【第5部:私だけがいない世界】第32話「地球脳髄」
書籍姫はビルの屋上に立ち空を見上げる。「あれは常時顕現型の華脳天蓋蓮々之髄。そうか、〈地球脳髄〉を完成させたか。やるな、かおるちゃん」
書籍姫は憂いていた。オール・オーダーらは本当にドグラ・マグラを諦めたのか。ドグラ・マグラの代わりとなる情報集積システムとしてのコーパスを完成させたとしても、ドグラ・マグラそれ自体がこちら側の手に渡ったままでは、コーパスは切り札になりえない。もしくは、コーパスとドグラ・マグラとの間に拮抗状態を生じさせ、こちら側の切り札を無効化することが目的なのか。いや、そんな消極的な方法をあの者たちがすると思えない。コーパスを〈情報の方舟〉として利用するならば、そして、〈方舟の情報〉を書き換えることが彼らの目指す世界創造であるならば、彼らはコーパスそれ自体ではなくその概念を欲する。それは抜け殻と言うべきか、あるいは本質と言うべきか、どちらにせよそこにコーパスの“声”は無く、あるのはコーパスの“名声”だけである。
コーパスはデータベースである。つまり、情報は既にそこにある。未分化の情報が体系的に纏められた時点でそれは変容している。と言うより、そもそも情報とは誰かの手により纏められたもの、手垢がついたものであり、とある出来事を情報として認識するための観測や直感(あるいは直観)でさえ何者かの手によって歪められている。ではその歪めた者は誰なのかといえば、途中をかなり端折れば、最終的には神、すなわち神を創り出した人間たちである。要するに、コーパスを創り出したのは人間であり、かつ人間に先立つものである、そして人間たちの肉腫と亡霊をかき集めた人間的なものをコーパスと呼ぶのである。コーパスは総人間であり、擬似人間であり、神が創り出した最後の人間であると同時に人間が創り出した最後の神である。
ドグラ・マグラを殺せるのはそれしかいない。とすれば、そうかなるほど、そういう事か。事態は至極単純である。ドグラ・マグラが自らの思いどおりにならなければ、ドグラ・マグラを殺すしかない。ドグラ・マグラはまだ誕生しておらず、かおるちゃんの体内に閉じ込めてある。とすれば彼らはその宿主を探し、そこにコーパスを送り込んで殺すだろう。
書籍姫は左目のモノクルを拭いてかけ直す。彼女は右目を閉じ、左目で街を、過去を、駆ける未来の足跡を眺める。
「脳髄は物を考える処に非ず、と言うが、その脳髄は全てを識っているのだ。考える必要もあるまい」
書籍姫はニヒッと笑った。
「舞台は整えられ、“彼ら”は降り立つ。真実は至極単純なのである。あの花の目的、それに気づけば、世界はぐるりとひっくり返る。頼んだぞ、かおるちゃん」
書籍姫は消えた。
東蓋は事務所のソファに座り考え込む。
ガチャリ。事務所の扉が開く。
「とっちー!」優香が満面の笑みを浮かべながら東蓋を呼ぶ。
「やっほー」
「あれ、社長は?」
「わかんない。連絡が取れないんだよね」
「え、それって大丈夫なの?」
「うーん、まぁ大丈夫なんじゃない?」
優香はデスクにカバンを置き、給湯室に向かう。やかんに水を入れ、ガスの火をつける。棚からコップをふたつ取り出し、冷蔵庫からインスタントコーヒーを取り出す。「とっちーコーヒーいる?」
「あ、お願い」
「おけー!」
ふたつのコップにインスタントコーヒーを入れる。東蓋の分は多めに、優香自身の分は少なめに。自分用にミルクと砂糖も用意する。
優香が「私からも社長に連絡してみた方がいいかな?」と聞く。
「うん、してみて」
「わかった!」
優香は電話をするが繋がらない。ショートメールを送ってみる。「コーヒーが少なくなってきたので、いつものやつ買ってきてくださいっと! ……ダメだ、とっちー。いつもなら爆速で既読つくのに全然つかない」
「だよねぇ」
お湯が沸く。ガスの火を止めて東蓋と自分のコップにお湯を注ぐ。事務所にコーヒーの香りが広がる。優香は東蓋の分と自分の分のコーヒーを机に置き、東蓋と対面して座る。
「極秘の任務とかかな?」
