【第4部:頭蓋と天蓋のバラッド】第25話「全知頭蓋仮説」
神になる方法と、神の不在証明を、「頭蓋」によって試みる。
──第25話「全知頭蓋仮説」
「中佐殿は先ほどから何をお読みになっているのですか?」
「あぁ、これか。『全知頭蓋仮説』だ」
「『全知頭蓋仮説』、初めて聞きました」
「『=モナド』や『劇物化』は聞いたことがあるかもしれない。それら幾つかの小説や哲学についての書評というか哲学のようなものだ。哲学といってもいくつかの章に分かれていて、なおかつ平易な言葉で書かれているから読みやすい」
「へぇ、どんなことが書かれているんですか?」
「取り上げる題材によって内容は変わるんだが、題名となっている全知頭蓋仮説について簡潔に言うと、〈この世の全てを知り尽くした頭蓋は世界そのものなのではないか〉という仮説について論じている。そうだな、もうすぐ読み終わるからベーレン中尉も読んでみるか?」
「そもそも『=モナド』や『劇物化』を読んだことがなくて……」
「あぁそれなら大丈夫だ。私も読んだことはない」
「えっ、読まなくてもわかるんですか?」
「もちろん読んでいた方が理解は深まるだろうが、案外いける」
「でしたら読んでみたいです。ちなみに作者は誰なんですか?」
「浅葱光風、新進気鋭の評論家だ。年齢は私たちよりも少しだけ上だったはず」
「あぁ、あの女性評論家の。テレビのニュースで見たことあります」
「これからは男性とか女性とか関係なくなってくるからな。私たちも頑張らなくては」
「ほんとそうですね」
(※追記:浅葱光風、後の公共ゲキドク第一課No.1の光風霽月である)
〈第一章:全知頭蓋仮説─『=モナド』論─〉
私の好きな人がこの本を読んでいた。そういうきっかけで読み進めた本は大抵面白くない。だが、この本は違った。
学生時代、私は美術部にいた。運動するのはいやだからというそれだけの理由であり、絵は下手だった。そのため私は美術部でありながら基本的に絵は描かず、本を読むか友達とだべってばかりいた(私が通っていた高校に文学部があればそちらに入部していただろう)。そういう不真面目さだけは今も健在で、ヴァレリーの芸術論もドゥルーズのベーコン論も、表向きは「我が手中にあり」と腕組みしながら自慢げに言ってはいるが、実のところはふーんそうなんだ程度にしか理解できていない。
当時好きだった人というのはその美術部にいた一つ上の先輩であり、私はその人とほとんど話をしたことがない。ちなみに女性である。彼女は真面目に絵を描いていたのだから、彼女にとって私は厄介者か、門外漢でしかなかっただろうし、私もその人のことはほとんど何も知らない。だからここでいう「好き」というのも、雰囲気(と顔)が好きということでしかないのだが、何故か私は学生時代を思い出す時、彼女の顔が最初に思い浮かぶのである。夕日が差し込む図書館で『=モナド』を読み耽る彼女の横顔は、どんな絵画よりも美しいと思った。
その人が引越しをして、その後図書館にぽつりと残されたこの本を私は手に取った。難しそうな本だと思った。実際、難しい。私は当時、どれだけ理解できていたのか。おそらく何もわかっちゃいなかったはずだが、あろうことかこの本で読書感想文を書いた。モナドと、主人公にとってのモナド、そして私にとってのモナドについて書き、それをイコールで繋げるという構成だったと思う。当然、この本を手に取ったきっかけは書かず、彼女のことは伏せた。先生からは「構成は悪くないが若々しさが足りない」と言われた記憶がある。そりゃそうだ、一番大事な部分をすっぽり抜いて書いているんだから、と当時は心の中で反抗していた。
だが先生は薄々気づいていたのではないか。学生が、図書館に置いてあるとはいえ、何らかのきっかけがなければ“こんな本”(申し訳ございません)を手に取るはずがない。先生はそこを知りたかった、というよりは、「本を手に取ったきっかけ」を書かずとも、その視点からこの本について語ってほしかったのではないか。私はあの時、物語の終わりからではなく物語のはじまりのその前から、すなわちモナドの外側から「モナドにとっての私」について書かなければならなかったのである。
今回は学生時代にできなかった若々しい『=モナド』論を展開していきたい。そのためにまずはこの本を手に取ったきっかけを書いてみた。次は何を書こうか。実は既に行き詰まっている(もう若くないのだよ)とこっそり書いておくことにして、とりあえず作者についてちょっと書いておこうと思う。
小説家であり哲学者のバールド・ウォーカーは生涯独身であった。『=モナド』の主人公も、結婚して子どももいたが、すぐに死別しており、人生の大半をひとりですごしている。彼が書いた『トート・ラック』も『さよならの時計』も孤独な主人公の話だ。ウォーカーは孤独に寄り添うのが上手かった。
