【第2部:過去と今と未来の私】第8話「ゲキヤバでドクドク」
【過去と今と未来の私】
誰かを犠牲にして成り立つ世界。世界ってそういうものだろう? 犠牲は随時供給され、世界は持続する。
犠牲のない世界は作り物である。偽物である。だがそういう偽の世界はそれを想定できる時点で既に成立している。偽の世界は「嘘」で成り立つ。偽の世界は誰かを生かすための世界であり、〈私〉を生かすための世界である。嘘は随時供給され、〈私〉は持続する。
嘘はいつしか本物の世界をひっくり返してすっかりがらんどうにしてしまう。空っぽになったところに新世界を詰め込んで、いま、果てしない旅が始まる。
──いつしか世界をひっくり返した奴がいた。そしたら地獄が空から降ってきてこの世界が地獄になった。私の大切な人は地獄にいたので、私はとても幸せだった。
小岩井ゲキドク事務所。
「東蓋ちゃんも大学生かぁ。おじさん嬉しみの涙!」
東蓋は第1志望の大学に合格していた。
「キモいけど、社長にも助けられたから今回は総合的にキモくないです。ありがとうございました」
「うんうん、大学楽しんでね!」
社長の袖は涙でぐっしょり濡れていた。「珈琲淹れるね」と言い、社長は流し台へ向かう。
「薫さんに聞きたいことがあるんですけど」東蓋が薫の方を向く。薫は鬼の形相でパソコンの前に座り、何やら作業をしていた。「薫さん、どうしたんですか?」
「履修登録! すっかり忘れてた!」冊子や資料をめくり、パソコンを睨みつけ、マウスをしきりに動かし、音速を超えた指さばきでキーボードを打つ。ペットボトル水を飲もうとして手が滑り、机の上の書類が水びたしになる。開いた窓から風が吹いて書類が宙を舞う。
「やだー!!」頭をかきむしる薫。
「……大学生活も大変ですね」
しばらくして──。
「なんとか間に合った。心臓ドクドクだよ」疲れてしなしなになった薫。
「お疲れ様です」東蓋は社長が淹れた珈琲を薫に手渡す。
「アリガトゴザマス」疲労で声がかすれる。珈琲を飲んで喉を潤し、一息つく。「東蓋さんも履修登録しなくていいの?」
「履修登録は入学した後みたいです」
「あぁ最初はそんなもんだっけ。しっかりしてるねぇ」
「薫さんがだらしないんです」
ショックで再びしなしなになる薫。
「それより聞きたいことがあるんですけど」
「ハイ!」
「死んだ人に手紙を出すにはどうすればいいですか?」
「ハイ?」
流し台でカップが割れる音がした。
──第8話「ゲキヤバでドクドク」
「あぁでもその人が死んだかどうかは分かりません」
「どういうこと!?」
「カップそのままだけど聞かせて!」社長が流し台から駆けてきた。社長も東蓋の話が気になる様子。
「えっと……友達からの依頼なんですけどね」
「優香ちゃんっていう私の友達がおじいちゃんに手紙を出したいそうなんです。そのおじいちゃん、数年前に行方不明になっていて、どうやら死んだことにされているみたいで。そのおじいちゃんをいくら捜索しても痕跡すら見つからないってわけで、当時の警察やゲキドクはお手上げ状態。ひとりで生きていける力もないし、化物によってどこか遠い場所に連れ込まれたか、ここではないどこかへ迷い込んでしまったのだろうという結論になったそうですよ。それで、なぜ優香ちゃんがおじいちゃんに手紙を出したいと思ったのかと言うと……」
ごくり。薫と社長の真剣で険しい表情、東蓋が目を細めてふたりを見る。
「死んだはずのおじいちゃんから彼女宛に手紙が届いたから」
「きゃー!」「やだー!」事務所内に響きわたるふたりの男の声。
「……それで、手紙の内容はというと」東蓋はポケットからスマホを取り出し、手紙の写真をふたりに見せる。
一枚目の画像は手紙、二枚目の画像は名前と住所。
小寺優香さん
拝啓うんたらかんたら。適当なおじいちゃんでごめんよ。
心配かけたと思います。ごめんなさい、ちゃんと生きてます。テヘ。
お元気ですか? おじいちゃんはちょっと腰が痛いですが元気です。