「どうだろうね」
「今までもこういうことあったの?」
「いや、今回が初めてかも」
「そっか……なんか心配だね」
「心配するだけ無駄だし、心配したら私たちの負けだから」
「社長かわいそすぎ」
すると突然、事務所のドアが勢いよく開かれ、誰かが事務所内に突っ込んできた。
「うわっびっくりした」とあまりびっくりしてなさそうな反応の東蓋。
「しゃ、社長!!」と叫ぶ優香。
社長は勢いのあまりバランスをくずして床に転がっていた。「おひさのひさじろう! 東蓋ちゃんに優香ちゃん!」
「きしょ」
「心配したんですよ! でも、元気そうで何よりです!」
「いやぁ、ちょっちズレちゃってね。でもなんとか合わせてきたよ」
「何の話ですか」と東蓋。
「おじさんがいなくて寂しかったでしょって話」
「いや全く」
「そんなぁ」
優香が聞く。「コーヒー買ってきてくれました?」
「コーヒー?」
「ショートメール送ったじゃないですかぁ」
「ほんとだ全然気づかなかった」
東蓋がコーヒーを飲み干しどっこいしょと立ち上がる。「私買ってきます」
優香も勢いよく立ち上がる。「あ! じゃあ私もついてく!」
「いってら〜」社長はふたりを見送る。
「……いやはや、面倒なことにならなきゃいいけど」
誰かが扉をノックする。
「誰だろ、どうぞお入り」
扉を開けて入ってきたのは猩猩である。「あ、いた。小岩井さんお久しぶりです」
「あぁ猩猩ちゃんか」
「小岩井さん、ちょっといいすか?」
「どした?」
「空に咲いてる花のことなんすけどね」猩猩は扉の方を向く。「入っておいで、銀ちゃん」
扉を開けてちらりと室内を見、入ってきたのは猩猩が作りだした文学的球体関節人形、代在No.6の火樹銀花である。
火樹銀花の幼い顔立ちと翡翠のような瞳、絹糸のように透き通る金色の髪は本物の人間のようである。
「はじめまして。火樹銀花と申します」
「自己紹介できて偉いね! はじめまして。おじさんは小岩井と言います」
「よろしくお願いします」
「よろしくね、銀ちゃん。ささ、座って」
猩猩と銀花がソファに座る。
「それでですね、小岩井さん。銀ちゃんがあの花について調べてくれたんです」
「そうか、銀ちゃんはそんなこともできるのか。それで何かわかったかい?」
「えぇ、あれはおそらく脳です」
「脳?」
銀花が答える。「そうです。正確に申し上げれば脳の機能を有するもの、脳の代替物ですが、大雑把に見れば脳と言って問題ないと思われます。なぜそれが分かるかと言えば、あの花が閾を作り出しているからです。閾は中枢が作り出すものですが、あの花の閾は人間の脳が作り出すそれと性質的にはほぼ同じです。では、誰の脳なのか。それは、世界です」
「世界?! それはまた大層なものだね」
「地球を頭蓋と見立てた時に脳髄にあたる部分があの上空の花になります」
「なるほど」
「ですがふたつ問題が。ひとつは、あれがどういう花なのかということです。あれが毒の花である場合、その機能は忘却に向かいます。つまり、あの花がその能力を発動した時、我々は皆、自らが有する記憶の全てを失います。もし仮にそれが狙いならば、我々はあの花を早急かつ適切に破壊しなければなりません。ですが私の見た目ではおそらくあれは毒の花ではなく、記憶を保持するための媒体ですので、その点は大丈夫だろうと思います。もうひとつの問題は、あの花の周りを飛び回り詮索する何者かがいるということです。その者たちがもしあの花を破壊したり引き裂いたりした場合……」
「引き裂いた場合?」
「引き裂いたとしたら何が起こるのか、それが分からないのです」
一方その頃、東蓋と優香はインスタントコーヒーを買うために近くのスーパーまで歩いていた。
「さっき猩猩さんと何話してたの?」
「ん? あぁ薫さんのこと。猩猩さんは私たちの味方だよねっていう確認」
優香は大きく頷く。「そうだよね。私たちで見つけないと」
東蓋は空を見上げる。「あの花、薫さんの能力だって言われてるけど、そうだとしたらあれだよね」
「あれ?」
