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ほたるの追憶

作者: 混沌の肉塊

あれは確か、夏が始まって間もない頃だったと思う。


僕が小学5年生か、6年生だった日の暖かい午後だったのを覚えている。








トラックのエンジン音を街の雑踏が掻き消し、ノイズが不快なハーモニーを奏でる。


学校終わりのその足のまま向かうはずだった塾は、もう始まっている時間だった。


何とはなしに湧いてきた倦怠感に身を任せたことに腹を立てつつ、やはり僕が足を動かすことは無いのだった。


ひんやりとした鉄柵に肘を置き、目を瞑る。


思えばいつも何とはなしの感情に流されていたように思う。


周りがそうしているからそうする、親に言われたからそうする。


いつまでこんなおままごとを続けるのだろうか?






他にすることが無かった僕は、ただ思考の波に揉まれていく。


小学校では中学受験のために勉強し、中高では大学受験のために勉強し、大学では就職のために勉強し、就職してからは昇進のために働き、気付いた時には重い腰を上げることすらままならなくなっている。


将来何になりたいか?何にもなれず普遍という言葉を体現して死ぬだけだろう。


今ここまでして努力する意味があるのだろうか?


いっそのこと死んでやろうか、と少年だった僕は子供心ながらに思った。


そしてそのまま鉄柵の向こう側に身を乗り出した時に、あるおじさんが僕の肩を掴むようにして叩いたのだった。


怪訝な顔をして振り向いた僕の顔に、おじさんが何と声をかけたのかはあまり覚えていない。


暇なら少し付き合えだの何だのと言われて、無垢だった僕はなんとはなしの好奇心にまた身を委ね、そのおじさんに付いていくことにした。


おじさんはボロボロのジーンズのポケットに片手を突っ込み、ごそごそと漁った末に四枚ほどの紙切れを取り出した。


おじさんの手の中で広げられたそれは、千円札であるらしかった。






僕たちは互いに手を握り合い、地方線の改札を通る。


あまり遊びに行くことのない僕は、いつかぶりの気の抜けた警笛に心を踊らせていた。


間も無くして、電車のシートに座る人と人との間隔が開き、窓から見える景色に緑色が激しく主張を始める。


電車の扉が何回か開閉を繰り返した後、おじさんは自分のことをヒロおじさんと呼んでくれと、そう言った。


電車がまた減速を始めると、ヒロおじさんは僕の手をまた握り、ドアの前に足を運んだ。


その駅は無人駅で、「田舎」を体現したような場所だった。


四方は山と棚田に囲まれ、田園を縫うように所々に生えている家は、年季の入った木造建築のようであるらしかった。


ヒロおじさんは僕の手を握ったまま、雑草が綺麗に咲くあぜ道に足を運んだ。






緑の大地を十字に区切るその線は、向こうの小さな山の裾へと伸びているようであった。


おじさんは道を折れる事無く、小さな山へと向かって行った。


その山へ近付くにつれ、青々と茂った木が隠すようにして、苔むした石階段があるのが見えてきた。


階段は山のてっぺんまで続いているようであり、これからこの階段を登るのかと思うと、僕を少し憂鬱にさせるのだった。


僕は苔に混じって生えるキノコにおじさんの足を止めつつ、一段ずつ山の頂へと歩みを進めていった。


からっと晴れた初夏の空気が足首を執拗に撫でる。





囃し立てるような蚊の声に追い立てられ、僕たちは大きな鳥居の前にやってきた。


手入れされた砂利の上に立つ、おじさんの二倍くらいあるその鳥居は、どこか寂しい雰囲気をこちらに振り撒いていた。


おじさんはそのまま、礼もせずに鳥居をくぐって行く。


いつの間にか離れていた手を追い、僕は慌てて鳥居にお辞儀をしてお堂の方へと走って行った。


僕が顔を上げた頃、おじさんは既にお堂に続く石階段を半分ほど登り終えていた。


先ほどより苔の減った階段に右足をかけ、左足を次の段に乗せようとして、階段の壁面につま先を引っ掛ける。


まだ小学生だった僕には、一度崩れたバランスを取り戻すだけの身体能力は無く、勢いのままに石階段に手をついた。


露出した岩肌がずるりと手のひらを削る。


おじさんの背中に、無意識に助けを求めて視線を向ける。


が、こちらを振り向く素振りすら見せない。


大声を上げて泣きたくなったが、馬鹿らしくなって、やめた。


擦りむいた手のひらから血が滲む。


はあ、と失望だか諦めだかつかないようなため息を吐いて、今度は少し慎重に階段を上るのであった。





石階段が高く見えたのは最初だけで、いざ上ってみるとすぐに古ぼけた賽銭箱が目の前にやってきた。


賽銭箱の間を覗き見ると、中で小さな黒い蜘蛛がせっせと巣を作っていた。


こんな所に巣を作っても飯にありつける事は無かろうに。



おじさんはポケットから切符のお釣りを取り出した。


哀れ、蜘蛛は小銭に押し出されて、巣ごと賽銭箱の中へ落ちていった。


おじさんは、手を合わせることもなくまた振り返った。


僕は、さっき来たばかりなのにもう出発するのかと、付いてきたことを後悔しつつもおじさんと同じように振り返った。




息を、呑んだ。




鳥居の向こうから、暁色の空がこちらを静かに見据えている。





開けた山の下に、石階段、鳥居、緑の絨毯、橙色のカーテンと続く。


圧巻の一言であった。


自分の存在の矮小さを感じるでも、神秘的な雰囲気に魅入られるでもない。


ただひたすらに、美しかった。




おじさんも僕ほどではないにしろ、何か感じ取ることがあったようで、しばらくそうやって空を長めていた。


真上の空が藍色になり出した頃、おじさんが口を開いた。


何と言ったのかは覚えていない。


ただ親を大切にしろだの、辛い事はいつでもあるだの、ありきたりな事を言われたような気はする。





空は間もなく深い青色に変わり、月が鳥居を煌々と照らし出す。


僕たちはそれぞれ、もう手は繋がずに石階段を降りていった。


鳥居のところまで下りてきて、今度はおじさんと一緒に頭を下げた。


その時に横目で見た、腰を90度に曲げつつ意地でも手は合わせないおじさんがおかしくて、少し笑ってしまった。


虫の騒がしい声を背に、僕たちは山を下りていった。


緑一色だった田園には、季節に置いていかれたホタルがまばらに色をつけていた。





あの時のヒロおじさんが何を伝えたかったのかは分からない。


ただ、おじさんと会ってからは「生きる意味」をなんとなく理解したような気がする。


今でもたまにあの神社に行くが、あれからヒロおじさんと再会した事はない。





「速報が入りました。きょう10時頃から逃走していた、受刑者である彼岸花ヒロキ容疑者21歳が、先ほど逮捕された模様です。警察によりますと、ヒロキ容疑者は某県内の交番で自首し、現在詳しい確認が進められています。同氏は、両親にあたる50代の男女2人を殺害した罪で死刑判決が出されており、某市刑務所から脱走、先ほどまで逃走していたとのことです。また、同氏は逃走中、10歳前後の男児と行動していたと供述しており、警察が情報を募っています。ヒロキ容疑者は、両親によって教育虐待を受けていた可能性があり、世論からは死刑の撤回を求める声が…」


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