1-5.知識の蔵
世界の時は大きく流れ、文明は静かに成熟の兆しを見せ始めていた。
アダムとイヴの子供たちはすでに親元を離れ、それぞれの地で新たな家族を築き、世界各地に広がっていた。
そうして人々の営みは徐々に『現世』を形づくってゆき、大地は人の手で開かれていく。
アダムとイヴの顔には、時の流れが刻んだ皺が浮かびはじめていた。
かつては神の手によって創られた存在であった彼らも、いまや初老の姿となっていた。
力や知恵こそ衰えてはいなかったが、彼らは自らの中に死の影を感じ始めていた。
それは原初に与えられた罪――命の終わりが訪れるという宿命だった。
イヴが焚き火を囲みながら静かに糸を紡いでいるその向こうで、アダムはいつものように山の断崖に立ち、果てしない森の向こうを見つめていた。
彼は一人で思索を深めるとき、必ずこの場所を訪れる。
風が静かに衣をなびかせ、夕日が黄金に染める地平の向こうへと、思いを馳せていた。
「ふむ……どうしたものか……」
深く眉を寄せるアダム。
その背に、二つの気配が近づいた。空を裂くように現れたのは、神シーク・ワタルと、紅き瞳をした幼き姿の副神ヒガンであった。
断崖の上には立つ余地もないため、彼らは優雅に空中へと浮かび、アダムの背後に並んだ。
「何を思い悩んでおる、アダムよ」
ワタルの声は静かでありながら、空そのものが語りかけてくるような荘厳さを帯びていた。その一声にアダムは恭しく振り返り、軽く頭を垂れる。
「これは神シーク・ワタル様。そしてヒガン様。将来のことを考えておりました。いずれ我らが去った後、子供たちは……いや、その子孫たちは、この世界で何を拠り所に生きてゆくべきかと」
その言葉の裏には、静かな焦りがあった。
文明が進み、人々の手が届かぬほどに価値観が変化すれば、やがて神の意志も忘れ去られるかもしれない――そんな不安が、胸の奥に巣食っていた。
「それで、私が持つ知識と想いを、文字にして後世へ残そうと考えたのです」
「成る程な。それは立派な考えじゃ」
「しかし……」
アダムの眉がさらに深くなった。
「それをどう残すかが問題でして。電子的に記録するのが正確かとも考えたのですが、技術が失われれば誰にも扱えない。たとえ閲覧できても、その一部だけを見て誤解される可能性が高いのです」
「ふむ……」
ワタルは顎に手を当て、思索に沈む。そして、やがて顔を上げた。
「では、こういうのはどうだ? ――石板、というのは」
「石板、ですか?」
アダムが反復する。
「そうだ。物質として確かで、知識を刻めば長い時を超えても形を保てる。神力をもって創り出し、根源のエネルギーで包めば、百万年は崩れることはなかろう。読むために特殊な機械も要らぬ」
ワタルの語るその案に、アダムの瞳が輝いた。
「流石は神です……では、さらに提案をさせて頂いても?」
「許す。申してみよ」
「石板は膨大になりますので、それらを格納する別空間を用意し、その入り口に“知識を呼び出す言葉”を設けてはどうでしょう。呼びかけに応じて、望む石板が出てくるように」
「うむ、それは面白い。さらに――見終えた石板は一定時間で自動的に収納空間へ戻るようにすれば、管理も容易になろう」
神と人との対話は、やがて童子のような歓声に包まれた。
アダムとワタルは、ああでもないこうでもないと知恵を出し合い、気が付けば三日三晩を費やして完成を目指した。
その傍らで、ヒガンは湯飲みに口をつけ、用意された煎餅をぽりぽりと齧りながら、のんびりと時を過ごしていた。
やがて、知識の蔵は完成を迎えた。
「ザル=ナ・クォル=ネム!」
アダムが高らかに呪文を唱えると、空間が波紋のように歪み、無の宙にぽっかりと開いた穴が現れた。その中央には、一つの丸い石が浮かんでいる。
そこに現れたのは、初老のイヴであった。
「これは……あなた、ついに完成させたのね!」
イヴは驚きと尊敬のまなざしを向け、アダムの隣へと立つ。
「ふふっ、見ていてくれ。――豚汁の作り方を!」
声と共に、丸石が共鳴し、光の軌跡を描いて一枚の石板が降りてくる。
それをアダムが軽々と両手で受け止めると、そこには細やかな文字が彫り込まれていた。
「む? これが……知識の結晶か。何が書かれておる?」
ワタルが眉を寄せ、興味深げに問う。
「ええ、これは神より頂いた知識を基に、妻イヴの料理法を加えた“究極の豚汁”のレシピです!」
「……なんというか、うむ……」
神としての威厳を保ちつつも、ワタルはどこか困惑した微笑みを浮かべた。
この『未知と幻想の箱庭』の住人たちが味わう濃厚な美味を、ワタル自身は感じることができない。
アダムは、最後に静かに語った。
「知識を残すだけで、未来が救われるとは思いません。しかし、もしこの石板の言葉が、ほんの一人の子供でも……悲しみから救うことができるのなら、それだけで意味はあるでしょう」
「……ああ、そうだな」
ワタルは静かに頷いた。その視線の先には、遥かな未来と、そこに生きる無数の命が輝いていた。
なお、この“知識の石板”は、最初の数百年は正しく使用されたものの、後世になると意図とは全く関係の無い使われ方となってしまうが、それは後の話である。




