【第2部:過去と今と未来の私】第9話「とっちー」─飛行機雲と天賦の才─
キーンコーンカーンコーン。
鐘が休み時間のはじまりを告げる。
「とっちー、ねぇ聞いてよとっちー!」
それまでは東蓋ちゃんと呼んでいたけれど、ふと「とっちー」と呼んでみたくなった。高校の一年生の時だったと思う。「東蓋ちゃん」もかわいいけれど、なんだかかたい。彼女は自分の名前を気に入っていたようだし、私も彼女の名前はかっこいいと思う。彼女はかっこいいものが好きだった。かっこいいと言っても、男の子が好きな「かっこいい」ではなく、大人の「かっこいい」。彼女はクラスの誰よりも大人びていて、誰よりも完璧で、誰よりも優しく、そして、誰よりもかわいかった。
──第9話「とっちー」─飛行機雲と天賦の才─
彼女は私なんかよりよっぽど頭も良いし、運動もできて、何より字が上手い。先生よりも上手く書くから、先生に代わって板書したこともあった。それは先生のユーモアでたった一回だけだったし、彼女もそれを理解していたからみんなに読めないような達筆で、スラスラと黒板に字を書いていた。「上手すぎて読めねえよ」とクラスの男子が笑いをとると、彼女は黒板消しで字を消して、みんなが読める字で書き直した。
彼女は私にはない才能を持っている。持つ者と持たざる者の間には何があるというのか。いや、そういうことはどうでもいいのかもしれない。私は彼女の才能が好きなのではなく、才能がある彼女が好きだった。大人びた彼女が好きだった。
彼女と比べて私はなんて子どもなのだろうかと落ち込むこともあって、そういう時は彼女のことを少しだけイヤに思った。それは彼女のことを嫌いになったわけではなく、彼女のようになれない自分が嫌いになったのである。そのことに気づいたら自分という人間がひどく惨めに思えて悲しくなってしまった。その日の帰りは用事があると嘘をついて、線路沿いの道をひとりで自転車を押しながら歩いた。昼に雨が降っていたから水たまりができている。水たまりに映る青い空、雲、電柱と電線。その全てが埃を洗い流して透き通るように美しい。私も綺麗に見えるのだろうかと水たまりを覗き込もうとしたけれど、下を向いたら涙がこぼれてしまいそうな気がしてあわてて上を向いた。子どもの頃、急に鼻血が出たときに同じ動きをしたなぁ、なんて考えていたら少し元気になった。東蓋ちゃんは鼻血出たことなさそうなんてバカっぽいことも考えた。
歩くのは良い。ゆっくりと流れる時間の中でしか見つけられない自分もある。
道草をしてカフェで珈琲を飲んだ。苦い珈琲。今度東蓋ちゃんと一緒に来よう、このカフェは私なんかより東蓋ちゃんの方が似合っている、そんなことを考えていたら空が茜色に色づきはじめた。会計を済ませて店を出る。夕焼け空と言えば西の空、だが、その時は東の空をずっと眺めていた。燃える空も良いが、淡く滲む空も良い。東と西を繋ぐもの、その正体。飛行機雲が遠い空でオレンジ色に煌めく。東と西を繋ぐものは、人間である。はっと気づいた。私は年齢を重ねても東蓋ちゃんのような大人になれない、でも大人のように振る舞うことはできる、つまり、大人のように見せることはできる。内面と外面のギャップ、二面性。「大人のようなもの」の正体は二面性だと思う。だが依然として、大人そのものについては分からない。
大人。大人ってなんだろう。彼女の隣にいれば、その答えがわかる気がした。だからこそ、それを壊してみたくなった。答えを知るのがこわかった? それは違う。独占欲、でもない。私は彼女の完璧に憧れていたわけではないが、それが崩れる瞬間を見たくなかった。だからあえて、今、その壁を破壊しようと思った──そのときの私は、不意に壊れるからこわいのであって、覚悟ができていれば壊れてもこわくないと考えていた。あと、彼女が遠い存在になるのがこわかった、それもあると思う。「大人の彼女」を壊す術、それが「とっちー」。とっちーと呼んで何かが変われば私の勝ち。