「薫さんのことをよく思わない人たちはあれを壊そうとするだろうね」
「……ねぇ、とっちー」
「どした?」
「右の花びらのところ、なんかいない? 人みたいなのが飛んでる気がする」
「えぇっと、ほんとだ。よくわかったね。私でも能力で探知するのが精一杯なのに」
優香はそれを凝視する。「……えっ、あれって……」
「ん?」
刹那、東蓋の姿が消えた。
事務所では、上空の花の下に建てられているバベルズについて銀花が話している。
「あの花の下にバベルズがあると思うのですが、あの辺りの空間は重ね合わされているような気がします。あの付近は境界がないのです。あの場所から様々な世界を行き来することができるとすれば、あの場所は代理者にとっては邪魔でしかない。何故かといえば、代理者は他者=境界ありきの存在だからです」
「バベルズがああなってからしばらく代理者の動きが止まっていたことがあったね」
「他者なき世界の創造を目指す代理者ですが、今の段階ではまだ他者がなければ彼らは存在することができない。その他者とは何か、彼らにとっての他者とはオリジナル、言うなればイデア。そう、あのバベルズはイデアに繋がっていると言っても良いのではないかと思います。イデアありきの代理者であるため、イデアとの境界が曖昧になったあの場所は、彼らの境界もイデアに吸収されるような形で溶けてなくなってしまいます。ですので私の推測では、バベルズは代理者を抑制するための装置なのかもしれません」
「なるほど、彼らは彼ら自身をイデアにしたいが、バベルズが、すなわち剥き出しのイデアがそれを邪魔するわけだ」
「バベルズがイデアに通じる門であるとするならば、ではあの花は何なのか……」火樹銀花は考え込む。
社長が猩猩に話す。「この子すごい頭いいね。おじさんが銀ちゃんと同じ歳の時、何してただろ? ……『原液うん子マンズ』読んでた気がするな」
「あ、それ知ってますよ。読んだことはないですが。主人公のおるかくんとにしびちゃんが幻の薬草を見つけるために色んな所を旅するギャグ漫画ですよね」
「それは『ゲキヤク』だね」
「あれそうでしたっけ」
「うん子マンズは伝説のウコンを探す旅をしているヒロスエとリョウが主人公のやつ。ヒロスエが実はピスエだったり、リョウがリョウコになったりして、男だと思っていた主人公が二人とも女性になっちゃうおそろしいお話だよ。うん子の“子”ってそういうこと?!って当時は衝撃的だったな」
「性別が変わったってことですか?」
「ヒロスエはもともと女性だったみたい。リョウは魔法か能力で女性に変えられたんだと思う」
「へぇ、面白そうな漫画ですね」
「まあゲキヤクと原液うん子マンズは話の構成や展開が似てるから、盗作説、同じ人が話を考えてる説とか色々言われていたのは事実なんだ」
「へぇそんなことがあったんですね。ちなみに盗作だったとした場合、どっちがオリジナルなんですか?」
「先に出たのは原液うん子マンズの方だった気がするけど、実際のところどうなんだろうね。アイデアや構想自体はゲキヤクの方が先とも言われているし」
「なるほど」
銀花が「あっ……」と声を漏らす。「そうか、そういうことですか……。“既成事実”なのですね、全て」
「あれ、とっちー。どこ行ったの〜」
優香はキョロキョロと周りを見るが、東蓋の姿はない。
すると、上空からものすごい勢いで何者かが優香の現前に着地した。優香は衝撃で飛ばされそうになる。よろけながらもその者を見ると、それは人型の化物であった。
化物名、イブ・キャロル。王族毒物である。
「胎児の夢を見た者よ。お前の中にドグラ・マグラはあるか?」
「えっ、何? 誰?」
「腹を裂いて取り出すのみ」
「ちょ、やめて。近づかないで……! しっしっ」
「むかっ」
イブ・キャロルは瞬時に優香に近づき、手に持つ刀を腹に突き立てる。
優香は確信した。寒気と絶望。頭によぎるのは死ぬという確信だけで、走馬灯すらない。これが弱い者の運命なのだと受け入れることしかできなかった。
──第32話「地球脳髄」終