楽しく学校に行けていますか? 友達との関係は良好ですか? お金は足りていますか? 色々聞きたいことはあるけれど、それではお節介じじいになってしまいますね。
私は最近、新しい友達ができました。優香ちゃんより少しだけ上の年齢の子です。その子が毎日遊びに来てくれるので、とても楽しく日々を送っています。
優香ちゃんと久しぶりに話したいと思い、手紙を出しました。忙しくなければお返事ください。待ってます。
小寺直人
「数年間行方不明だったわりに、内容がものすごく薄いね」薫がスマホを社長に手渡しながら言う。
「そうなんですよね。なんか怪しいんですよ。ホントに生きてるのかなって」手紙に不信感を抱く東蓋。「それに──」
「あっ」社長が何かに気づいた様子。
「やっぱり気づきました?」
「えっ、何? 何?」
社長が薫にスマホを渡し、二枚目の画像を指さす。「おじさんの記憶違いじゃなければ、この差出人の住所は〈バベルズ〉が建つ場所だ」
「バベルズって、あの超お金持ちしか住めないっていう、超々チョー高層のマンションのこと?」
「そ! ただ今絶賛建築中!」社長は窓の方を指さす。バベルズは別名、「水の塔」と呼ばれており、建物の大半を占める透明な受水槽が特徴的な建築物である。受水槽の周りを螺旋を描くように居住域が連なっており、他の建築物を圧倒するその意匠性とスケールの大きさによって富裕層から支持を集めている。
「バベルズはまだ完成していないので、優香ちゃんのおじいちゃんが住んでいるはずがないんです」バベルズを見ていた東蓋が社長の方に視線を戻して言う。「それにしてもこの住所がバベルズの建設地だってよくわかりましたね」
「あぁそのことなんだけどね」社長はどっこいしょと立ち上がり、自分のデスクの方に向かう。「依頼が来てるんだ」
社長は散らかった机から一枚の紙を取り出す。「バベルズで抗議デモが行われるから警護をしてほしい!ってね」
「バベルズに行けばおじいちゃんのことも何か分かるかもしれないし、東蓋ちゃんと薫ちゃん、一緒に行こ?」社長は手を合わせてウインクをしながら「おねがい!」と言う。
「キモっ、でもまあいいですよ」「おーけー!」東蓋と薫は快諾。「それでどんな抗議デモなんですか?」
「簡単に言えば宗教関連だね。それもいくつかの過激な宗教団体が集まってバベルズの建設に抗議するっていう結構ヤバそうなデモ」
その言葉に東蓋は怪訝そうな顔をする。「宗教に関わるのはイヤですよ」
「気持ちは分かるよ。でも一課からの依頼だからどうしても断れなくてね。おねがい!」社長は再びおねがいポーズをする。
「はー、わかりましたよ。わかりましたからそのキモいポーズやめてください」
「抗議デモは明日。今回のデモでは公共ゲキドクの一課と二課に加えていくつかの民間ゲキドクも警護にあたる。それで、ちょっと待ってね──」社長は書庫から服を持ってきてふたりに渡した。「今回は特別にスーツを着てもらうからシクヨロ!」
「スーツかぁ、動きにくそう……」
「その点は大丈夫、伸縮性抜群の素材で機能性バッチグー!」社長は得意げに親指を立てる。
「それでスーツを着用する理由は主に3つ。一つ目は警護の連携を取りやすくするため。初めて会う人もいるから敵か味方かを視覚的に判断できるのは大きい。二つ目は周辺住民に警護の人がいることをアピールして少しでも安心してもらうため。三つ目、世間やマスコミなどの目があるからゲキドクに対する悪い印象を与えないようにするため」
「世間の目かぁ、それだとスーツじゃ逆にヤバくない? 社長、スーツ着たら完全にマフィアじゃん!」「確かに!」薫と東蓋が社長を見て笑う。
「そんなぁ」
(※社長の容姿は第2話でもちらっとふれましたが、マンバンヘア・濃い顔・ヒゲ・サングラスです)
抗議デモ当日の朝7時。
「朝早くないすかー、しゃちょー」
「デモは午前10時からなんだけど、あやしい人や危険物がないか見回りしなきゃいけないからね。これでもおじさんたちはまだ楽な方だよ。公共のゲキドクたちは徹夜してるんじゃないかな」
東蓋が周りを見回す。「ダンボさんいませんね」