「とっちー、ねぇ聞いてよとっちー!」
彼女は一瞬驚いたような、動揺したような顔で私を見て、鼻をひくひくさせた。それからそっぽを向いて何事も無かったように「なにー」と気だるげにこたえた。もちろん私は、彼女の顔の変化、特に鼻をひくひくさせたのを見逃さなかった。
「あ、鼻ひくひくした! とっちーって呼ばれるの嬉しいんだね! ね、とっちー!」
私の勝ち。
嬉しかったのは私の方だった。「とっちー」と呼ばれて嬉しそうな彼女を見ることができて思わずはしゃいで抱きついてしまった。十数年生きてきた中でこれほど胸がキュッとなることはなかった。オレンジジュースを机にぶちまけてお気に入りのノートがぐっしょり濡れてショックだったということを彼女に言うつもりだったが、そんなことはどうでも良くなるくらい嬉しかった。なんならノートについたジュースのシミを見る度にその時のことを思い出せるので、こぼして良かったと思ったほどであった。その日はずっと「とっちー、とっちー」と呼んでいて、用もないのに「とっちー」と言うものだから、彼女は途中から返事をしなくなってしまった。
次の日も、その次の日も彼女のことを「とっちー」と言い続けているうちに、いつしかクラスの中での彼女のあだ名はとっちーになっていた。私だけのとっちーじゃなくなってなんだか悲しい気持ちにもなったけど、それ以上に彼女が前よりも明るくなったような気がして嬉しかった。
それに、クラスのみんなが「とっちー」と呼ぶのと、私が「とっちー」と呼ぶのとでは彼女の反応は明らかに違っていた。みんなが呼ぶときは「はいなんでしょう」という感じ。私が呼ぶときは「なにー」という感じ。それに気づいた時、彼女を大人っぽく見せているものがなにか、少しだけわかった気がした。彼女の横顔が悲しそうにみえるのも同じ理由なのだと思う。
孤独。
彼女は孤独なのだと思う。才を持つ者の苦労を私は知らない。だからこれは私の想像なんだけど、みんなは彼女の才能をみていて、それを褒める。顔もいいから、男子からも女子からも告白される。
だけど誰も彼女をみていない。才ある者は早死にすると言うけれど、神様でさえ、彼女の才能しかみていない。そうでしょう、みんな彼女の才に惚れ込んで、ドツボにはまる。
彼女はときどきある人のことを話す。彼女はその人を「せんぱい」と呼んでいて、その人のことについて話すときは目がキラキラしているから、憧れの人なのだということはすぐに分かる。彼女の話を聞く限り、その人は彼女以上の天才である。人間誰しも天才を好む。当然とっちーも人間だから天才のことは好きなのだ。だが彼女は天賦の才をみているのではなく、天賦の才の使い方をみている。才ある者なら誰でもいいというわけではない、あなたが天賦の才を持っていて本当に良かった、簡単に言えばそういうことなのだろうと思う。
とっちーがその才を思う存分使って暴れまわるとき、私はとてもワクワクする。次は何をみせてくれるのだろうという期待もあるが、それ以上に、とっちー自身が楽しそうなのが堪らなく愛おしい。才ある者はその才を行使するとき、無邪気で子どもらしく、かわいく見える。みんな知らない事実。クラスの中で私だけがとっちーのかわいい顔を知っている。
芸術の選択科目の書道でみんなが彼女の作品を褒める中、彼女の前の席に座っていた私は、字を書く彼女を頬杖ついて眺めていた。
