからと帰らなかった。帰りたくなかった。神谷遥を見ない家。姉の遥はいらなくても弟の洋は必要だ。
「…女に戻りたいなら戻してやるよ。って、これじゃ弱みにつけ込む悪い男の典型だな。神谷は真面目だからなぁ」
離そうとしたその手を神谷は掴んでしまった。
「…戻せるんですか?」
無言の肯定。犬神もまた何かを隠している。そんな気がした。時折見せる仄暗い表情がむしろそれを雄弁に物語る。どこか現実を突き放した諦めと退廃。気付いたときには、どちらからともなく唇を重ねていた。思いの外力強い腕に抱きしめられて、神谷は束の間自己の存在を肯定された気がした。けれども、犬神はそれ以上のことはしてこなかった。その代わりのように犬神は耳元で囁いた。耳朶に触れる吐息は熱かった。
「…続きは、遥が自分で呪いを解いてからだ」
後になってから、確かにあのとき下の名前を呼ばれたのだと神谷は気付いた。そして、その日以降神谷は縛られた。恋情という名の呪いよりも厄介な感情に。
***
「えぇ!?あれってニガいじゃないの?ずっとそう思ってニガいもの連想で話してたんだけど。センブリ茶とか」
同じゼミの同期の猫田が叫ぶ。大学からは少し遠いファミレスに三人はいた。
「お前、声でかい。ってかアホか。ニガいってなんだよ。あの並びで来るのは苦しいの一択だろ」
一つ上の五條が猫田に向かってため息をつく。皆犬神ゼミの面々だ。神谷は二人を見ながら苦笑する。
「いっそのこと、甘いも足してみる?」
「神谷ぁ!やっぱり神谷は神や!」
「アホ。猫田は昭和にでもタイムスリップしてろ」
「昭和をバカにするなよ。昭和と田舎をバカにする者はいつか民俗学に祟られるんだからな!」
「意味が分からん。それはそうと、M先輩の件は…本当に大丈夫なのか?」
五條は急に声のトーンを更に落とす。
「…うん。僕のことも忘れてるみたいだし…」
研究室で神谷はミチルに脅された。先生との関係をバラすと。何もないと言ったが信じて貰えなかった。確かに何もなかった訳ではない。そうして、それをネタに自分の卒論を代わりに書くようにと強要してきた。「産土神信仰と氏神信仰、都市化に伴う信仰の融合と変遷」それは元々は神谷のテーマだ。理解など出来ていなくて当然だ。元々誰かのネタを横取りしては、その場しのぎの秀才を演じていたに過ぎない。それを知っていても犬神が何もしないのは、彼女が先の元学園長の孫だからだ。神谷のことを男だと思い込んでいたミチルは、強引に関係を持とうとして神谷を襲ったが、そこに現れた猫田と五條がミチルを助けた。ミチルは慌てて襲われたのは自分だと言い訳したが、そのときミチルの下敷きになっていたのは神谷で、卒論云々のくだりも聞かれていた。実は五條もミチルの被害者だと知ったのはつい最近のことだった。
「何をきっかけに記憶を取り戻すかも分からないしね。とりあえずバラバラじゃなく、出来るだけみんなで行動しておいた方がいいかも」
男子なのに神谷よりも女子力の高い猫田がゆるふわに巻いた金の髪を揺らす。ゴリゴリのゴシック風の衣装はかなり目立つが色白の猫田にはよく似合っていた。猫田と同郷だという五條は黒髪に黒縁眼鏡をかけており、最初は寡黙な秀才という風貌だったが、口を開くと意外とフランクで話しやすい人柄だった。
「民俗学そのものもいずれは廃れて、弔う日がくるのかな…僕たちの村みたいに」
猫田がクリームソーダをすすりながらふと遠い目をする。猫田と五條の過ごした村は過疎化が進み今はダムの底だと聞いた。水底に沈む村を想像する。いっそのこと自分も一緒に冷たいその中に沈んでしまいたい。神谷はそんなことを思いながら猫田のソーダ水に溶けてゆく白いアイスを見つめていた。
***
結局この家に帰ってきてしまう。夕暮れになると身体が更に重かった。滲み出る汗が不快だ。合鍵を回して犬神の持っている物件の一つだというマンションの部屋に神谷は帰る。どこぞの御曹司かと突っ込みを入れたくなる無駄に部屋数の多い物件。元々借りていたワンルームを引き払ったのは以前ミチルに住所がバレてしまった為だ。それ以降、あちこちを転々としていた。
元々神谷の私物は少ない。段ボール二個にまとまった荷物を犬神は二度見した。
「それだけ?」
「…断捨離したら…捨てすぎて…」
