1-2.始まりの創造
アダムとイヴの二人は、しばしのあいだ無言で、地平線まで広がる大地を見つめていた。
ここは階層世界『現世』。だが、二人の心には未だ『楽園』の残像が色濃く焼き付いていた。
穏やかな風が草を撫で、鳥のさえずりが遠くに響く。空は高く、どこまでも澄み渡っている。
それでも、この地にはかつての『楽園』にはなかった、わずかな“厳しさ”の気配があった。
そして二人は……人間は完全ではなくなってしまった。
だが、それがどうしたというのか。
二人は共に生きると誓った。そして今、改めて“始まり”を選び取るのだ。
「ここに……もう一度、理想を築こう」
アダムが静かに口を開くと、イヴは柔らかに微笑んでうなずいた。
この世界で、新たなる“楽園”を創る。それは罰を悔い、恩に報いようとする二人の誓願だった。
最終目標は定まった。次は現実に即して、まず何をすべきか――二人が真っ先に思い至ったのは、住居の確保であった。
『楽園』では住まいなど必要なかった。風も害を与えず、獣も牙を向けない場所であったからだ。
だが『現世』は違う。昼夜の寒暖差、予期せぬ嵐、肉体の疲労、そして死の影。
この地においては、身を守り、休み、家族の始まりを育む“家”が必要不可欠だった。
「ここでもいいかな?」
「ええ。とても、良い土地ですわ」
二人は微笑み交わしながら、目の前に広がる平原を眺めた。
風は穏やかに吹き抜け、土は柔らかくも堅実で、近くには澄んだ流れの小川があった。
木々はまばらで、建造による生態系への影響も少ないと判断できた。
その時だった。
「おや、何かをしようとしているようじゃの」
涼やかな声とともに、空間が揺らぎ、光の波が現れた。
そこから姿を現したのは――シーク・ワタルと、その傍らに控えるヒガンだった。
突如として現れた神の降臨に、アダムとイヴの胸は感動で震えた。
あらゆる創造の源である神が、自分たちの様子を見に来てくださった――それは何よりの光栄であった。
「これは神シーク・ワタル様、そしてヒガン様……!」
彼らは神を心から敬愛し、全存在をもって崇拝している。
だが同時に、形式的な儀礼よりも“意思”や“誠実”を重んじていた。
だから二人は、過剰な礼を避け、自然な態度での敬意を示した。
イヴもその隣に並び、敬虔な眼差しで二人を見上げる。
「これから我らの住まいを建てようと、準備していたところです」
「ほぅ……アダム、イヴよ。ならば、その技を見せてみよ」
ワタルは神殿の主のように静かに頷き、腕を後ろに組んで見守る構えを取った。
「神の御業に及ぶはずもありませんが、どうぞ、お納めくだされば幸いです。イヴ、私が建設に集中する間、お二人のもてなしをお願いできますか?」
「はい、もちろんです」
イヴは愛らしい微笑をたたえ、優雅に頭を下げた。
アダムはイヴの助力にも、感謝を思う。
アダムは数歩前に出て、大地に向けて静かに手をかざした。
その仕草は、まるで祈りにも似た敬虔さを帯びている。
次の瞬間、風が止み、周囲の音が一斉に消える。
大地が静かにうねり、余計な石や草が消え去っていく。
光の粒が空間を満たし、それが次第に形を成し、石材や柱、壁、屋根――次々と構造物へと変わっていった。
ほんの数十秒後。そこには、荘厳な建築物が出現していた。
様式は古代ギリシャ風――白亜の円柱、開放的な回廊、そして光が射し込む美しい中庭。
その中庭は、どこか『楽園』を思わせる造りとなっており、二人の心に郷愁と再起の誓いを呼び起こしていた。
だが、これはただの過去への模倣ではなかった。
この住まいには、最先端の技術――断熱構造、自然循環型の水資源システム、太陽光利用、空調調整など――が完全に融合されており、文明の礎たるべき住宅だった。
「こんな所でしょうか」
アダムは控えめにそう言って一礼した。
ワタルはその建物を静かに見つめ、ゆっくりと頷いた。
「見事な業だ、アダム。創造神である我に及ばずとも、実に美しい」
その一言に、アダムの顔がほのかに紅潮する。
イヴはいつの間にか、透明な水の入った杯を差し出していた。
「どうぞ、お疲れを癒してください」
彼女の仕草はしなやかで、誠意に満ちていた。
ワタルとヒガンの前にもテーブルが現れ、同様の飲み物と果実が供される。
ヒガンはにこやかに一口含み、「うむ、うまいの」と喜びの声を上げるが、ワタルは一切手をつけていなかった。
「神の御業に比べれば……まだ未熟なものでございます。今後も改善を重ね、よりよい住まいへと高めてまいります」
「いや、それで十分だ。そなたの手によって生まれたこの建物は、いずれこの地の象徴となろう。だが……疲れてはいないか?」
ワタルの問いかけは、威厳の中に柔らかさを含んでいた。
アダムは腕を振り上げ、朗らかに答える。
「いえ! 神よ、まだまだ私の力は尽きておりません。イヴと共にある限り、どこまでも進み続けられます」
「うむ。ならば我らは、『天界』より引き続きそなたらを見守るとしよう」
ワタルがそう宣言すると、彼とヒガンの姿は、風に溶けるように消え去った。
神の帰還を目にしたアダムとイヴは、深く息を吐き、胸の内にこみ上げる熱を静かに噛みしめていた。
「イヴ」
「はい?」
「この家ができた今……次は“祭壇”を作ろうと思うんだ」
「祭壇……?」
「そう。神シーク・ワタル様への祈りと感謝を捧げる場。
ただし、それは与えられた力ではなく――我々自身の手で、一から作り上げたい」
イヴはその提案に目を輝かせた。
「それは、素晴らしいことですわ。
私たちの内から湧き上がるこの想いを、形にするには、時をかけ、手を汚し、祈りを込めるのがふさわしい……」
二人は顔を見合わせ、手を取り合う。
次なる創造――それは、神への愛と信仰を象徴する祭壇。
二人は歩き出す。草原の中、神の記憶が残るこの地で、感謝の証を刻む場所を求めて――。