薫や社長も探してみるがダンボの姿は無い。「仮眠してるのかもねー」薫が眠い目をこする。
眠そうな薫とは対照的に社長は元気はつらつとしていた。「おや、三督発見!」社長は少し先にいる二人の人物に向かって手を振る。
「さんとく?」
「監督者として認められている人のうち、特に強い三人のことです。まあ三人と言っても一人は行方不明らしいですけど。残りの二人のうち、一人は大酒飲みの超人裸族、もう一人は月に行ってクレーターをつくる仕事をしてるとかなんとか」
ゲキドクには2級と1級がある。2級になるには筆記試験と簡単な能力測定をクリアする必要がある。能力を有していない場合でも規定値以上の身体能力があれば合格となる。また能力測定に関しては、ゲキドク事務所にて監督者とともに実習を完遂した者は免除される。ゲキドク2級は一般的に危険性が低いとされている劇物しか討伐できない。
次に1級。1級になるには筆記試験と簡単な能力測定(もしくは規定値以上の身体能力で合格)に加えて、毒物を複数体討伐する必要がある。この時監督者は非常時を除き試験者を手助けしてはならない。ゲキドク1級になれば監督者不在でも毒物を討伐することが許可される。王族毒物を討伐することも可能だが、基本的に王族毒物は監督者か公共ゲキドクが討伐するのが望ましいとされている(王族を守護するための組織、王族騎士団はオリーブの死をもって事実上の完全解体となったため、ここでは扱わない)。
監督者とは1級の中でも強さや功績が認められた者にのみ与えられる称号である。監督者になるには特別な試験に合格する必要がある──下位の王族毒物を単独で撃破できる実力がなければ、監督者として認められることはほとんどない。
「おいっす、小岩井の社長! 元気だったすか?」
手を振る社長に応えたのは身長180センチ以上ありそうな女性。25歳。瞳は右が赤、左が黒のオッドアイである。赤く長い髪、額の右側に短めの一本の角が生えており、背中には彼女の身長の半分以上はありそうな金棒を背負っている。白地に花柄が描かれた着物と黒の袴は大正ロマンを彷彿とさせる。
「おじさんはいつだって元気だよん! かにちゃんも元気そうでなにより。あれ、スーツじゃないの?」
三督の一人、愛称かにちゃん。名を力鬼という。
「急にスーツって言われても、オレの身長に合うやつなんて滅多にないもんでよ。特別に許してもらったさ!」
力鬼の横にいる男性が口を出す。
「僕のを貸したろかって言ったんすよ、でもコイツ断りやがって」
力鬼とほぼ同じ身長の男性。三督の一人、猩猩。30代半ば。彫りが深くハンサムでスーツが似合う。
「何言っとん。お前スーツ、それあと一着しかない言うとったが! 酒飲んでその度スーツの上なくすから困っとんねん言うとったんはどこの誰や!」
「それいつの話やて。箱買いするようにしたからスーツの上なくなることはもうないって言わんかったか?」
「スーツ箱買いなんて初めて聞いたわ。なんやそのアホみたいな買いもんは!」
「なんやとアホ言うたなお前。豆投げてやろうか!」
「へっ! 腐れ外道がなんか言ってら!」
「まあまあ落ち着いて」社長が二人をなだめる。「うちのふたりを紹介してもいいかな?」
「おっいいぜ!」力鬼が笑顔で東蓋と薫を見る。「オレは力鬼。おにちゃんでもかにちゃんでも好きに呼んでな!」
「こっちは東蓋、こっちは薫。ふたりとも事務所のエースだよ! まぁふたりしかいないけど」
「ゲキドク1級の東蓋と言います」「ゲキドク2級、薫です」
力鬼は東蓋と薫に向かって手を差し出し、一人ずつ握手をした。薫と握手をした時、力鬼は何かに気づいた。「ん、お前義手か?」
「戦闘の際にぶった切られてしまって」
「そうか!」力鬼は納得した表情を浮かべる。「実はオレも義手なんだ! オレは左腕、あと左目は義眼」そう言うと力鬼は左腕をまくり、義手を見せる。
「大切な人を守るために戦ってこうなった。ただの傷じゃあない、勲章だよ。薫のそれだって、強いヤツと戦ったっていう栄誉であり、勲章だ。カッコイイぜ!」力鬼は力強く薫の肩を叩く。