咄嗟に嘘をついた。元々何も無い。暗い部屋に電気をつけ、手洗いうがいをする。まだ犬神は帰ってこない。空き部屋の一つに神谷は居候していた。冷蔵庫を開けてペットボトルを出しコップに注ぐ。半分くらい飲んだところで、鍵の開く音がした。
「ただいま」
犬神が帰宅する。うがいと手洗いの音がした。キッチンにいる神谷の手からコップを奪い取り犬神は残りの半分を飲み干す。恨めしい顔つきでもしていたのだろうか。飲み終わったと思ったところで犬神の顔が近づいてきて口移しに水を流し込まれた。少し冷たさを失った水が喉を通り過ぎるのを感じる。この水に何とか自分は意地汚く生かされている、そんな気がした。
「…何を拾ってきた?ったく」
犬神は神谷の肩をポンポンと払う。重苦しい感覚が気のせいか軽くなったような気がした。
「あ、先生…おかえりなさい」
「厄介なのに好かれるなと言ってるだろう。まったく」
「はぁ…」
「相変わらず無自覚か。もう少し生きることに興味を持ってもらわないと、向こう側にひっぱられるぞ」
「…生きていてもしょうがないって…本当は先生もちょっとは思ってますよね…」
神谷の言葉に犬神は心底嫌そうな顔をした。
「…俺の分析はいいんだよ」
何かを続けようとしたが、犬神はあきらめた。
「素麺でも食べるか。今用意するから座ってろ」
大人しく頷く。何故か胃の辺りがむかむかした。
「少しで…いいです。あまり食欲がないから…」
「分かったよ」
犬神は何故か切ない目をしてこちらを見つめたが何も言わなかった。
***
「さて、水の変貌やいかに」
数日後、それぞれの語りを聞かせた水のペットボトルを前に、犬神ゼミの面々が顔を合わせていた。犬神助教授を筆頭に、猫田、五條、ミチル、神谷が集まっている。
「呪」「苦」「楽」「死」、そして無記名のペットボトルが並んでいる。小さなプラスチックのコップに同じ文字を人数分書き込み、それぞれを同じ文字の書かれたペットボトルの前に並べた。
「くだらない」
やろうと言い出した本人であるミチルが呆れたように言う。ちなみにミチルの担当は「死」だ。
「ごめんなさい、苦しいじゃなくてニガいだと思ってました。にがくなれ、にがくなれって念を込めました」
あっけらかんと猫田が笑う。
「まぁ味に影響が出るなら分かりやすいんじゃないの?」
ミチルが足を組み替える。
「楽は私です。楽しい話を聞かせました」
さして楽しくもなさそうに五條が淡々と述べて猫田と担当を逆にすれば良かったのではと、神谷は今さらながら思う。
「僕は呪を担当しました…」
神谷はぽつりと呟く。ちらりと犬神を見てしまったが彼は無表情だった。犬神がペットボトルを開封しそれぞれのコップに水を注いでゆく。全てのコップに水を注ぎ終えたところで犬神は告げた。
「さて、この中に本当に味の変わった水はあるのかどうか。まずは何もしていない水から。その次に苦の水を」
一斉に無記名の水を飲む。その次に苦の水を皆、何となく恐る恐る口に含む。
「ん?」
「いや…違いなんて分からない」
「うーん」
「では次は楽の水を」
犬神の声に再び一同は水を口に含む。
「…あれ?何となく口当たりが軽いような」
「うーん」
「そう?変わらない」
「では次に死の水を」
言ったところでミチルが口を開く。
「死は特にやってません。話すのもバカらしくて」
犬神は何も言わなかったが徐ろに「呪」のペットボトルに残った水に口をつけ一気に飲み干した。一同が呆気にとられる中、その顔が苦悶に歪み口から血が溢れ出る。胸を抑えて犬神は倒れた。
「いやぁぁぁぁ!!」
誰の悲鳴かと思ったら、それは神谷自身の喉から溢れ出た叫び声だった。立ち上がって犬神の元に駆け寄る。
「絢斗!!死なないで!」
思わず叫んだ名前に神谷はハッとした。頭に鈍い痛みが走る。
「違う…あなたを呪ったんじゃない…呪われるべきは…」
神谷は呟いてそれきり意識を失った。
***
気が付くと白い天井とぶら下がる点滴が目に入った。どのくらい眠っていたのだろう。首を巡らすと傍らに犬神がいた。
「遥…?」
「…何だか長い夢を見ていたような気がする…」
神谷の言葉に犬神の表情が複雑に揺れた。
「先生…ってもう呼ばないから大丈夫。ようやく…思い出したから」