「どした?」と彼女が聞いたので、「動きがかっこいい」とこたえた。彼女の腕、手首、そして筆、それらは一切の迷いを知らず、なめらかに、とても楽しそうに動いていた。動いていた、という表現は違うのかもしれない。踊る? 舞う? どれも違う。少しおかしいかもしれないけど、「歌う」という表現が一番しっくりくる。平面的な作品を生み出すためには平面的な動作ではダメなのだ。立体的な動作、あるいは歌。作品を見れば、それが生み出された過程がホログラムのように浮かび上がる、そんな世界が見えているなら、そりゃあ才能なんてみている場合ではない。才能の暴れ方が見えるのに、なぜそれを見ようとしない。ごもっとも。
「腕が歌うたってるみたい」
そう言ったら彼女はえへへと笑い「ありがとう」と言った。ほら、かわいい。
とっちー。かわいいとっちーに話したいことがあった。最後の話。でもその話をする前に時間が来てしまったから、話せなかった。いや、まだ終わったわけではない。次会ったときに話したいこと、それは私のおじいちゃんの話。
夢。大好きなおじいちゃんが笑う夢。私はまだ小さくて、おじいちゃんは今より少し若く見えた。
みかんを食べていた。みかんの白いスジを取っていたらおじいちゃんが「そんなにスジとったら食べるとこなくなっちゃうよ」と言った。おじいちゃんはよく適当なことを言う。そういう時、私が適当な返事をするとおじいちゃんは喜ぶ。今回は「スジあげるから食べな」と言っておいた。
おじいちゃんは綺麗にみかんを剥いた。私は剥くのが下手で、私がみかんを食べたあとはいつも机のあちらこちらに皮が散乱していた。
「なんでそんなに綺麗なの?」
私が聞くとおじいちゃんは「コツがあるんだよ」と答えてくれた。そのコツを覚えていたら、私はもっと大人っぽくなれていたのかもしれない。
おじいちゃんはヒマがあれば競馬やパチンコをしていて、いつも負けて帰ってきていた。「くそー負けた!」と悔しがるおじいちゃん。私がくふふと笑うとおじいちゃんもつられてあっはっはと笑った。
適当でクズなおじいちゃんだけど、ホントはすごい人らしい。実際、私にも色んな技を披露してくれた。例えば、部屋にいる蚊を圧死させる技とか、くたくたになったぬいぐるみをふんわりさせる技とか、消しゴムにいちごの香りをつける技とか。あと、私が好きだったのは、壊れた機械を空中で一度分解して、組み立てなおす技。機械を修理していると思った? ざんねんながら、ただ分解してもとに戻しただけ。なんでそんなことをするのかって、それはおじいちゃんが適当な人だから。でも、複雑で細かい部品が空中でカチャカチャと踊る様子はとても楽しげで見ていて飽きることがなかった。これが魔法なのかと思った。
夢の中のおじいちゃんは笑っていた。いつまでもここにいたいと思った。目が覚めたらおじいちゃんはいない。知っている。知っているから私は、おじいちゃんを助けるために、私自身を売った。
おじいちゃんが生きていることは手紙が届く少し前から知っていた。そしておじいちゃんが数年前から磔にされて動けなくなっていることも。そんな状態で手紙なんか書けるはずがない。だからこの手紙は偽物──だと思いたかった。
この手紙は本物で、でも今は手紙が書けるような状態じゃない。だとすればこの手紙は磔にされる前に書かれたものだ。
なぜ磔にされているのか、手紙はなぜ届かなかったのか、分からないことだらけだが、おじいちゃんが今も生きていることだけは分かった。分かったと言うより、教えられた。閾巫女とかいう化物に教えられた。
「おじいちゃんを助けて」
私の言葉は空気を震わせるだけ。弱い者は大切な人を助けることができない、それどころか願うことすらできないのだと、このとき理解した。
「どうすればいいの?」
化物の答えはひとつ。
「あなたが欲しい」
化物は私に猶予を与えた。考えて結論を出すのだ、と。
無力感。
おじいちゃんの居場所を探してくれるよう誰かに頼む? いや、もう探せる場所はもう探し終えている。とっちーにはこれ以上迷惑をかけられないし、今さら誰に頼ればいいの?