「おいおいまさか、お前があの薫なのか? オリーブを倒したっていう」猩猩が驚いた顔で薫を見る。「あんなデタラメなやつをよく倒せたな。知ってるか、あそこだけ雲がねぇだろ。あれオリーブがやったって噂だぜ」
猩猩の指さす先、天空の傷。
「あれ、俺たち見てました。化物を倒すときにオリーブがずばっと斬っててやべーなこの人って思いました。衝撃音というか衝撃波というか、もう凄まじくて全てが桁違いです。だから、分かるんです。オリーブを倒したのは俺だけの力じゃないって。……あまりよく覚えてないんですけどね」
「いいんじゃねえか? お前の手柄ってことで。三体の化物討伐を手伝った奴がいたとしてもそいつが名乗りでない以上、手柄はお前に譲ったってことだろ。まぁ手伝った奴が生きてるとは限らねぇけどな」
「おい猩猩!」力鬼が怒鳴るが猩猩は構わず話を続ける。
「だってそうだろ。こいつの他に誰かがいたのはほぼ間違いないって話なのに、大聖堂にその痕跡はなく、誰もそいつのことを見ていない。だったら能力が暴発して蒸発しちまったと考えるのが普通だよな?」
「いい加減にしないとお前を殴るぞ!」
「おいおい殴った後に言わないでくれよ」猩猩は5mほどぶっ飛ばされたがすぐに体勢を立て直す。「俺はまだ死んだと結論づけたわけじゃあねぇ」
薫はハッとした表情で猩猩を見る。猩猩はスーツについたホコリを払い、話を続けた。
「なぁ薫。俺が今言ったことくらい、お前はとっくの昔に考えてるはずだ。そうだろう? そしてその上で、手伝った奴はまだ生きてるって信じてる。じゃなきゃここにいねぇよな」
猩猩は優しい目で薫を見る。「さっさと思い出してやれ。そいつに寂しい思いをさせてやんなよ」
「……はい!」薫の声は震えていた。それは強い覚悟と少しばかりの臆病のためであった。
「猩猩、殴ってごめんよ」
「いつもいつも早とちりして殴ってきやがって」猩猩は目をつぶって腰をさする。「あぁいけねぇ、忘れるとこだった。俺は猩猩ってんだ、よろしくな」
東蓋と薫は力鬼にしたのと同じように簡単な自己紹介をした。
「嬢ちゃんスーツ似合うな」猩猩が東蓋をまじまじと見る。「今度いいスーツ紹介してやるよ」
「あ、どうも」
「やめとけ、猩猩のスーツは高ぇんだ。それよりオレがいい和装の服を着せてやっから」力鬼が東蓋の肩に腕を回し、東蓋の顔を見てニヒヒと笑う。
「おいくそ鬼、東蓋は俺のだぞ」
「いーやオレのだ!」
「豆投げっぞ! ってこんなことしてる場合じゃねえんだった。小岩井さん、失礼します。じゃあな二人とも」
「またね!」
「おめぇも行くんだよ」
猩猩が駄々をこねる力鬼を引っ張りながら、三人に手を振りバベルズの入口の方へ歩いていく。
午前9時。
喫茶店でこっそりモーニングを楽しむ三人。
「いいんでしょうか、こんなところにいて」東蓋は周りをキョロキョロと見回す。
「だいじょぶだって。三督も警護してくれるんだし。それに、お腹空くと力出ないでしょー」社長は熱い珈琲をちまっと飲んで幸せそうな顔をする。
「そうだよ腹が減っては何とやら」薫は小倉トーストにかぶりつく。「社長、美味しいですよこれ!」
「そうでしょ! この店は小倉トースト一択なのよ。ほら東蓋ちゃんも食べな」
「そうだぞ東蓋、たくさん食べないと大きくなれないぞ!」
「あれ、ダンボさんじゃん」「ダンボさん!」薫と東蓋が見上げる先には、2メートルを超える巨大な人物。
「スーツを着たヤバそうな三人組がここにいるって聞いて、まさかと思って来てみたんだけどね」
「あちゃーバレちったかー!」
「俺も小倉トースト食べよっと。小岩井さん隣座るね」ダンボはそう言うと、社長の隣に座りモーニングを注文しはじめた。
「それでよ小岩井さん、今回のデモなんだが、なんかやな予感がしてよ」
「なにか情報を掴んだのかい?」
「あぁ、どうやら頭首を決めるらしい」
「……おいおいまさかファンタシア(phantasia)かい?」
「そのまさかだ」
薫と東蓋は話についていけずぽかんとしている。