そうだった。神谷は大学を卒業して一年後に犬神と結婚したのだった。実家とは縁を切りしばらくは静かに暮らしていたが、程なくして体の異変に気付いた。産婦人科の待合室で遥は手渡されたエコー写真を現実味もなくぼんやりと見つめていた。気付けば美容室に飛び込み、伸ばしていた髪をばっさり切ってしまっていた。帰宅した鏡に映った自分を見て遥の意識は唐突に学生だった頃に巻き戻ってしまっていた。母になることへの恐怖だった。
「絢斗…ごめんなさい…私…急に怖くなって…」
「いや…遥をそこまで追い詰めるなら俺は子どもはもう望まないよ。遥はどうしたい?正直に言ってくれていいんだ」
絢斗は遥の手をそっと握った。いつも遥をこちら側に繋ぎ止める大きな手だ。
「違う…生みたくないんじゃないの…ただ…私も母のように子どもに呪いの言葉を吐くかもしれないと思ったら…やり切れなかった」
「大丈夫、言わせないよ…」
絢斗の言葉に遥は力なく笑う。
「…あのとき、本当に私の呪いの水を飲んだの?」
絢斗は首を横に振った。
「遥が呪いをかけた水は俺がきっちりしかるべき手順を経て処分したよ。まだ君を残して呪われる訳にはいかないからね」
表向きは民俗学の助教授だが、彼の裏の顔が祓い屋だと知ったのは婚約する前だった。そうして遥の家系が遡ると廃業した呪禁師だったこともその時に知らされた。
「時々、遥のように隔世遺伝して能力が開花する場合があるんだよ。もう一度聞くよ。遥はお腹の子どもをこの先どうしたい?」
絢斗の顔を見る。いつも遥を安心させる優しい目をしていた。
「私は…絢斗と一緒にお腹の子を育てたい…」
「ありがとう。じゃあ同じ言葉をもう一度言って。願いを込めて」
「私は、絢斗と一緒にお腹の子を育てたい」
「うん…これで大丈夫。遥の願いは叶うよ。これから一緒に子どもを育てよう」
絢斗は遥をそっと抱きしめた。絶対に何をしてでも守る。絢斗は心に誓った。
***
後日とある瀟洒な邸宅の一室で密談が行われていた。
「本当にこれが?効果は試したのか?」
「まさか。先生のように試す相手がそう簡単に見つかる訳ではありませんから。でも見た目はただの水です。中身も、もしかすると、ただの水…かもしれませんよ?先生は騙されているだけかもしれません…」
見た目はよくある未開封の天然水のペットボトルだった。ただ一つ異様なのは赤いマジックで「呪」と書かれていることだ。
「何の痕跡も残さず…面倒な相手のお腹の子を闇に葬り去れる…疑うなら、報酬は効果が分かってからでも構いません。ただしそのときは今提示している倍の金額を支払って頂きます。あぁ、あともう一つ。効きすぎて母体の息の根まで止める可能性もゼロではありませんので…そのときは悪しからず」
「相変わらず涼しい顔をして恐ろしいことを言う男だな」
高価なスーツに身を包んだ相手は低く笑う。
「そうですか?これはただのビジネスですよ。お互い良い取引をしましょう」
祓い屋もあくまで裏で仕事をする為の顔の一つでしかない。呪禁師本来の顔をして犬神絢斗は仄暗い笑みを浮かべる。ミチルにも素質はあったが所詮は程度が知れていた。それどころか遥に対する嫌がらせが次第にエスカレートしていったので事故に見せ掛けて記憶を消した。猫田と五條も遥を気に入っている。彼らは名のある神の成れの果てで、今は犬神の使役神だった。遥のお腹の子も順調に育っている。失われたと思った血筋の子孫の能力が再び花開いたのは絢斗にとって朗報だった。たとえ一人目に素質がなくとも遥は若い。まだまだ子どもが産める。子どもを一人で終わらせるつもりなど絢斗には毛頭なかった。
「そういえば奥さんもおめでたとか?君にはいつも世話になっているから、お祝いとしてここは倍額支払おうじゃないか」
「これはこれは、お心遣いに感謝致します、先生…」
金はいくらあってもいい。これから先、子育てにも必要だ。あぁ可哀想な遥。悪い男に捕まって。死人に執着して遥の命を脅かす母親もしかるべき施設に放り込んだ。もう二度と出てはこられないだろう。遥を呪ってくれてありがとう。むしろ感謝する。そうでなければ遥が覚醒することもなかったに違いない。呪いの発動を目撃したあの瞬間の得難い高揚感を絢斗はまざまざと思い出す。あの日あの瞬間に全てが決まった。
「これからも、この国の明るい未来を担う先生には協力を惜しみませんよ」
望むものを手に入れた絢斗は心にも無い台詞を口にして、今度こそ満足気に微笑んだ。