3-1.英雄大国ウェルザルト王国
魔王が討たれ、その姿が歴史の闇に消えてから、幾星霜が流れた。
世界には魔王の遺した魔物たちが新たな生態系として根を張り、人々はその脅威と共存しながら、緩やかに各地へと広がっていった。
文化は幾度も形を変え、神話の時代は人々の記憶から薄れつつある。
七千年の歳月を経た今、世界はかつてとはまるで異なる姿をしていた。
創世や神話の時代も、人々の記憶から消え去りつつある時代。
ウェルザルト王国――世界最大の国家であり、勇者の血を継ぐ一族が統治する国。
その王城の玉座の間には、朝日が斜めに差し込み、磨き上げられた大理石の床に淡い光を落としていた。
壁には神々の時代から受け継がれた神紋が刻まれ、空気には静謐な緊張が漂っている。
玉座に腰掛ける女王トゥエルノーラは、年老いた瞳でその神紋を見つめながら、静かに思案していた。
「意味のない神紋……歴史あるものだから残してはいるけれど、いずれ何とかしないと。動かせなくて困っているのよね……」
彼女の声は独り言のように小さく、しかしその言葉には、過去と未来を見据える者の重みがあった。
歴史とは尊ぶべきものだ。
だが、ただ古いというだけで残されるものが、今の発展を妨げている――その矛盾に、女王は静かに苛立ちを覚えていた。
視線を前方に戻す。
そこには、国政を担う三つの柱――律法省、創世院、探究府――の長たちが並び立っていた。
彼らはそれぞれ異なる分野で卓越した才覚を持ち、女王の信頼を得ている者たちである。
「定例会を始めます。報告を始めなさい、ゲイル」
女王の声は穏やかでありながら、玉座の間にしっかりと響いた。
その言葉に応えるように、律法省の長ゲイル・ハルトマンが一歩前に出る。
小柄な体躯に疲労の色濃い顔――彼の姿は、法と秩序を守る重責を物語っていた。
「陛下、未開拓地に赴いた魔物討伐隊より報告です。新種の魔物が出現しました。討伐には成功しましたが、通常の魔法では有効打とならず、負傷者が出ております。死骸は持ち帰り、分析を進める予定です」
「どのような魔物だったの?」
「胴の長い狼のような姿で、体毛が魔法を散らしてしまうようです。詳細は情報統制局の調査を待つ必要があります」
このところ、魔物の新種が立て続けに発生していた。
世界は広く、人の目が届くのは半分にも満たない。未踏の地には、未だ知られざる脅威が潜んでいる。
偶然と片付けることもできるだろう。だが、トゥエルノーラには漠然とした不安があった。
何かが動き始めている――そんな予兆を感じていた。
「このように、状況の見通しが悪くなっています。つきましては、市民による未開拓地への立ち入りを一時的に制限する予定です」
ゲイルの言葉に、創世院の長ロドリゴが眉をひそめた。
いつも柔和な笑みを絶やさない彼の表情に、わずかな緊張が走る。
「ゲイル殿、それは困ります。現在、広大な土地を必要とする計画が進行中です。未開拓地が使えなくなると、ただでさえ遅れている進捗がさらに……」
「ロドリゴ殿。私は意地悪をしたくて制限するわけではありません。法を作り、秩序を守るのは、すべての民が安全に暮らすためです。もちろん、貴方もその民の一人です」
ゲイルの言葉は淡々としていたが、そこには揺るぎない信念があった。
ロドリゴはその真意を察し、少しばかり気まずそうに視線を逸らした。
「制限は一時的なものです。創世院にもご協力をお願いします」
「……うむ。わかった。済まない、余計な口出しだったようだ」
その様子を見ていた女王は、内心で安堵した。
必要ならば仲裁するつもりだったが、彼らは自らの言葉で解決に至った。
優秀な人材とは、こういう者たちのことだ。
「では、その件について法案を協議し、提出してください」
「承知しました。明日までに用意いたします。律法省からの報告は以上です」
ゲイルが一礼して下がると、静かに一歩前へ進み出たのは探究府の長、エレノア・セレスティアだった。
先ほどのやり取りにも一切の関心を示さず、ただ鋭い眼差しを女王に向ける。
