地球外の野獣
彼女はふいに目を覚ました。
最初、なぜ目を覚ましたのかがわからなかった。自分が目覚めたことすら、すぐにはわからなかった。目が覚めるという夢を見ているのかと思った。理解ができずに、しばらく彼女はぼーとしていた。
寝返りをうつと、手首につけられたタグが目に入った。タグには名前が記されている。『メリッサ・デービス』――そう、彼女の名前だった。
――私はメリッサ。ちゃんと覚えている。大丈夫、忘れてない。
歳は二十三。あくまで眠りにつく前の数字ではあるけれど。
メリッサはベッドのふちを掴み、まずは上半身を起こした。それだけで腕がぷるぷると震えた。筋肉が衰えた――というよりは、神経が久しぶりに働いたといったところだろうか。不思議な感覚だった。長い時間が過ぎたことを覚えてはいない。だけど、その実感だけはある。
正確には彼女が掴んだのはベッドのふちではない。もっと味気ない作り――メリッサが寝ていたのはコールドスリープのカプセルだった。
深呼吸を三回。それから覚悟を決めて床に足を下ろした。
枕元には愛犬の写真が貼ってあった。一緒にメリッサ自身も写っている。ウェーブがかった金髪にぱっちりと大きな目。自分でも可愛いと思っている。決して自惚れているわけではなく。
だけど、これまでの人生で得をしたことはあまりなかった。どうでもいい男がたくさん寄ってきて、断るだけで少なくない時間を浪費した。でも、なんのコネもない自分が移住船のメンバーに選ばれたのは、この容姿が理由だと思っている。政府の広報は認めたがらなかったけれど、そんなわけがないからだ。シンプルに考えて、繁栄には必要なものだ。
それからメリッサはそばに表示されたカレンダーの表示に視線を移した。故郷の星を出発してから八十年あまりが経過していた。よって、愛犬ももうとっくに亡くなっている。出発前に引き取ってくれる人間を探した。あの人は優しそうで、出迎えてくれたときも多くの犬に囲まれていた。あの子も幸せに逝けただろうか。苦渋の決断だったのだ、この船にペット用の設備はなかったし、頼れる家族もいなかった。
あの子との出会いは雨が降る路上でだった。捨てられているのかをすぐに判断することはできなかった。だから、あの子のそばに傘を立て掛けて一度はその場を去った。あとからミルクを持ってきて、またそれだけ置いて帰った。次の日もあの子はそこにいた。あの子は私の目をまっすぐに見た。救われたのは私の方だったのかもしれない。私はあの子を家に連れて帰った。
「また会いたいな……。会えるよね? 先であっちで待ってて」
メリッサはべつの表示に注意がいった。思わず目を疑う。コールドスリープのカプセルが開放されてから八十時間が過ぎていた。
あきらかにおかしかった。意識が覚醒するまでのラグがありすぎる。
正規の手順で開放がなされなかったのだろうか? そもそも、どういった理由でコールドスリープが解除されたのかがわからない。目的地はまだのはずだった。
メリッサは周りを見渡す。カプセルに入っている人間はまばらだった。開いているものが多い。とりあえず目覚めたのは自分だけではないようだ。それを知って彼女は少し安心する。
メリッサは猛烈な空腹を覚えた。なにか食べないと……彼女はカプセルから出てフロアーに足をつけた。裸足に冷たい感触が広がる。一歩目でふらついて、またカプセルのふちを掴んでしまった。控えめに言って自分の身体ではないみたいだ。壁に表示された案内に従い、通路を進む。
食堂には誰もいなかった。職員も客も。しばし迷ったけれど、どうせ咎める者もいないのだ、メリッサは勝手に棚を漁りはじめた。しかし、棚はほとんどが空だった。
隅々まで探してようやく、あまりおいしくなさそうな保存食を見つけた。ここは宇宙船なのだ、保存食以外のものはない。しかし、その中でも人気がないからこそまだ残っていたのだろう。
彼女は残り物で腹を膨らませた。同じ味ばかりで飽きそうなものだったが、それよりも空腹が勝った。食事を終えたときには妊婦のように腹が突っ張っていた。
食欲が満たされると、今度は好奇心が頭をもたげてくる。一体どんな理由で目覚めさせられたのか。自分は知らなければならないとメリッサは思った。
