序章-御影堂紫苑という少女、その一族について-
将来への漠然とした不安、希死念慮、インターネットやニュースで取り沙汰されるそれら。幼いわたしは、それらを物心ついたときから常に抱えていた。
なにも、周りで起きた事象だけに影響されたわけではない。ただ、私が生まれた頃に、世界は既に病んでいた気がする。空き教室から出てこられない女の子、電車の端っこで昏い瞳をして立ちながら床を見つめる男性、ビニール袋に包まれた濡れて汚れた上履き……今までは冷たい目で見られていたひとの心の傷痕が、上澄みだけ受け入れられて大半はまだ好奇の目に晒されている。
…それが我が身に起きることがなくても、自分がそうでなくても、その事実がこの世界から消えてしまいたいと思わせるくらいずっと怖かった。
両親はとても朗らかで、愚痴を言う時だって余裕がなさそうな感じはない。安定していた。だから、一度何でもない感じで問いかけた。
「おとうさんは、自分と世界が汚いって思って嫌になって、消し去ってしまいたいって思ったことはある?」
この質問に関してはあまり驚かれなかった。それはそうだ、わたしが親元であろうと滅多に笑顔を見せなかった可愛げのない陰鬱な子供なのだから。
目を細めて口元を緩ませた父がぽつりぽつりと話し出した。
「消し去りたいはないねえ、だって他のヒトは幸せに生きてるんだから。自分ひとりの癇癪で世界が消えたらみんな怖くて泣いちゃうだろうな」
余裕があるからこその思考だ、と思った。
夜眠れない時に見たアニメで自分より少し歳上だろうかというくらいの男の子がおじさんに『まだまだ若いな』と言われていた『若い』がこの問いを投げかけたわたしの中にきっとあった。
父はわたしが何も言えなくなって黙ったのを察したのだろう、両の手をひらひら振ってまた話し始める。
「まあ、紫苑さんはこういう絡まれ方するのはそんなに好きじゃないのは分かるけど、一応ね」
もしよかったら今度旅行行こうよ、お母さんとお父さんと紫苑さんで。
そう言ったのを聞いてまたか、と思った。けして嫌ではないが父や母はわたしが悩むとすぐ外に連れ出そうとするからはぐらかされたようにも感じて、…いや、ちょっとくらい煩わしいかもしれない。
結局その日は、市の博物館に行くことになった。
鯨のスタンプが押された入場券をまた上着のポケットに仕舞い込んで中身をいっぱいにした。
わたしは元々、貴族の出だったらしい。
わたしが生まれる前に、その御影堂本家は潰れてしまったらしいけど。話をほぼ聞かせてもらえないところも含めてきっと碌な家ではなくて、だからお母さんもお父さんもそこに住まずにわたしを普通の一軒家に住まわせている。…そうだと思っている。
夕飯を作っているお母さんが厨房の換気扇の音でわたしの声が聞こえないからと声を張り上げて話す。
「そういえば紫苑、誕生日が近いねえ。もう10月だから半月したらすぐだよ」
「もう17になっちゃうんだ、わたし。順調に負の歴史が積み重なっていくね」
「どんどん数字増やしてけ〜!ケーキはいつもの手作りドームケーキが良いよね、あれ好きでしょ」
「…レモン汁漬けのバナナ、大量で」
「おー!いいねいいね!いっぱい食べな!」
それで、また次もお祝いしようよ。
そう言った母の言葉には特に答えなかったけど、なんだか目頭がじんわりして変だった。
思えばそこで、世界にエンドロールが流れて全てが終わればよかったのだ。
誕生日のその日。
恐れていたことが、現実になった。