“御影堂”が忘れ去られるまで Ⅰ
17の誕生日、いつも家に灯りがついている時間。
大好きなわたしの両親は豪雨にかき消されるようにして姿を消していた。
といっても水害で、というわけではない。
溺れていなくなったわけでもない。
近い表現を探すなら、桜に攫われそう…で実際に攫われてしまったような、そんなようなこと。
ただ、靴だけ残して存在がなくなっていた。
落ちた靴の中に水が溜まっていて、それをひっくり返して鍵を開けて家の中に持ち込む。ビニール袋に入れられたケーキの材料たちも、ぐちゃぐちゃだった。
家の中に入ってからはしばらく呆然としていたが、段々と状況が掴めてきてからは苦しくてたまらなかった。
お父さんとお母さんは、いなくなったのだ。
そして多分、もう戻ってこない。
それが直感的に分かって、声も出せずに生理的な涙をだらだらと溢した。こんな泣き方をしているとき、お母さんはすぐティッシュを持ってきてくれるのにと思ってしまうのが余計に苦しかった。
おとうさんはこういうとき、私が泣き終わって落ち着いたころに甘いものを手渡してくれる、おかあさんは、おとうさんは…。
そんな事を考えて蹲っているときに家の前から車のエンジン音がして、少し正気に戻される。
カーテンを閉め切った家の窓から覗いた先に見えたのは、真っ黒で小さい車だった。スピードがよく出そうだけど、車高はそんなに低くない、2人乗りくらいの大きさのもの。
乗っているのはおそらく男性なのだろうと推測がついた。こんなタイミングで不審者が家に来るなんて、本当にわたしはとことん運がない。死んでしまいたい。
おそらくその車のドアが開いた音が僅かにした。
…足音が、速い。なにかに焦っているような、そんな足音だった。
どたどたどた、がちゃ、がちゃ。
ドアに鍵がかかっているのを確認したような間が一瞬あってからインターホンが鳴らされる。何をされるかわからない恐怖で、蓄暖の前で縮こまった。
次いで、宅配員のようなかなり大きな声で男性がインターホン、もといこちらに話しかけてくる。
「御影堂のガキ!いるか!!俺はお前の叔父だ、名前は、御影堂薬師…頼む、出てきてくれ。それで早くこの車に乗ってくれ、おれは」
足掻けるだけ足掻いてお前を助けたい。
そう言ったのを最後に、声が止む。……不審者が親族を名乗って誘拐するのは昔からよくある手口だが、薬師と名乗る男の声はただの不審者の演技にしては真に迫っていた。
「……」
父も、母も、もういない。自分の身はきっと自分だけでは守れない。怪しいと思っても、踏み出すしかない。
もう、彼への、今の状況そのものへの恐怖心は消えていた。今は、もう何もかもどうにでもなってしまえという気持ちだけが色濃くあった。
がちゃ、と扉を開ける。扉についているウィンドチャイムの音がとても遠く聞こえた。
扉の先には、とても背の高い藤色の少し長い髪を後ろでまとめた、強面の男性が立っていた。
「……は、ガキって言ったのに、ここまで育てたんだな、アイツ」
「ヤクシさんでいいんですかね、早く車乗っていいですか」
「悪い、無駄口叩いちまったな。行くか」
車の発進音、どんどん遠ざかっていく家。
もう、ここには戻れないのだと悟った。
「ここは、御影堂の生家だ」
御影堂の生家は嵐が去ったあとのような、家の中で水害が起きたような、そんな様相をした建物だった。もう、廃墟も同然の建物の中に招かれて少し動揺した。
「2階は何の被害にも遭ってねえ、そこでならお前も生活できる」
だから暫くは大丈夫だと、そう話しながらも顔色の優れない薬師にたった今生じた疑問を投げかける。
「なんで、こんなに周りに全く人がいないところを選んだんですか」
「…俺が化け物に食われて死ぬのが決まってるからだ。その化け物が人がうじゃうじゃいる前に出てきたら不味いから、こんな回りくどい真似をしてる」
眉間に皺を寄せながら目を伏せる彼を見やると、安心させるような言葉で以て宥められる。
「大丈夫だ。俺は食われるけどよ、お前みたいなガキは食うところもそんなにない。そうじゃなくたってお前はまだ食われねえよ、平気だ」
ぶっきらぼうな態度をしているが、見ず知らずのわたしに対してもこの人は、薬師は。慈しむような目を向けてくる。
なんだか、この人と話していると調子が狂う。
この人はまたすぐ居なくなると分かっているのに、わたしはこの人の不器用ながらあたたかい眼差しに縋らずにはいられなかった。
「薬師さんって、おとうさんのお兄さんですか」
「あ?あ~…。あいつ、俺の事を話に出してやがったのか。」
「そうですよ、ぶっきらぼうだけどいつも良くしてくれて助けに来てくれるって言ってました」
「自分のガキにも要らねえこと言いやがって…」
ばつが悪そうにして目線を逸らす彼。
少しばかりからかってやりたくなった。
「わたしのことも、お父さんとか他の人にしたみたいに助けてくれたんですか」
「さぁな」
「わたしは、不安だったからよかったですよ。最初は不審者かと思って怖かったですけど」
「ふし……まあ、そうだよな。悪い。」
「謝らせる気はないんですけどね。でも」
本当に嬉しかったんです。
そう言うとまた彼は目線を逸らして、夕食用のカロリーメイトをぐいと押し付けてきた。
束の間だとわかっていても、手放したくないあたたかな時間だった。