1-4.神々の諍い
「サリム、カイレル。我が子らよ」
――それは、全てを包み込むような深みと響きを帯びた声だった。
ワタルと兄弟との間には、はるか天空を挟むような距離があった。だが、神の言葉は空間の制約などものともしない。まるで空そのものが語りかけてくるかのように、二人の心へと直に届いた。
怒りに我を忘れていた兄弟も、その声に打たれては手を止めざるを得なかった。
頭を垂れることはしない――なぜなら、彼らは敬意とは心に宿すものであり、形式ではないと理解していたからだ。だが、その背筋は自然と正され、まるで神の意志が風となって彼らの姿勢を整えたかのようだった。
「話は聞いた。カイレルよ、その怒りは誤っておる。善を行わぬ者には、相応の罰が待つと知れ」
「……は、はい……」
カイレルは一歩引きながら、神の言葉を受け止めた。
けれど、その瞳にはまだ複雑な想いが揺れていた。悔しさ、劣等感、兄への羨望……それらが絡み合い、形をなさぬ霧のように胸中に漂っていた。
そんな彼に、ワタルは穏やかに続ける。
「お前の気持ちも分からぬではない。だから、少しばかり我と戦ってみぬか?」
「えっ……わ、私が……神と……?」
カイレルの目が大きく見開かれる。
「先程の兄弟喧嘩、なかなか見事であった。ならば、力を正しく振るう場を設けてやろう。兄弟で我に挑んでみよ」
「いえ……それは……神に刃を向けるなど、例え許されたとしても、心が――」
俯きかけた彼に、ワタルは苦笑を浮かべる。
そして、左手を軽く振った。
瞬間、空間が歪み、サリムとカイレルの間に“それ”が出現する。
――白い人形だった。のっぺりとした顔、無表情のまま立つ人型の器。それが、ただそこに在るだけで、空気に緊張が走る。
「これであればどうじゃ? 我の意志に従って動く模擬の戦士。全力をぶつけてみよ」
「……分かりました。神のご意志であれば」
カイレルは息を整え、隣の兄に視線を向けた。
「兄さん、行けるか?」
「もちろんだ。この狩人の力――見せてやろう」
二人は一気に間合いを詰め、白人形との交戦に突入した。
「いくぞ!」
サリムの手に宿る“炎”――いや、それは炎ではなかった。
この世界の根源的エネルギーを極限まで収束・圧縮し、放たれた矢は、空間すら飲み込みながら疾走した。それに触れた瞬間、存在は境界を失い、溶解して消える。破壊ではない。存在の“書き換え”だ。
続けて、カイレルの“切断”が追随する。
それは物理でも魔法でもない。対象の存在に「切断」という概念を直接上書きする力。
一度書き換えられたものは、どんなに強固であろうと、その全てが必ず裂ける。回避も防御も無意味。まさに絶対の神技だった。
二人の力が重なったとき、世界そのものが軋みを上げた。
だが。
白人形は、両手を軽く広げただけだった。
すべての攻撃が、空間の底へと沈んでいく。
「……っ!」
「終わりかな? では、行くぞ」
ワタルの声と同時に、白人形が静かに動き出す。
サリムとカイレルは畳み掛けるように連続攻撃を放つが、白人形はそのすべてを紙一重で避けていく――いや、違う。
まるで攻撃の方が人形を避けているようにすら見えた。
やがて、一撃がサリムへ放たれる。
拳が届く、直前。
「兄さん!」
カイレルの身体が割って入った。
寸前で拳を受け止め、その力を横へと受け流す。
「カイレル……!」
驚くサリムをよそに、カイレルは即座に間合いを取り直し、白人形の体勢を崩すための衝撃波を叩き込んだ。
白人形が数歩後退する。
「今だ!」
「お、おう!」
二人の連携が、まるで鏡合わせのように展開される。
サリムの蒼き光。カイレルの金の閃き。
それらが津波のように白人形を呑み込んだ。
爆発的な光が空を裂き、衝撃波が遠くの山々を吹き飛ばす。
白人形は――そこには、もはやいなかった。
「やった!」
「ついに……神の力に!」
その歓喜も束の間、背後から“ポカッ”という音が鳴った。
「ほっほっほ。実に見事であったぞ。兄弟として協力できたではないか?」
いつの間にか背後に立っていた白人形が、彼らの頭に軽く拳を落としていた。
二人は呆然としつつも、次第に笑みを浮かべていく。もう、先ほどまでの険悪な空気は、どこにもなかった。
「よーく考えるのだな。後でアダムに説教を受けるが良い。ではな」
白人形がスッと消え、神の試練も幕を閉じた。
「後は頼むぞ、アダム。息子たちを、しっかり教育してやれ」
ワタルは振り返ることなく告げた。
「御手を煩わせてしまい、申し訳ありません。そして……ありがとうございます」
アダムとイヴは、胸に手を当てて深く頭を下げる。
「気にするな。――行くぞ、ヒガン」
「うむ。やれやれ、若い者の血は熱いのう」
ワタルとヒガンは、風のようにその場から姿を消した。
残されたのは、ぽつんと頭を抱える兄弟と、優しくそれを見守る両親。そして、大地に広がる荒廃の痕跡――。
「まずは大地の修復から始めるか。イヴ、子どもたちのフォローを頼めるかい?」
「もちろんですわ。……愛する我が子たちですもの」
イヴは優しく微笑み、兄弟に近づいていった。
この日の出来事は、のちにこう語り継がれる。
――「神々の諍い」
神に挑み、兄弟が力を合わせ、空と大地を裂いた戦い。
それはこの『現世』の民にとって、最初の“試練”であり、“奇跡”であった。