氷の女王と揶揄されるその美貌は、冷たい静謐さを纏っていた。
長く真っ直ぐな銀髪が、わずかに揺れる。
「陛下。律法省の報告にあった通り、未開拓地における研究は停滞しています。問題が解決されるまでは、進展は見込めません」
「承知しました。無理はしないように」
「次に、技術開発部より報告です。新たな術の開発に成功しました」
その言葉に、玉座の間の空気がわずかに変わる。
ゲイルとロドリゴが目を見開き、女王も思わず身を乗り出した。
「どのような術ですか?」
「新しい法則を組み込んだ攻撃魔法です。術式はまだ完全にスクロール化されていませんが、実演は可能です」
新たな術――それは国の財産であり、未来への礎となるもの。女王の瞳に、静かな期待が灯る。
「では、今日の日が昇りきった頃に見せていただけますか?」
「承知しました。術の概略はこちらです」
エレノアが差し出した用紙を受け取り、女王は目を通す。
炎の矢に新たな法則組み込んだ術式のようだ。
記された理論には、興味をそそる要素がいくつもある。だが、今は報告の場。深入りは後に取っておくべきだ。
「探究府からは以上です」
簡潔な報告だった。無駄を嫌う彼女らしいが、要点を絞る分、見落としの危険もある。
女王は後ほど再確認する必要があると心に留めた。
「では、ロドリゴ。報告をお願いします」
創世院の長ロドリゴ・ヴァレンティノが、分厚い書類の束を脇のテーブルに置き、その中から一枚を抜き取って前に出る。
いつもの柔和な笑みを浮かべながらも、どこか慎重な面持ちだった。
「陛下。現在、造形局にて新都市建設の計画が進行中です。未開拓地の利用が制限されるため、整地済みの区域から先に着手しますが、進捗は大幅に遅れる見込みです。つきましては、奴隷魔物の追加を申請いたします」
女王の眉がわずかに動いた。
奴隷魔物――魔術によって心身を拘束し、術者の命令に従わせる存在。
だが、支配魔術は極めて危険であり、法によって厳しく制限されている。加えて、術を完全に扱える者は少なく、奴隷魔物の数は限られていた。
数が限られるとなると酷使される恐れがある。
魔物といえど、そこまでの非道は望まない。しかし、その考えは時代を追うごとに薄まりつつあった。
ただ抑えるだけでは納得しないかもしれない。
「それは認められません。支配魔術は扱いを誤れば、魔物が現場で解放される恐れがあります。代わりに、創造魔法の優秀な術者を一名補充します。その他の人員は、下位部門または民間から募ってください。報酬は私が用意します」
ロドリゴは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに納得したように頷いた。
誰が派遣されるか――彼には心当たりがあった。
上位貴族の末席に名を連ねる、あの人物。いつも暇そうにしているが、腕は確かだ。
女王の依頼とあれば、断ることはないだろう。
「他に報告は?」
「豊穣部より、物資に関する問題は報告されておりません。陛下が築かれた平和は、今も維持されております。以上です」
ロドリゴが一礼すると、女王は静かに息を吐いた。
三人の報告を聞き終え、今日も国の安定が保たれていることに安堵する。
「今回の報告会はこれで終わりとします。各自、油断することなく職務を全うしてください。問題があれば、速やかに知らせるように。よろしいですね」
「はっ!」
三人は一斉に頭を下げ、玉座の間を後にした。
静寂が戻った空間で、女王トゥエルノーラ・ウェルザルトは、窓の外に広がる雲海へと視線を向けた。
この国の名を冠する都市ウェルザルトは、偉大な魔術によって空に浮かぶ天空都市。
その中でも最も高所にある王城からは、地上の遥か彼方まで見渡すことができる。
今日は雲が厚く、地上の様子はほとんど見えなかった。
「神々が残してくれたこの平和……いつまでも続けなくてはね」
女王には、果たすべき責務がある。まずは、あの上位貴族への連絡だろう。
名残惜しい景色に背を向け、彼女は静かに歩き出した。