そんなとき手紙が届いた。この手紙は磔にされる前のおじいちゃんからの手紙。この手紙がもっとはやく届いていれば良かったのに。偽物だったら良かったのに。おじいちゃんはきっと、私からの手紙を待ち続けていたはず。おじいちゃんに悲しい思いをさせてしまった。私から返事がないまま化物によって磔にされて、それでもまだ私からの手紙を待っている。
ならば、私のすることはただひとつ。
「私を、あなたにあげます」
おじいちゃんのいる場所へ、そして直接会ってごめんなさいと言う、それが私のすべきこと。返事遅れてごめんね。おじいちゃん、生きててくれてありがとう。私は元気だよ。それが私の言葉。おじいちゃんに伝えたい最後の言葉。
とっちーに手紙のことを伝えたのは、私がもし死んだとして、それをおじいちゃんに伝えてほしかったから。おじいちゃんに伝えるということは、とっちーがおじいちゃんを見つけて、助けてくれるってこと。ついさっきとっちーには迷惑をかけられないと言ったばかりなのに。矛盾。いや、本音はこっちなんだ。助けてほしい、でも助けを求めることができなかった。彼女への最後のわがままを言葉にすることができなかった、それが唯一の心残り。
彼女には甘えてばかりだった。付き合っていた人にひどい振られ方したときだって、私が泣き止むまでよしよししてくれて、その人を殺す寸前までボコボコにしてくれた。私が太ったときはぷよったお腹をさすさすして「かわいい」と言ってくれたし、ダイエットにも付き合ってくれた。私はバカだからとっちーに勉強教えてもらわないとダメダメだったし、いじめられていた時も彼女だけは私の味方だった。私はとっちーがいなければ何も出来なかった。
だから今回は自分だけでおじいちゃんを助ける。そうだ、彼女に頼ってばかりではいけない。自分で生きなければ。大事なことを誰かに託してはいけない、自分でやるんだ。
「バイバイとっちー。次会ったときは、またあのカフェに行こうね!」
閾巫女の魂が彼女の身体を操る。
演説台に立つ小寺優香は「ファンタシア開演!」と宣言。すると群衆も一斉に「ファンタシア開演!」と呼応する。その呼応を合図に彼女は右手を挙げ、意識の剥奪とアルゴリズムの占有化を、換言すれば〈劇物化〉の儀式を開始する。
劇物化によって化物らは神樹様の復権を目論む。ゆくゆくはファンタシアの適用範囲を世界そのものへと拡大することで、膨大な量の情報にアクセスすることを可能にし、それにより消えた神樹の在処を特定、引きずりだすという計画──通称、グローバル・ワークスペース。その一端を担うのが、閾巫女(集合体)の能力、悪夢。閾巫女が小寺優香を必要としたのには理由があるが、ここでは割愛。
一方、小寺優香は閾巫女に黙って付き従っていたのかと言うと、そういうわけではない。おじいちゃんの居場所を特定するための作戦、それは化物らが神樹様を見つけ出す方法とは少し異なる。
なぜ手紙は届かなかったのか。違う。本当に問うべきなのは、なぜ手紙は届くようになったのか、ということだ。住所はバベルズ。この場所にこの世界とは異なる別の世界が存在している、彼女はそう仮定した。手紙が届いたということは、Aの世界とBの世界──〈バイキャメラル・ワールド〉と呼ばれている──を繋ぐ橋の建設が可能であることを意味する。では、その別の世界とやらを見つける方法は? 手紙が届いた過程を調べれば良い。どうやって? それは、すぐ後でわかるだろう。ただひとつ懸念点があるとすれば、この方法が成功するかどうかは未知数であるということ(あと当然のことではあるが、化物側にこの作戦がバレたら終わり)。さてどうなるか。
…………ブウウ──────ンンン──────ンンンン………………。
時計の鐘が夢の終わりを告げる。
だがその時──
優香は突如として真っ暗闇に放り込まれる。目が潰れた? 貧血? それとも、死んだ?
彼女は自らの死を錯覚する。
「──見つけた」
儀式に関与しない者、すなわちアウトサイダー。定められた運命、世界の掟を破るのはいつだって世界の外側にいる者たちである。
彼女の頬に触れる者──
「とっちー!!」
その瞬間、真っ暗闇の世界が反転して真っ白い空間が広がる。白く暖かい空間にいるのは小寺優香と、優しく微笑む東蓋。
「行こ、ゆうちゃん」
優香は文字通り生まれ変わる。それは死者蘇生ではなく覚醒である。彼女は長く短い夢を見ていた。いま、その眠りから目覚める。
「とっちー助けてぇー!」
泣きじゃくる優香。
「どした?」東蓋が駆け寄り、優香の頭を撫でる。
「あのね、胎児の夢でおじいちゃんの居場所が分かって。ひぐっ。んで、そこまではいいんだけど──」
「ちょっと待って。胎児の夢ってあのドグラ・マグラの? あれって仮説に過ぎないんじゃなかったの?」
