【第4部:頭蓋と天蓋のバラッド】第26話「全能的=編集的異世界論序説」
異世界について。
──第26話「全能的=編集的異世界論序説」
頭蓋の代理とは神樹のことである。我々の議論はこの仮説からはじまる。
我々は『=モナド』の解釈を変更し、「全知頭蓋仮説」の(全知ではあるが)無能な頭蓋に対して、「全能の頭蓋」を提示する。
そもそも『=モナド』は「我々が神になる条件」や「神の存在」について、いわば神の問題について論じたものであった。頭蓋=世界の等式から神の不在を論証する手腕は見事なものである。しかしながら、我々は世界を変更することができるのかという問いに対し、『=モナド』は何も答えていない。全能の存在を示唆してはいるものの、我々が実際に世界を変更できるのかについての議論はなされていないのである。
また『全知頭蓋仮説』も同様に、全能の性質(全能は胴体を失う)については論じているが、全能それ自体についての議論は放棄されている。神について(特に神の不在について)語るのであれば、全知だけでなく全能についても語らなければフェアではない。
ウォーカー=浅葱は「頭蓋の視点」を見落としている。
ウォーカー=浅葱の言う「頭蓋=世界」を言い換えると、頭蓋の中の世界=頭蓋の外の世界という意味になる。世界の二重性。頭蓋=世界の等式においては、「頭蓋の中の世界」が見落とされている。なぜか。頭蓋=世界の等式が、頭蓋を客観的に見た際の世界との関わりを記述したものだからである。
頭蓋の視点から見れば、世界=世界(トートロジーの関係)。頭蓋の視点とは神の視点のことである。全能の「錯覚」は神の視点の獲得による誤解だとされているが、これは錯覚ではない(詳細は後述にて)。
①頭蓋は頭蓋の内側と外側のふたつの世界を接続する。すなわち等号の役割。等号とは分離であり、トートロジーとはモナドの保持である。この点はウォーカー=浅葱の言及通りである。
問題は次である。
②頭蓋はふたつの世界を統合“しない”。ふたつの世界は頭蓋を消失“させない”。ただし、「頭蓋は常に消えている」。ウォーカー=浅葱が頭蓋の視点に気づけなかったように、世界=世界という「変化なき世界、静かなる世界」に晒された頭蓋は自らを無意識に追いやる──追いやるというよりむしろ、元いた場所に戻るという解釈の方が近い。
ここで、頭蓋の「剥離」について考える。
ウォーカー=浅葱の「頭蓋」は世界に溶け込み、世界そのものとなる。すなわち主体もろとも喪失するため、世界から“頭蓋という要素”を引き剥がすことができない。そもそも頭蓋=世界の等式においては、主体について扱わないのだから、引き剥がすための視点がなく、溶け込んだ頭蓋は二度と元に戻ることがない。仮に全知が頭蓋を消失した場合に頭蓋を取り戻す手立てがない。
しかしながら、我々は頭蓋を神の視点として捉える。ここで頭蓋の剥離とは、神の視点を取り戻すことを意味する。
「頭蓋の他に世界があるとすれば、頭蓋は世界の外部である」
頭蓋が意識されるということ、すなわち等号の失効である。胃の痛みや違和感で胃の存在を知覚するように、内世界と外世界の等号の失効=違和感により、頭蓋=神の視点は我々のもとに立ち返る。ただし神の視点は「世界=世界」の等号成立(或いは再成立)により「完成」する。そのため世界のズレは修正されなければならない。
ここまでの議論をまとめると、内世界と外世界がズレるとき、頭蓋が現れる。ズレの修正、『=モナド』においては百科全書の書き換えと表現をすることができる。書き換え、すなわち「編集」、これが鍵概念となる。
全能とは何か。
我々は世界を変えたいという欲望を持っている。そのための金、そのための力、そのための思想、そのためのSNS、そのための物語、そのための全能である。
世界を変える=編集。
外世界の編集=外的全能。内世界の編集=内的全能。
全能はもともと外的なものではなく、内的なものである。全能とは発露である。全能の“外化”。
内世界と外世界のズレにより、頭蓋が世界から剥離する。だがこれで終わりではなく、神の視点を取り戻すためにはズレを修復しなければならない。そのために要請される全能。
また、内世界と外世界をズラすためにも全能が要請される。
頭蓋を消失した全知が頭蓋=神の視点を取り戻すプランはこうだ。