そんな彼が学生時代にライプニッツの書籍を読み漁っていたことは有名で、特に『モナドロジー』に魅了されたということはわざわざ私が語らずとも『=モナド』の題名からすぐに察することができる。ウォーカーは「モナドに包まれていることはどんな幸福にもかえがたいものだ」と語ったことがある。彼は孤独を好んだ。だが、ただ孤独を好んだわけではなく、「モナドに窓をつける試みが必要となる」と語るように、モナドの開放を主張した。とはいえそこはウォーカーらしいのだが、「その窓はカーテンで閉ざされているべきだ」と付け加えた。
ウォーカーの作品には「頭蓋」という概念が出てくる。『=モナド』には顕著で、頭脳ではなくあえて頭蓋という言葉を使用している。頭蓋とは何かというと、やはりモナドなのであろう。それも、ウォーカーが言うところの「窓がある(カーテン付き)モナド」なのだろうと思われる。
その「窓ありカーテン付きモナド」はとある議論のさなかにウォーカーが編み出した概念である。それは『劇物化』の作者として知られる哲学者ワイルズ・ワーグナーとの議論であり、その内容は『神と劇物の閾』にまとめられている。『劇物化』については別の機会に取り上げるとして、『神と劇物の閾』について軽く触れておく。
人間は神にはなれないし、劇物(化物)にもなれない。また、なるべきではない。だがそれは“基本的にはYes”なのであって、条件を満たせば人間は神にも劇物にもなりうるのではないか。その条件とは、端的に言えば「人間としてのライン(=閾値)」をこえることである。ちなみにこの議論の後、ワーグナーは『劇物化』で人間が劇物になった世界を、ウォーカーは『=モナド』で人間が神になろうとした世界を描いた。
この辺り、シュレディンガーの生命観が大きく影響していると思われ、エントロピーの話なども出てくる。神がはじめにあるとすれば、そこから少しエントロピーが増大すれば人間になり、人間より少しエントロピーが増大すればそれは劇物(化物)となるだろうといった具合だ。
また人間に一定以上のエネルギーを加えて「人間の閾値」をこえさせれば神や劇物をつくり出すことができるのではないかと議論されているが、では果たしてそのエネルギーとは何か、そこについては明言されていない。
ウォーカーはこの議論の終盤、「人間の、人間として生きる倫理」を説いた。人間が神や劇物にならぬよう(また強制的に神や劇物にさせられぬよう)、人間を保持するための方法、それが頭蓋である。ウォーカーは「頭蓋を頭蓋として保持する限り、我々は人間でいられる」と主張した。
ウォーカーはまたこんなことも言っている。「頭蓋の他に世界があるとすれば、頭蓋は世界の外部である」。これはどういうことかと言うと、頭蓋と世界を等号で繋いだとき、人間は神になりうるということである(逆に言えば、頭蓋と世界がイコールの関係にならない限り、つまり頭蓋が世界の外部として存在できている限りは、人間は人間でいられるということである)。ここら辺の詳細は後述するとして、頭蓋と世界がイコールになるというのはどういう状況なのかというと、ウォーカーによれば、世界の全てを知った時にそれが起こる。ウォーカーは、人間を神に変貌させるためのエネルギーは「文字」や「情報」に内包されているだろうと見ていた。そのことは『=モナド』の時には書かれていなかったが、晩年に書かれた『さよならの時計』には示唆されている。主人公のモリスに対して象牙の塔に住む老人が発したセリフである。「人は学べば学ぶほど、神に近づくどころかさらに遠ざかっていきます。ですがそれこそ神に近づいていることを示す証左なのです」。
前置きが長くなってしまったが、『=モナド』について見ていきたい。この小説、人間が神になれない理由の説明と神の不在証明をいっぺんにやってしまった恐ろしい作品なのである。
有名な言葉がある。主人公の発した言葉だ。神宣言と呼ばれることもある。「私は〈世界の変更〉に生涯を捧げた。そうして出来上がった〈変更された世界〉は私そのものとなったのである」。彼はまだ20歳そこそこの人物であり、彼はその後80歳過ぎまで生きることになる。ここで「生涯」という言葉を発したのは、彼なりの覚悟と強い意志によるものか、はたまた太宰治が初の著作集を『晩年』という題名で刊行したのと同じ理由なのか、そこは分からない。どちらにせよ、彼は死ぬ予定だった。
だが〈変更された世界〉は彼の思い通りには動かない。もどかしさ、苛立ち、疑問。ここで気づく。「私は世界を変えていたつもりであったが、実のところ私自身を変えていたのである」と。世界を変えていたのではなく世界の見方を変えていたということだ。神になり損ねたのだから自暴自棄になりそうなものだが、そうはならなかった。この気づきが彼の強みだろう。この強みは後になって彼を助けることになる。
