1-1.原罪
「ここは……『楽園』か?」
柔らかな草を踏みしめ、アダムと呼ばれた男が呟いた。
彼はこの世界において最初に創られた人間であり、知識と能力、言語と感性――あらゆるものを授けられて生まれた。
それでも、彼の眼差しには一抹の戸惑いが浮かんでいた。
この広大な世界にただ一人で立っているという現実に、理性では理解できても、感情はまだ追いついていなかったのだ。
だが、視線の先にもう一人の存在――イヴがいることに気づくと、彼の心には安堵が広がった。
イヴはアダムとともに創造された女性であり、彼の伴侶として、最初から共に在るよう定められている。
ただし、それは単なる“設定”という枠を越えて、互いの存在が自然と心を満たすような、不可思議で温かな絆でもあった。
まだ始まったばかりの世界において、彼らの間に芽生えたものは、確かに“愛”と呼べる何かだった。
突如、空に響く声が辺りを満たした。
「アダム、そしてイヴよ!」
二人が振り返ると、そこには神が立っていた。
この世界を創造し、すべてを定め、二人を生み出した存在――その名を、シーク・ワタル。
ワタルは、静かなる威厳とともにその場に降臨していた。
神々しい衣を纏い、背に光をまとい、世界そのものの空気が彼の出現と共に変わったかのようだった。
その傍らに控えるのは、白いワンピースをひるがえした、小柄な少女。
赤い瞳と赤い髪を持ち、微笑を浮かべるその存在は、神の補佐を務める疑似人格AI――ヒガン。
その幼き姿とは裏腹に、彼女の視線には精密な観測と深い洞察が宿っていた。
「神たる我、シーク・ワタルが命じる!」
ワタルはゆっくりと両腕を広げ、大地と空を掌握するかのように語りかける。
「汝ら二人、この『楽園』を開拓し、安住の地とせよ。夫婦となり、子を成し、民を増やし、この世界を繁栄の光で満たすのだ!」
その言葉は、雷鳴にも似た響きで二人の心を貫いた。
アダムとイヴの胸には、尊い使命を授けられた歓びが、静かに、だが確かに灯っていた。
二人は目を合わせ、互いにうなずき、そっと手を取り合う。
始まりの地に、二つの命が確かに根付いた瞬間だった。
この手で世界を築く――それこそが、彼らの存在意義。
神の意志に従い、想像ではなく、現実として創造する旅路が今始まったのだ。
そして、ワタルは再び口を開く。
「一つだけ、ルールを設定しよう」
神の言葉と共に、彼の手が静かに振られた。
その瞬間、地が震え、光が走り、世界の中心に一本の大樹が忽然と姿を現した。
天を突くような高さのその木には、赤く瑞々しい果実が数多く実っていた。
それはリンゴに似ていながら、どこかこの世のものとは思えない神秘的な輝きを帯びていた。
果実はまるで意志を持つかのように、見る者の心を惹きつけた。
アダムもイヴも、その美しさに思わず息を呑み、視線を外すことができなかった。
神は、空に顔を向け目を閉じ、何か重要な言葉を告げようとしていた。
だが、二人の心にはすでに別の何かが侵入していた――欲望と好奇心、そして“禁忌”という名の甘美な誘惑。
神の言葉は、届かなかった。
そして――気がつけば、二人はその実を手に取ってそのまま口に運んでいた。
「ワタル……悦に入っておるところ悪いが、二人を見るのじゃ」
隣に立っていたヒガンが、申し訳なさそうに囁く。
ワタルはその言葉に促され、二人へと目を向けた。
――そして、愕然とした。
彼の顔からは一瞬にして喜悦の色が消え、深い嘆きと困惑が浮かんだ。
顔を覆い、沈黙するワタル。その様子を見たアダムは、何かを悟ったように顔を青ざめさせた。
「神シーク・ワタル様……何か……我々は……」
アダムの脳裏に、神の口元が動いていた映像が蘇る。
あのとき、確かに神は何かを言っていた――果実に手を触れる前に。
イヴもまた、果実の欠片を手の中で見つめ、理解した。
二人の手から、甘い蜜の香りと、後悔の痛みが同時に溢れ出していた。
やがて、ワタルは静かに立ち上がり、厳粛な声で言い渡した。
「……タイミングが悪かったとは理解している。だが、我は定めたルールを、始まりの時から覆すことはできぬ」
神の声は怒りではなく、悲しみを孕んでいた。
「よって、アダム、イヴ。汝らをこの『楽園』より、永久に追放する」
その言葉と共に、ワタルは天に向かって手を掲げた。
四人の身体が光に包まれ、空間がねじれ、次の瞬間には誰もいなくなっていた。
残された『楽園』は、まるで時間が止まったかのように、静寂に沈んだ。
ただ一つ、中央に佇む“禁断の樹”だけが、変わらぬ輝きを湛え続けていた。
転送された四人が降り立ったのは、別の階層世界――『現世』である。
ここには豊かな自然がある。森があり、山があり、川があり、空がある。
だがそれは穏やかさばかりではなく、時に激しい嵐が吹き、冷たい風が吹きすさぶ、厳しい現実の世界だった。
この地は、『楽園』とは異なり、“死”という概念を抱いた世界である。
「原罪を犯したアダムとイヴは、この世界で生きることになる」
ワタルの声が、かつてのような神々しい響きを残したまま告げられる。
「汝らはもはや不老不死ではない。そして、その失われた力は、これから生まれる子らにも継がれていくだろう」
その言葉を聞き、アダムとイヴの瞳には涙が溢れた。
だがそれは、怒りや抗議ではなく、静かな後悔と、自らの愚かさへの悔悟の涙だった。
「神韻残響は95と成り果てた。それでも、生きていくのだ」
ワタルが二人に告げる。
イヴが肩を震わせながら俯くと、アダムは優しくその背に手を添えた。
彼の表情にはもう迷いはない。自らの過ちを認め、これから歩むべき道を受け入れていた。
その姿を見届けたワタルとヒガンは、無言で視線を交わし、『現世』からそっと姿を消した。
こうして、人類の歴史が始まる。
神によって創られ、神によって試された人の物語は、ここから続いていく――。