自分だけではなく、ほかの多くの人々も同様。この巨大船の目的は開拓だった。目指していた星の近くまできたタイミングで船員は一斉に目覚める手はずだったのだ。
メリッサは船内をあてもなく歩き、食料庫にたどり着いた。照明はついていない。だけど、中から物音がした。
メリッサは壁のスイッチに触れ、明かりをつけた。棚を漁っていた男が勢いよくふりかえる。メリッサの姿を認めると、彼は素早く銃をかまえた。男はメリッサの膨らんだ下腹部を一瞥。より一層厳しい表情になる。
メリッサは訳も分からず戸惑った。
「あ、あの……」
対話を試みることすらなく、男の指が引き金にかかろうとした。
その彼の頭に鈍器が振り下ろされる。
いつの間にか男の後ろに誰かが近づいてきていた。
メリッサを助けたのは女性だった。赤毛にそばかす顔の女。メリッサよりも若干年上、二十代後半に見えた。
彼女はろくにメリッサの方を見ることもなく、男が漁っていた食料を奪いとった。そしてそれを抱え、食料庫から出ていく。メリッサもとりあえず彼女のあとを追った。
食料庫から離れた通路の隅で赤毛の女はものを食べ始める。
「あの……助けてくれてありがとう」
「助けたわけじゃないわ」
礼を言うメリッサにそっけなく応えて、またすぐに食料にかぶりつく女。その様子を見ながらメリッサも唾が溢れてきた。
「私も……分けてもらってもいい?」
赤毛の女は黙って睨みつけてくる。その彼女の目が途端に見開かれた。彼女は激しいうめき声を上げ始める。
「だ、大丈夫?」
「がああああああっ!」」
女のお腹が脈打つ。彼女は天を向き、絶頂した。
「……っ!」」
女の腹を割いて出てくるなにか。赤子の手のようだった。しかし、人間ならば手が六本も七本もあるはずがない。
メリッサは一目散に逃げ出した。まだ目覚めたばかりの身体は本調子とはいえない。何度も足がもつれそうになった。息もすぐにあがる。それでもとまることなく走り続けた。
集団移民用に作られた巨大な宇宙船。内部は一つの町かのように広大だった。扉を見つけるたびにタッチパネルに触れてみる。しかし、ことごとくロックされていた。
途中、べつの通路から走ってきた人間と鉢合わせした。彼もなにかから逃げているらしかった。そこからメリッサも同じ方向へ向かって走る。
やがてメリッサの心肺機能に限界がおとずれた。心臓が破裂しそうだった。顎は上がり、横っ腹は痛む。メリッサは転ぶかのようにその場にへたり込んだ。
男の足音が遠ざかっていく。彼はメリッサを置いて一人で先に行ってしまった。
メリッサは通路の隅でうずくまった。赤毛の女の腹が出てきたのはなんだったのか、男はなにから逃げていたのか。なにもわからない。考えたくもない。
後ろから得体のしれない足音が近づいてきていた。メリッサはもう動く気力がなかった。ただ震えるだけ。怖くて振り返ることもできない。
どういう構造の生物なのか、その足音からは想像もできなかった。幼体の形状からもわかるように、手足が四本以上あるのは間違いない。
接地の際に硬い音が響く。だけど、同時に粘着質な音もした。
「……」
身を固くする。
しかし、そのなにかは彼女を素通りした。足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなってからメリッサは顔を上げた。
当然、恐怖はある。だけど、それ以上に確認したかった。
彼女は通路を先へ進む。すでにそのなにかの姿も、先に逃げた男の姿もなかった。ただ、床と壁に血痕が残っていた。一部は天井にまでも及んでいた。かなりの勢いで噴き出したものだとわかる。
メリッサは疑問に思った。なぜ、自分を襲わなかったのだろうと。
そのとき、彼女のお腹が動いた。
「……っ!」
メリッサは青ざめる。……まさか、私の中にも?
銃を向けてきた男の顔が思い出された。この膨らんだお腹を見て、彼が浮かべた表情。メリッサにとってはただの食べすぎのはずだったのに、男はそうとは考えなかった。
メリッサは思案する。……もしそうなら、いつから?
そこでさらに思い出す――コールドスリープが解除されてからの空白の時間――まさか、そこで?