兎に角彼は気づいてしまった。世界は何も変わっていなかった、いや、変わることそれ自体が“世界”なのである。世界という仕組みは固定されておらず、常に再構築されている。「私は勘違いをしていた。取り返しのつかないことをしてしまった」と嘆く。ここまでは私たちにも理解できる。世界が変わるのなんて当たり前だろうと。お前はそんなことも知らず生きてきたのかと言いたくなる気持ちにもなるだろう。だがここで終わらない。
彼は問うた。なぜ世界は変わるのか。それは世界というものが細分化できるからだ。ここで重要なのはただ分裂するのではなく、細分化されたとしても糸で繋がっているということだ。そういう糸が複数の世界を切っても切れない関係に仕立て上げている。小さい世界が複雑に絡まりあって大きな世界を奏でていると言っていい。ここら辺はホワイトヘッドを彷彿とさせる。
世界が予測不可能な方向に進むのは様々な世界を繋ぐ糸のもつれ、不協和音、または不十分な観測ゆえの予測ミス、或いは予測不可能な方向に進むことそれこそが正常なのだと言うことだってできる。これもわかる。だが問題はここからだ。ここでひとつの仮説が登場するのだがこれが痛快なのだ。「〈世界の「みかけ」〉としての私こそ真の世界なのではないか」。どういうことか。
彼は〈世界の変更〉にその身を捧げたことにより世界の隅々まで見えるようになった。「私自身を変えていた」というのはそういうことである。「〈変更された世界〉は私そのものとなった」という錯覚は彼に全能感をもたらしたが実際のところは世界を俯瞰することができるようになっただけで、世界を変えることはできなかった。
彼は世界を繋ぐ糸の「繋がり方」や「もつれ」を見ることができるようになった。彼にとって不十分な観測は論外だ。だがそのもつれた糸を解くことができない。彼の躓きはそこにあったのだ。世界を見る眼はあるが世界を変える手を持ち合わせていなかった。世界を変えようと血眼になって奔走していた彼にとってその事実は皮肉である。
だがもはや彼にとって“そんなこと”はどうでも良い。彼は変わった。先ほどの「私は世界を変えていたつもりであったが、実のところ私自身を変えていたのである」という気づき、その強みがここで彼を支える。
何もかも知っているが何もできない。それは彼を肯定した。彼は「何も出来ぬまま壊れていく世界」ではなく、「世界が壊れても何度でも立ち上がる人々」、「助け合いながら壊れた世界を修復する人々」を見た。これこそが神の視点であろうと彼は思った。
ここでまたあのセリフが舞い戻ってくる。「変更された世界は私そのものである」と。今度は「全能」の立場からではなく、いわば「全知」の立場から確信を持って言い切る。この確信は言ってしまえば、私が居なくても世界は回るという悲観的な見方にも繋がるだろうが、彼の場合は違った。カーテンを閉めた窓の向こう、流れる箒星が夜空を煌びやかに駆け抜けていくように、全てを知った彼だからこそ、自分の知らないところで映し出される「世界の美しさ」に微笑むことができる。
かくて彼は全知となった。全てを知り、世界を変更する術だけを知らず、だからこそ、彼の瞳に映る世界の向こう側、移りゆく世界の美しさを誰かに託す決断をした。彼のことを〈頭蓋の神〉や〈神の頭蓋〉と言う者もいるが、彼は神ではなく世界である。ある人が言う。「彼がもし神になるとすれば、その時は彼を補完する者が現れた時である」。彼はこう反駁する。「私が神になるとすれば、それは私が死んだ時である」。頭蓋は世界であり、彼の死は世界の滅亡を意味する。すなわち、世界の滅亡に際して彼は世界の終焉を告げる神になる。
全知になったこの後、彼が何をしたかと言えば、特別目立ったことはしていない。妻と子どもができたかと思えば次のページであっけなく死んでいたりする。彼の若い頃の描写はびっくりするくらい少ないのである。適度に働き、老後は家政婦を雇って森と池が近くにあるのどかな土地に家を建て、そこで彼は余生を謳歌した。彼は徹底して人間として生きたのである。
ただひとつ、彼が若い頃から息絶えるまで、いわば生涯にわたってしていたことがある──ここでの生涯は「静かなる生涯」であって、はじめに書いたような燃え盛るような熱意こそないものの、そこに惰性はなく、大いなる目的すなわち人生があった。人生をかけて行っていたこと、それは『百科全書』の執筆であった。ただ、彼の『百科全書』は知識の体系化を目的としていない。では何の目的があったのか。この点は作中で明言されていないため推測するしかないのだが、おそらくは次のような目的があったのだろうと思われる。
