4-2.冷血帝の世界
女王トゥエルノーラの統治から、約六百年。
かつて平和と調和に満ちていた世界は、今や目に見えぬ亀裂を抱え、道徳的な荒廃を各地に広げていた。
その原因は一つではない。
だが、最も決定的だったのは――魔法を使えぬ人間の誕生である。
ある日、生まれながらにして魔法を行使できない子が、市民の間に現れた。
それはそれまでの常識を根底から揺るがす出来事だった。
原因究明のため、王国は調査を重ねた。
血筋、土地、信仰、魔力の流れ――あらゆる角度から検証が行われたが、答えは出ない。
そして調査が停滞する間にも、魔法を持たぬ者は一人、また一人と増え続けていった。
魔法を使えぬ者は、自らの手で必要な物を創り出すことができない。
そのため当初、国は魔法を用いた労働を割り振り、対価として生活物資を支給する制度を整えた。
最初のうちは、それで問題はなかった。
それは「稀な例外」であり、いずれ原因も判明すると考えられていたからだ。
だが予想に反し、魔法を持たぬ者は増え続けた。
そして、その大半は――市民階級に集中していた。
原因が分からぬまま数が膨れ上がれば、人々の心に芽生えるのは、理解ではない。
「どうして、魔法も使えない連中のために、俺たちが養わなきゃならないんだ」
「あいつらは邪神にでも呪われたんじゃないのか?」
そんな声が、次第に囁きから公然の言葉へと変わっていく。
偏見は、やがて行動となった。
作業の対価として支給されていた物資は減らされ、渋られ、ついには――
「あの……今日の報酬は、これだけですか?」
「ああ。それで十分だろう?」
「そんな……!」
物資を減らすだけなら、まだ「まし」だった。
差別がより苛烈になると、支給は完全に打ち切られる場合が現れ、魔法を使えぬ者は労働力として、あるいは所有物として扱われるようになった。
それは個人の嗜好や感情の問題ではなく、
貴族社会全体の「共通認識」へと変質していく。
そこに至るまで、さほどの時間は必要なかった。
「……今日も、犠牲者が出たそうだ」
「いつまで、こんな生活が続くんだ……」
地上街の一角にある、小さな酒場。
一見すれば、どこにでもある薄暗い店に過ぎない。
だが実際は、ウェルザルト王国における反貴族派の者たちが集う、数少ない拠点の一つだった。
もっとも、名ばかりである。
店内に満ちているのは、怒りでも決意でもない。
ただ、愚痴と諦め、そして後悔だけだった。
反乱を起こせぬ理由は明白だ。
魔法の有無――その絶対的な差である。
過去にも反乱は起きた。
だが、千の地上民が立ち上がろうと、魔法騎士団と貴族十数名で鎮圧された。
武器も、防具も、物資も。
すべては貴族から供給されている。
反乱に使われかねない物は、最初から渡されない。
差別による物資不足の中、彼らは生き延びるだけで精一杯だった。
今、彼らが口にしている酒ですら、その半分は貴族からの支給品だ。
その事実が、彼らの惨めさをより一層際立たせていた。
「そういや……食料も、そろそろ足りなくなるな。暗くなる前に、少し行ってくる」
「どこへ?」
男は懐から、木片を二つ取り出してみせた。
「これよこれ」
「ああ……それか。外であんまり見せるなよ。特に貴族の前じゃ」
「搾取と差別しか頭にない連中だ。見たって、何か分かるわけねぇさ」
「お前を心配してるんじゃない。助けてくれる、あの人に迷惑をかけるなって言ってるんだ」
「……そうだな。分かった、気をつける」
男は空になったグラスをカウンターに置き、店を後にする。
その背中を見送った一瞬だけ、酒場の空気はわずかに明るくなった。
だが、すぐに元の重苦しさへと沈み込んでいく。
広大な王座の間。
分厚いマントと豪奢な装飾に身を包んだ男が、玉座に腰掛けていた。
冷徹な視線が、床に跪く一人の貴族を射抜いている。
「それで……マジックアイテムを持ち帰れなかった理由は、何だったかな?」
「も、申し訳ありません! 王ゼルファウス・ウェルザルト様!」
空気が、目に見えて冷えた。
貴族はその変化を肌で感じながら、汗を止めることができなかった。
「私は謝罪を求めているのではない。理由を聞いているのだ」
「は! 洞窟周辺にオーガーやマンティコアが多数出没しており……! おそらくマジックアイテムに引き寄せられたものかと! 想定以上に凶悪で、同行させた地上民は全滅! 魔法を使える者にも被害が出てしまい、撤退を――」
「使えない者ばかりだな」
ゼルファウスの低い呟きに、貴族は言葉を失い、ただ首を垂れる。
その一言に、自身の命運が含まれていることを悟っていた。
次の瞬間、魔法が貴族の頬を掠めて通り過ぎた。
背後の壁と床を抉り、遥か彼方へと飛翔する。
「な……!?」
魔法を放ったのは、ゼルファウスだった。
指にはめられた指輪の一つから、魔方陣が浮かび上がり、そして消える。
数瞬後、遠方から鈍い爆発音が響いた。
「着弾点は正確だな。問題ない」
「こ、これほどの魔法を……!」
その魔法が向かった先――
それは、件の洞窟の入口だった。
王座の間から放たれた一撃は、壁を貫き、床を削り、十数キロ先の洞窟を正確に貫いてその周囲の魔物を殲滅していた。
「いつまで、そこに跪いているつもりだ?」
「は、はっ! お手数をお掛けしました! すぐに地上民を集め、回収に向かいます!」
貴族はよろめきながら立ち上がり、逃げるように王座の間を後にする。
その姿を、ゼルファウスは冷ややかに見下ろし続けていた。
――この世界の歪みを、誰よりも理解した目で。