メリッサは急いで医務室へ向かうことにした。案内板で医務室までのルートを表示し、乗員全員が手首につけているタグ――それとリンクさせる。これで医務室まで音声で案内してもらえるのだ。
さいわいにもそこから医務室までは遠くなく、十五分程度で着くことができた。ここも扉にはロックがかかっていた。彼女はひたすら呼び出しのチャイムを鳴らし続ける。こんな状況なのだ、医師もコールドスリープから覚醒させられている可能性が高いと思った。
「急患か?」
モニターに気怠げな男の顔が映る。
「早く開けて!」
メリッサは室内に通された。医師の頬は赤く、息からは酒の臭いがした。彼女の腹部を見て医師は事情を察したらしい。「ああ……あんたもか」
「知ってるの?」
「もう諦めた」
彼は投げやりに言った。
「あいつらは壁を簡単にぶち破ってくる。ここにはまだ来ていないが、時間の問題だろう」
「私の中にあるものを取り出して」
メリッサの頼みに医師は頷いた。
「やったことはないが……試してみるか」
メリッサを診察台に寝かせたあと、彼はハンディサイズのスキャナーで彼女の腹部を調べた。そしてモニターを見て盛大に顔をしかめる。
「あんたも見るか?」
「けっこうよ。早くして」
医師は麻酔を準備する。
点滴のための針を目にすると、メリッサの腹の中でなにかが反応した。
「さあ、いくぞ」
医師がメリッサの腕に針を挿そうとした瞬間、メリッサはカートの上のメスを掴み、医師の首元へと突き刺していた。
「ぐ、あ……」」
医師はうめきながら倒れた。
メリッサは驚いた様子で自分の手を見下ろす。
違う――自分の意思ではなかった。
ただ、鋭い針を視界に入れた瞬間、彼女の神経はべつのものに乗っ取られたのだ。
「……っ!」
メリッサは己の腹部を睨み、歯を食いしばった。
ふたたびメスを手に持ち、自分の腹へ突き刺そうとした。
しかし、その手は宙でぴたりと止まってしまう。
「……!」
いくら力を込めようとも、彼女の意思でその手を動かすことはできなかった。
やがてメリッサは呆然と肩を落とす。
一人では無理だった。協力してくれる人間を探さないと――。
彼女は考えた。食料庫へ調達に来ていた男の例もある。どこかに生存者が集まっていてもおかしくはなかった。
メリッサは船内のAIに質問し、その部屋を突き止めることができた。各センサーで生物の痕跡や気配は簡単に判別できる。あとはそれをAIが秘匿せずに教えてくれるかどうかが問題だったが、メリッサも乗員の一人に間違いないと判断され、同胞の隠れ場所を案内してくれた。
VIPが利用するエリアの一室だった。中は広く、作りもさらに堅牢となっているのだろう。訪問のチャイムを鳴らす。応対のモニターに知らない男の顔が映った。
「悪いが、女は入れない」
開口一番そう言われた。
「お願い。助けてほしいの」
メリッサは懇願するも、「だめだ」とりつく島もなかった。
「待って! 話を聞いて――」
なおもメリッサが食い下がろうとしたとき、部屋の中から男の野太い悲鳴が上がった。彼女はモニターのスピーカー越しにそれを聞いた。
続けて、激しいノイズが耳をつんざく。スピーカーの音が割れる。
モニター上の明滅するフラッシュでそれが銃声だとわかった。
なにが起きているのか、画角の狭いカメラ越しではなにもわからない。過剰なまでに分厚い壁に遮られ、直接の音や振動はまったく伝わってこなかった。まるでテレビの中の出来事のようだ。
やがて、なにもかもがやみ、静かになる。「ねえ、誰か……」答える者はいなかった。
メリッサは唇を噛みしめる。彼女は諦めなかった。
ただちにべつの通路を行く。前方に銃が転がっていた。近くには血痕。死体はない。
銃を拾い上げたところでメリッサは足音に気づいた。とっさにかまえる。
相手もメリッサに銃を向けていた。
黒髪に平べったい顔。アジア系の女性だった。
彼女もメリッサと同様、お腹が膨れていた。
「あなたも?」
互いに銃をおろす。
「ちょうどよかった。協力しましょう」
彼女はユキコと名乗った。
二人は医務室へ。
医師の死体を目にしてもユキコはなにもいわなかった。よく見れば化け物にやられた傷ではないことはわかるだろう。しかし、それを追求している場合でもないと判断したようだ。
まずは二人で相談しながら手順を決めていった。そのために必要な道具も見つけていく。それらをカートの上に準備した。
メリッサとユキコは向かい合って座った。
「リラックスしましょう」
ユキコが二つのグラスにウィスキーをそそぐ。メリッサは片方を受け取った。正直、お酒の味はあまりわからない。でも、ないよりはマシに思えた。そう、これから起きることを考えれば。
ユキコはタイマーを三十秒後にセットした。