まず外的全能により世界を変える。認知のズレにより、頭蓋が剥離され、全知のもとに頭蓋が戻ってくる。次に内的全能により認知のズレを修復する。この方法により全知は神の視点を取り戻す。これの“繰り返し”。
我々は全知である限り、全能である。ただし両者は同時に存在しない。全知であるとき、全能にはならず、全能であるとき、全知にはならない。意識の玉座はひとつしかないのだから当然である。
全知が頭蓋を消失した場合、全能は全知に先立つ。問うべきは全能のトリガーである。頭蓋を消失した際、意識は機能しないのだから無意識において全能が発動されなければならない。全知において、外的全能とは無意識のことである、或いは無意識の発現、外化である。
さて無意識下で世界を変えるためにはどうすればよいか。
ここで我々は次のことを考えなければならない。全知が無意識に移行するとき、では何が意識の玉座にいるのか。それは、全能である。全知は全能が意識の玉座にいることを知らないし、それが記憶にとどまることもない。我々が全知であるということですら、全知が識閾上に現れた時に事後的に思い出すのである。また全能は全知を知らず、自らが全知を無意識から叩き起こすきっかけを作っているとは気づきもしない。
記憶とは傷である。ただし全知も全能も脳に傷をつけない。なぜなら両者ともに傷をつけられる側のものだからである。
全知と全能は頭蓋を介して等号で接続されるが、全知と全能が直接的に接続されることはない。つまり我々は全知全能になることはない。かくて次のように言うことができる。我々が全知であるとき、我々は無能であり、我々が全能であるとき、我々は無知なのである。
ではここで、全能はどのようにして世界を変えるのか考えていきたい。
頭蓋の内の世界は内的全能により編集される。内的全能はズレを修復する。
ここまでは良い。
頭蓋の外の世界は外的全能により編集される。何の工夫もなしに世界を変えられるのであれば、それは神である。だが我々は神ではない。ならばどうするかと言えば、異世界をつくるのである。外的全能は異世界を要請する。どういうことか。
異世界とは「世界を編集するために用意された世界」である。世界の見かけとしての異世界を創り出し、異世界において世界を編集する。ただし、異世界それ自体の見かけを現実の世界と同じようにするか、それとも全く異なるものにするか、それにより外的全能の振る舞いも変わる。見かけが全く違う世界を創り出すのであれば、それこそが世界の(見方の)変更である。見かけが同じような世界を創り出せば、世界の編集が世界の変更となる。
どちらにせよ、編集された世界=異世界が全知を呼び起こすのである。
「ちと強引かな。まあでも序説だし、こんなもんか」書籍姫中佐がペンを置く。
「何を書かれているんですか」ベーレン中尉が中佐に聞く。
「批評だ。試しにやってみようかとメモしてみたんだ」
「批評、ですか」
「『全知頭蓋仮説』の批評だ」
「へぇ、どこかに載せるんですか?」
「まさか、趣味だよ」
「仕事中に趣味を楽しまないでください」
「てへっ」
「……それで、内容としてはどうなんですか?」
「それなんだが、中尉、世界を変えるためにはどうすれば良いと思う?」
「えっ、世界を変える? あぁそういえば『全知頭蓋仮説』で言ってましたね。『=モナド』の主人公が世界を変えるだのなんだのって。そうですね、全くわかりません」
「……ちょっとは考えておくれよ、かなしいじゃないか」
「そんなしょんぼりされるとこっちが悪いみたいじゃないですか……。今考えます。ええっと、世界を食べる、とか?」
「食べる? 世界を?」
「シュレディンガーの『生命とは何か』に、生物はエントロピーの増大を防ぐために負のエントロピーを食べると書かれていた気がします。それって世界の法則に拒絶しているわけじゃないですか。毒を以て毒を制すじゃないですけど、世界を制するためには世界を、エントロピーの増大を食べればいいんじゃないかなと思いまして。まぁ、適当です。忘れてください」
「いいね、採用」
「えぇそんなぁ」
「アイデアの盗用はよろしくないな。よし、共著ってことにしよう。どう?」
「嫌です、ひとりでやってください」
「しょんぼり」
──第26話「全能的=編集的異世界論序説」終