「あぁごめんなふたりとも。えぇっと簡単に言うと……」ダンボが腕を組み天井を見つめて考えをまとめる。「複雑な話だから端折って説明するよ。バベルズ建設に賛成もしくは反対する宗教団体がいくつか存在していて、今回のデモでは賛成派・反対派の両方がバベルズに集まる。ここまではふたりとも知っていると思う」
「はい」ふたりは眉間に皺を寄せながらダンボの話を聞く。
「ここからが本題。バベルズ賛成派・反対派に関わらず、バベルズに関係するあらゆる宗教団体はひとつにまとまった方がいいんじゃないか、そういう考えがあるんだ。価値観が異なる団体をまとめあげようなんてよく理解できない話だと思うけど、裏でいろいろとあると思ってくれればいい」
ダンボが注文したモーニングが机に並べられる。ダンボは珈琲を豪快に飲み干し、小倉トーストを一口でペロリと平らげてしまってから話を続けた。「その考えのもと、つくられた組織がファンタシアってわけなんだけど、今まではほとんど形だけのものだと思われていた。なんせ情報が少なすぎてね。目立った活動もなかったし、政府もそこまで危険視していなかったんだ。だけど事情が変わった。神樹が消えたという情報が市民に拡がって、それ以降ファンタシアが秘密裏に動きだした」
「あ、ちょっと待ってください。薫さんがバカそうな顔してます!」
「はーい、バナナはおやつに含まれませーん」バカそうな顔をした薫がバカなことを言いながら手を挙げる。「ファンタシアっていうのは、消えた神樹の代わりにバベルズを象徴とした宗教みたいな感じ?」
「ファンタシアが考え出した新たな存在理由はまさにそこだ。神樹が消え、それに関わる宗教の権威が失墜した今、バベルズを神樹の代わりとして再象徴化することで神樹関連の宗教を吸収。これによりファンタシア自体をさらに強力な組織として作り上げるという狙いがあるわけだ。どうだ難しいだろう」
腕を組んでなにやら考え事をしている東蓋。「何かが引っかかるんですが……とにかく今回のデモは暴動が起こる可能性が高いと考えておいた方がよさそうですね」
社長は参っちゃうなーと言いながら頭をかく。「まぁ良くも悪くも歴史的瞬間に立ち会えるってことは確かだろうね」
薫は窓の外の様子を眺めていた。集まりだした人々の喧騒とその背後で静かに咲く桜がまるでこの世のものではないように思われて、その瞬間自分というものが溶けてなくなってしまったような気がしてこわくなった。薫はポケットからうさぎのぬいぐるみを取り出し、ぬいぐるみの顔についた埃をとって気を紛らせた。
午前10時。ファンタシア主導の緊急集会、開始。
「あれがファンタシアの幹部たちでしょうか」東蓋は周りの様子を監視しつつ、社長に話しかける。
「おそらく今喋っているのが組織のNo.2になる人だろうね。ま、頭首を決めるって言っても、実質的にはあの人たちが組織を動かしていくんだろうけど」
バベルズ敷地内に集まる人々の注目の的となっている3人の人物。先ほど社長が組織のNo.2と推測した人物は、自身をロマン・ノワールと名乗る。
社長はロマン・ノワールの冗長な演説に飽きてしまったようで、あくびをしながら伸びをする。それから東蓋にも聞こえる声の大きさで独り言をつぶやく。
「ロマン・ノワールねぇ。自分は悪者ですよって宣言してるようなもんだね。一体何がしたいんだか」
東蓋は社長をちらと見たが何も言わず、演説するロマン・ノワールをしりめに監視を続けた。
ノワールの演説の内容はファンタシアの存在意義や新頭首に関することだけでなく、昨今の宗教問題、経済情勢、能力者に関する世論など多岐にわたり、20分を越えてもまだ続いていた。
「薫さん遅いですね」東蓋が小声で社長に話す。
「おトイレが混んでるのかな。ちょっと様子みてくるから待っ──あっ来た!」バベルズの門の方から走ってくる薫。社長は手を大きく振り「ここだよー!」と薫を呼ぶ。
「ごめんなさい。遅くなっちゃった」
「それはいいけど……、その火の玉なに?」
薫の顔のそばで浮遊する火の玉。東蓋が火の玉をまじまじと見つめ、「あっ!」と声を上げた。