それは「世界の延命」である。頭蓋が世界であり、彼の死により世界が滅亡するのであれば、彼の責務は来るべき自身の死に備えて彼の頭蓋を別に用意することであった。文字が「外部の脳」であり、『百科全書』が「外部の頭蓋」である。書籍を頭蓋の代替装置(頭蓋=書籍)として機能させることで、換言すれば、頭蓋=世界の等式をずらし、書籍=世界に置き換えることで、彼の死による世界の滅亡を無効化する目論見があった。
彼はその執筆中に息絶えたとされ、未完の『百科全書』はその後しばらくしてとある大学に寄贈されたとされているが、現在その行方は分からない。ただ、『百科全書』の序論とされている文章は見つかっており、その内容がこの作品の「あとがき」の部分に書かれている。このあとがきのとある一文、これがこの作品の絶巓であり、この一文によって、彼は(世界を変更する術を持っていないにも関わらず)世界をひっくり返してしまった。何故彼は神になれなかったのか、何故神はいないのか。若き日の彼自身の問いに答えたものである。
それは、「神は全知全能にして、同じく無知無能である」というものだ。どういうことかと言うと、今まで頭蓋と世界を等号で繋ぎ、また細分化させていたわけだが、両者がまるっきり同じものになった場合にはその等号すら不要になる。彼は「等号は統合に置き換わり、等号で結ばれていた両者は曖昧になる」と語るが、要は、頭蓋が世界そのものであるならば、もはや頭蓋は頭蓋の形で留まる必要はなく、世界に溶け込んで一体となってしまえば良い。そうなると全知の頭蓋は消え、胴体だけが残ることになる。その胴体は頭蓋を失い物を考えることができないのだから、全知はやがて無知となる。
それと同様に全能は胴体を失う。この辺りは作中での明言がないため補足(または推測)となるのだが、全能の場合は胴体=世界であり、その等号が不要になれば、全能は頭蓋を残してその胴体は世界に溶け込むことになる。そうなれば世界に干渉する術を失してしまうことになり、全能は無能に成り代わるのである。
先ほどの言葉を確認しておくと、神は全知全能であり、それ故に頭蓋、胴体ともに世界に溶け込むため、無知無能であるということになる。世界に溶け込むということは、神がこの世界に実在していないということになる。
だがここで見落としてはいけないことがある。最後にそのことについて軽く話しておきたい。注目すべきは「神は全知全能にして、同じく無知無能である」の“同じく”の部分である。ここで神は全知全能=無知無能であり、等号は維持されている。等号維持、或いはモナドの保持と言い換えても良いが、それこそが人間が神になれない理由、神が神であるための「神の最期の御業」なのである。ではその等号が統合に変わったとき何が起こるか。「神になり損ねた者、すなわち中途半端な者とは、人間のことである」。この人間宣言によって物語は幕を閉じる。
以上が『=モナド』の解説と私なりの解釈となる。あの時「若々しさがない」と一蹴した先生はこの文章を読んで笑うだろうか、それとも落胆するだろうか。
実はその答えは分かっている。私はこの文章を公表する前に先生のところに原稿を持参していたのだ。結果は大爆笑。「次は、『百科全書』とは何を表しているのか、またその行方について考察してみるといい」とおっしゃっていた。なるほど。
ここで少しだけ先生の課題に答えてみたい。『百科全書』とは何か、それは代理者のことを指すのではないか。頭蓋の代替装置としての百科全書、つまり〈頭蓋の代理〉である。ではその行方はいかに。行方を探るということは、〈頭蓋の代理〉の正体について考察するところから始めなければならないが、正直、現時点では分からない。
最後の最後、やはり気になるのは、はたしてこの文章をかつて私が好きだった人が読んだとき、彼女はどんな反応をするだろうか、ということだろう。会話もろくにしたことないくせに、と私自身も思っているところではあるが、今度ぜひお会いして『=モナド』について語り合いたい。学生時代になしえなかった「モナドにとっての私」について書くのであれば、「あなたにとっての私」について知っておかなければならないのである。
そしてひとつ聞いてみたいことがある。彼女が『=モナド』を手に取ったきっかけである。
原稿を持参して先生にお会いした際、先生はご自宅のソファでくつろぎながら、ふとこんなことをおっしゃっていた。「あそこ(図書館)には当時、『=モナド』は置いてなかったはずなんだ」と。なるほど。
図書館に置いてあった『=モナド』は彼女のものだったのではないか。そんな妄想をして今回の話を終えようと思う。
──第25話「全知頭蓋仮説」終




