2.ようこそ、ニューロ・ネクスト・コーポレーションへ
「ただいま! じゃ、行ってくる!」
母の返事も聞かず、俺は予め用意していた別のカバンをひったくり、けたたましく足音を立てて階段を駆け上がり、また駆け下り、そのまま勢いで家を飛び出す。
目指すは、フルダイブ施設が入っている駅近くの新しいビル――。
あのビルが建設中だった頃、どうせまた居酒屋か、よくあるフィットネスクラブでもできるんだろうと思ってた。
正直、ちょっとしたアミューズメント施設だったら嬉しいのに……なんて期待してたくらいだ。
ところが、完成しても看板一つ出ない。無地の外壁、窓の少なさ、何か企業ビルっぽいけど、正体不明すぎて誰も話題にしなかった。
俺も「なんだ、つまらん」と、しばらくはそっぽを向いていた。
……でも、ある日突然、俺のもとに届いたダイレクトメール。
件名は『フルダイブ形式テストプレイヤー募集』――最初は詐欺かと思った。こんな露骨な文面、普通なら即ゴミ箱行きだ。
でも、内容にあったプロジェクト名が目に入って、俺の手が止まった。
『未知と幻想の箱庭』――!
震える指で、俺は慎重にメールを読み直した。
そして恐る恐る応募してみたら……まさかの当選。
通知を見た瞬間、俺は叫び声を上げてしまって、母に「頭でも打ったの?」と心配される始末だ。
メールに記された実施場所を見て、さらに驚く。
あの正体不明のビルこそが、選ばれしプレイヤーのためのフルダイブ施設だったのだ!
そして今――そのビルの前に立っている。
昼を過ぎた時間、駅前の喧騒が落ち着いて、人通りもまばらになっていた。
無地のままの外壁が、どこか不気味にすら見えるけど、今日の俺はビビってなんかいられない。
汗ばんだシャツが、夏の陽射しの強さを物語っていたが、ビルに入った瞬間、ひんやりとした空気が肌を包み込んだ。
まるで別世界に足を踏み入れたみたいだった。
「っと、涼みに来た訳じゃないんだよな……」
自分に言い聞かせるように呟きながら中に進むと、すぐ目の前に受付らしきカウンターがあり、そこには一人の女性が座っていた。
いや、座っていたというより、女神が降臨していた。
上には『総合受付』と大きく書かれているが、そんな表示など目に入らないくらい、その人は眩しかった。俺にはそう見えたのだ。
「あの……すみません……」
俺が恐る恐る声をかけると、彼女はすぐに笑顔で応えてくれた。
「ようこそ、ニューロ・ネクスト・コーポレーションへ。どのようなご用件でしょうか?」
や、優しい……!
笑顔が、柔らかくて、あったかくて、なんか心が包まれる感じ。
あれ、天使って現実にも存在したっけ?
――って、ダメだダメだ、しっかりしろ俺!
要件を言わなきゃここに来た意味がない。
スマホを取り出し、当選通知のメール画面を表示して彼女に差し出す。
「こ、これです……。テストプレイヤーに当選したので、来ました。その……予約した時間に……」
壁の時計に目をやると、まだ予約の15分前。間違ってない。
「……あってると思うんですけど」
彼女はふんわりと微笑みながら、うなずいてくれた。
「お待ちしておりました、幾瀬 渡様ですね」
「は、はいっ!」
首がもげそうな勢いで頷く俺。
「私は受付の小糸 愛と申します。案内させて頂きますので、宜しくお願いしますね」
声も穏やかで心地よく、どこまでも柔らかい。
……え、彼氏いるのかな。絶対いるよな。でも、もしもいなかったら……いやいや、俺、何考えてんだ!
ドキドキしている胸の内を誤魔化すように、案内された近くの座席に腰を下ろす。
「ではまず、こちらのタブレットで利用規約のご確認のうえ、お名前等の入力をお願いします。身分証はお持ちいただいているでしょうか?」
「あ、学生証でいいですか?」
「はい、ありがとうございます。少しお預かりしますね。その間にこちらをどうぞ」
渡されたタブレットを手に取る。
利用規約は、まぁ……ほぼ読まない。っていうか、読めない。長すぎる。
(……誰がこれ全部読めるんだよ……)
それでもチラチラ眺めつつ、個人情報と緊急連絡先を入力。あとは性格診断っぽい簡単な設問に答えていく。
「えっと、終わりました」
タブレットを返すと、ふと、小糸さんの指先と俺の指が軽く触れた。
――や、やわらかい!? それに、なんか……いい匂いがしたような!?
ここだけ時が止まったかのような錯覚。
「ありがとうございます。学生証、確認しましたのでお返ししますね」
……いいなぁ学生証。あんな綺麗な人の手に包まれるとか、羨ましすぎるだろ。
(帰ったら、こいつから香りが残ってないか、確認してみよう……!)
「では、これからの流れを簡単にご説明しますね」
小糸さんの説明によれば、この後簡単な健康チェックを受けて、それからシャワーを浴びる必要があるらしい。
……ゲームをしに来ただけなのに、なかなかハードルが多い。
「それでは、こちらへどうぞ」
小糸さんに案内された部屋には、半透明の壁で仕切られた個室のある不思議な部屋だった。
健康チェックというから、てっきり綺麗な女医さんにあれこれチェックされると思っていたのに。
籠に荷物を入れ、個室に入ると、ウィーンという音とともにスキャナーが起動。
青白い光が俺の全身を包み込む。
(うお……なんかアニメっぽい)
十数秒ほどで終了。未来ってすげぇな。
「なんか、思ってた健康チェックと全然違いましたけど、すごいっすね。アニメか漫画みたいだ」
「ふふ。あくまで簡易チェックですので、実際はそんなに大げさなものでもないんですよ。でも、健康状態は問題なさそうですね」
そっか……でも、技術ってマジで進んでるな。
ていうか、フルダイブなんてもう完全に漫画の世界を追い越してるじゃん。すげぇ。
「籠に置いた荷物の忘れ物が無いようにお願いします。それでは次にシャワールームにご案内しますね」
この分なら、シャワールームもきっと凄いのだろう……と思っていました。
ごく普通の、シャワールームでした。はい。
でも施設が新しい分、やたらと綺麗。家の風呂とは雲泥の差だった。
備え付けのタオルもふわふわだし、シャワーも気持ちいいし、なんならこのまま一日寝てたいくらいだ。
着替えも支給された。白いウェアとズボン。シンプルだけど、動きやすくて意外と快適。
着てきた服は帰るまでにクリーニングしてくれるらしい。未来ってほんと親切だな。
シャワールームを出ると、小糸さんが待っていた。
「準備は整いましたか? では荷物を持ってください。いよいよ、設備室にご案内します」
その言葉に、ふと目的を思い出す。
(あ、そうだ……俺はゲームをしに来たんだった!)
胸が高鳴る。未知の体験が、今まさに始まろうとしている。
未知の体験まで、もう少しだ!