「社長これ、火の玉っぽいひよこですよ! ひよこのくせに飛んでますが。えっかわいい! 薫さんなんですかこの子!」東蓋のテンションがいつになく高い。
「便所の入口のところに居てさ。なんて言えばいいんだろ……妖精?」
「触った感じ、害はなさそうだね」
「かわいい! えっいいなぁ。もう一匹ぐらいそこら辺に落ちてないですかね?」社長と東蓋はひよこを人差し指でつんつんとつつきまくる。つつかれているあいだ、ひよこの妖精はピーピーとやかましく鳴いていた。
「名前はなんて言うんですか?」
「えぇっと、ファ……いや、がぶちゃん! こいつ人の耳たぶかじってくんの──って痛いやめて!」
「ところで、今のところ異常はないですか」
「うん大丈夫! ちなみに今演説してる人はロマン・ノワールって言うんだけど、もう30分くらいあんな感じ」
「俺ピカレスクの方が好みだなぁ」
「お! おじさんと気が合うね」
「……何の話ですか? ハンバーガーに入ってるアレですか?」
「それはピクルス」
「ヤクルトみたいなやつ?」
「それはピルクル」
「えぇっと他には……ダメです負けました。ってこんなことしてる場合と違います」
監視、再開。
「薫さん、今思い出したんですけど、ピカレスクって小説のジャンルでしたよね」
「そっす。なんだろな、ノワールは『不幸……』って感じで、ピカレスクは『アンハッピー!』って感じ……かな? 間違ってたらごめん」
「なるほど、それなら確かにピカレスクの方がいいですね」
「でしょ! がぶちゃんもそう思うよね、って耳たぶちぎれる!」
40分が経過した時、とめどなく喋り続けていたロマン・ノワールが突如として口をつぐんだ。それは、幹部のひとりが立ち上がってロマン・ノワールのもとへ行き、耳打ちをしたからであった。
群衆は何事かと騒ぎはじめる。警護役のゲキドクらの監視の目が鋭くなり、緊張感が高まる。
ロマン・ノワールは鼻で大きく息を吸って、ふぅと息を吐き出す。ネクタイを締め、姿勢を整えてマイクスタンドに向かって高らかに宣言する。
「皆様大変長らくお待たせいたしました。頭首様が到着なされたようです。我らファンタシアの新しい頭首様! 今日この時から世界の全ては貴方のものです!」
ロマン・ノワールが拍手をする。ファンタシアの二人の幹部も立ち上がって拍手をする。
「頭首は選挙で決めるんじゃなかったのかよ!」「我々と世界を分け合う話はどこへ行った!」「胡散臭い詐欺師どもめ!」「あぁ素晴らしい、新世界の始まりをこの目で見届けられるなんて!」「頭首様、バンザイ!」
人々は罵詈雑言や賛美の言葉などを思い思いに叫ぶが、彼らは皆確信していた──「今ここから世界が変わる」という強迫観念にも近い確信である。
数台の黒塗りの外車がバベルズ敷地内に入ってくる。停車してしばらくすると、中から何人かが降りてきてこちらに歩いてきた。SPに囲まれた人物、それは──
「優香ちゃん!!」東蓋が叫ぶ。
「おいおいなんてこった!」東蓋だけでなく社長も動揺を隠し切れない。
「えっ、もしかして──」
薫が話し終わる前に、火の玉型のひよこが薫にだけ聞こえるように口を挟む。「ほら言ったろ、面白いことが起こるって」
ファンタシアの職員が群衆を追いやって道をつくる。小寺優香は演説台まで続く真っ直ぐな道を何の迷いもなく颯爽と歩く。
「ねぇ優香ちゃん、どういうこと!? ねぇってば!」東蓋は小寺優香に向かって叫ぶが彼女の耳には届かない。彼女のもとに行こうとする東蓋だったが、薫と社長によって制止された。
小寺優香はブロンドヘアをなびかせてカツカツと音を立てながら演説台の階段を上る。ロマン・ノワールは彼女に場所を譲り、ほかの幹部のいるところまで下がる。
小寺優香が演説台の前に立つ。しばらくの沈黙。そして──
「ファンタシア開演!」彼女が高らかに宣言する。
火の玉のひよこが薫にも聞こえるようにつぶやく。
「まさか俺の目をかいくぐって社会にとけ込んでいるとはなぁ」
小寺優香の顔立ちには、かすかに閾巫女の面影が感じられた。
──第8話「ゲキヤバでドクドク」終