胎児の夢。簡単に言うと、歴史という言葉が生まれるはるか昔、生物と呼ばれるものの誕生から、彼女が産まれ、成長し、今この瞬間に至るまでの果てしなく長い足跡を、夢という形で追体験することである。胎児の夢から目覚めた者のほとんどはあまりにも残酷で茫漠とした系譜と運命に圧倒され、産まれ落ちた瞬間に泣きわめく。だが当人はなぜ泣いているのか分からない。なぜなら、産まれ落ちた時には既に夢の内容を忘れてしまっているから。泣くという行為は無意識というアルゴリズムから要請され発信された警告なのである。
胎児の夢には自分自身に深く関係する人も登場する。今回優香はそれを応用しておじいちゃんの居場所を突き止めた──彼女の夢には手紙を楽しそうに書き、投函するおじいちゃんの姿が映し出されていた。
「前とっちーと胎児の夢について話したことを思い出して、一か八かやってみたらできたの。おじいちゃんはこの場所の、ここではない別の世界にいる」
「やっぱりこの世界にはいなかったんだ」
「居場所はわかったんだけど、肝心のそこに行く方法が分からなくって……。どうしよう、このまま目が覚めたら全部忘れちゃうよぉ!」
「ひとりで頑張ったね。ここから先は一緒だよ」
東蓋は再び優香の頭を撫でる。「ちょっと頭の中見せて」
「うん、いいけど……そんなことできるの?」
東蓋は目をつぶりながら優香の額に自分の額をそっとつける。
「識閾って言って、理屈はよく分からないけど、こうすると相手の頭の中がぼんやりと見えるんだ」
東蓋は優香が見た胎児の夢の記憶──約40億年という気が滅入りそうな膨大な量の情報──からおじいちゃんの居場所を探り出す。
「よしわかった。早速行こう!」
「おじいちゃんのところへ行けるの!?」
「うん、行けるよ」
東蓋の言葉を聞いた優香は「ありがとう」と言い、「今日、泣いてばっかり」と笑う。
「でもそのためには私の仲間の力を借りなきゃいけないのと、あと、目を覚まさないといけない」
「忘れないかな?」
東蓋は少し考えて「そうだ!」と何かをひらめく。
「条件付けでもしよっか」
「パブロフの犬? わんわん!」
行動と記憶を結びつけて、その行動をした時に記憶を引っ張り出せるようにする。
「たとえ忘れてしまっても、思い出せるように。そのためには起きた時にその行動をしなきゃいけないけど」
「忘れててもできる行動がいいってことだね!」
「そういうこと」
「じゃあ──」
目を閉じていた沈黙の姫が目を覚ます。隣には東蓋。
優香と東蓋は見つめ合う。優香はニコッと笑って「とっちー!」と言いながら東蓋に抱きつく。はじめてとっちーと呼んだ日の胸がキュッとする感覚が思い出される。そして同時に別の記憶がよみがえる。東蓋は抱きつく優香の頭をぽんぽんと撫でる。彼女たちは全て思い出した。
何が起きているのか分からない群衆はガヤガヤと騒ぐ。演説台に上がった頭首がファンタシアの開演を宣言したかと思うと、次は黙って目をつぶってしまった。何が起こるのかとじっと待っていた群衆が見たものは、突然現れたクール系長身イケメン美女と頭首(可愛い系ゆるふわ女の子)のいちゃいちゃ。さてこの状況をどう解釈するか。
ある者が問う。「これは、百合なのか?」神聖なる方法的懐疑である。
「もしかしたら百合かもしれない」
「百合だとしたら、まさか、世界構造の原理はそれなのか?」
「もしくは我々の行き着く先が百合なのかもしれない」
「百合について問う。それは物か心か関係性か?」
「そのどれでもあるが、どれでもない。ただひとつ言えることは、それは我々を繋ぐ架け橋であるということだ」
「飛躍せよ! これは百合である!」
人類は気づいた。「マドンナ・リリー! 百合だ!」
「百合ではないか、百合ではないか!!」
「百合ではないか、百合ではないか!!」
東蓋が口を開く。「女々しい貴様らに任務を与えます。健康で文化的な最低限度の生活を送り、ほどほどに幸せになってください。それでは解散!」
社長が薫に話しかける。「百合の間に挟まる勇気と覚悟はあるかい?」
「俺に罪人になれと言うんですか?」そう言いながらも薫は吸花で東蓋、優香、社長、それと自分自身(火の玉ひよこもついてきた)を吸い、吸花内の空間に移動させた。
「薫さん、ありがとう」東蓋が礼を言う。「早速で悪いのですが、優香ちゃんのおじいちゃんのところまで連れてってください」
「それはいいけど──」
薫の話が終わる前に東蓋は薫の額に手を当てて目をつぶる。
「今から情報を送るのでそこに行ってください」
「ハイ」薫の頭の中に情報が送り込まれる。「おっけー、行きます!」
──第9話「とっちー」─飛行機雲と天賦の才─終