二人は酒を飲みながらそのときを待った。
ピピピ、という報せとともに二人は同時に銃を撃った。お互いの腹部に向けて。
メリッサは猛烈な熱さを感じた。腹の中でなにかが一瞬もだえたあと、動かなくなる。とりあえず成功したのがわかった。
「私からやるわ……」
ユキコがふらふらと立ち上がり、メスを持つ。メリッサの体内から弾を取り出すのだ。
メリッサは錠剤の鎮痛薬をウィスキーで流し込んだ。
ずぶの素人の施術だ、もちろん手間はかかった。しばらくのあいだ、無意味に腹の中をかき乱す結果にもなった。
「……まだ?」
「まだ……」
子宮の内側に潜んでいた生命体ごと弾丸を引っ張り出す。
メリッサは思わず目をそらした。
ユキコは時計を確認する。すでに十二分が経過していた。
医療用ホチキスで傷をふさぎ、輸血パックをセットする。
「つぎはお願い」
ユキコは自分でマスクを口につけ、機械のスイッチを入れた。
後者の特権、二人目は麻酔を使える。
鎮痛剤によってぼんやりとしながらもメリッサは施術を行い、無事ユキコの処置を終えた。
取り出したそれは床に投げ捨てた。ブヨブヨとした感触の蜘蛛のようだった。
三時間後にタイマーをセットし、二人は眠りについた。
「……」
メリッサが目覚めたとき、あれからすでに八時間が経過していた。
気絶するように眠っていたらしい。彼女はタイマーの音に気づかなかった。
メリッサの輸血パックからはまだ血が垂れている。床には空のパックが散らばっていた。ユキコがやっていてくれたようだった。
メリッサは彼女の方を見る。彼女は自分の分も交換していたようだ。
しかしいま、彼女の顔は不自然なまでに青白い。
「ねえ……」
メリッサは近づいてユキコの肩をゆさぶる。彼女は死んでいた。
メリッサは一人医務室を出た。
そしてコントロールルームへ。
ロックはかかっていなかった。
船長は死体で転がっていた。右手に拳銃、右のこめかみに銃創。自殺したと思われた。
彼の胸にぶら下がったキーをはずし、それを使ってコンピューターを操作した。
近くに星はないか探す。居住できる可能性のある星がもしあれば――。
「……っ!」
あった。見つかった。
というより、目的地となっている惑星そのものだった。
意外にも航路は終盤だったらしい。目的地のすぐそばまで近づいていた。
なら、迷うことはなにもない。
目的地として救命艇にプログラムする。
それから全エリアの酸素排出をタイマーでセットした。事実上の自爆装置だ。
本来なら数多の手順を踏まなければとてもおこなえないような処置ではあった。船をコントロールするAIが緊急事態であることを理解し、手順を省略してくれた。
メリッサは一人救命艇に乗り込み、宇宙船を離れる。
後方にカメラを向け、モニターでズームする。
船体に取り付いたべつの小さな宇宙船らしきものが確認できた。まるで寄生生物のようだった。
船内にまだ生存者はいたかもしれない。少なくともコールドスリープ状態の人間は残っている。しかし、それを気にかける余裕はなかった。あいつらの処理が優先だったのだ。
「ああ……私は地獄に落ちるわね」
そして彼女は思った。地獄ってどこ? どこまで行けばその引力圏から抜けられるだろうか、と。
救命艇とはいえ、VIPが使う一番最上級のものを選んだ。よって、一人で使うには十分すぎるほどの設備がそろっていた。お湯を沸かし、コーヒーを淹れる。
一息つきながら、ふと考えた。
メリッサたちは移住の第二弾メンバーだった。すでに第一弾の人々があの惑星に降り立ち、ここは安全であるとのメッセージを送ってきていた。メッセージの受信までに約二百年のラグはあったが、そのあいだに第二弾メンバーの募集と選別は完了していた。メッセージを受信後、メリッサたちの船はすぐに故郷の星を出発。新天地を目指した。
ワープ航法を利用してきたとはいえ、ここまで移動してきた時間も含めればすでに途方もない時間が流れていることになる。第一弾が移住したあの星はすでに大きく発展しているものと考えられた。どんな世界になっているのだろうか。第二弾メンバーで到着したのが一人だけというのを知ったら拍子抜けするだろうが、それは仕方ない。メリッサが体験したエピソードは驚愕をもって受け入れられると思われた。
それよりも――。
生物が繁栄可能な星が近くにある――そして、そこから遠くない場所をあいつらの宇宙船は飛んでいた――。
いま向かっている星があいつらの手に落ちていないといえるだろうか。
とっくにあいつらが繁殖しているかもしれない。先に到着した同胞はあいつらに打ち勝てるだろうか。
背筋が寒くなる。
もしかしたら……もしかしたら……。
これから行くところこそが、地獄なのかもしれない。