第一章 お笑いなんて、大嫌いっ!! ⑴
さて。
この男がいた時間から、およそ一時間前に話は遡る。
カリカリカリ。
カリカリカリカリ。
何処にでもある、普通のマンションの一室である。
階数を数えれば、七階にあたる。
カリカリカリカリカリ。
近付けば、その奇っ怪な音が増してきているのが分かるだろう。
その奇っ怪な音を出している原因は、
「ふぅー。やっと、終わった」
勢い良く、パタンと電話帳にも負けていない分厚い参考書を閉じて、ポニーテールの彼女は安堵感溢れる言葉を吐き出した。
季節は、真夏である。
外に出れば、それはそれは頭が貧血を起こすかもしれない程の猛暑だが、今の彼女には本来は無縁であった。
彼女は冷蔵庫からアイスを取り出し、
「やはり、この三次方程式で躓いたか」
先程の参考書を改めていた。
先程の参考書、つまり滅多に得意とされない数学の参考書を終えたばかりであった。
「はぁー、しんどいわ」
牛乳ビンのビン底のような眼鏡を外し、彼女こと現役の受験生、篠原瑠伊はベッドに横たわった。
本当であれば、こんなに太陽が燦々と輝いて、蝉もうるさく鳴っている一日は、
「プールに行って、カッコイイ男にナンパされたいのに」
という具合に、いきたいのが本人の理想らしい。
だが、現実は甘くない。
それは、ベッドの真横にある机の上に山積みされている参考書が物語っている。瑠伊には受験という苛酷すぎる現実が待っているのだ。
彼女は、時々だがこんな愚痴を言うようになった。
「はぁー。大学受験なんて止めて、レコード会社関係のオーディションでも受けようかなぁー。トントンと行けば、再来年の長者番付に載るかもしれない」
完全な現実逃避だ。
世の中、プロの歌手でトントンといっても長者番付と新聞に載るのは難しい。
第一、瑠伊が歌手志望なんて言っても、誰が信じてもらえるのだろうか。
彼女はただの受験生ではない。お気楽な愚痴が言えるのも、予備校でやる全国模試で全国トップをキープしている、保証書付きのガリ勉女なのだ。
もちろん志望は、東大である。
その東大志望の彼女にも不安材料がないわけでもない。
トゥルルル、トゥルルル。
「来たか」
絶対に触れたくないと百パーセント言える顔で、瑠伊は電話を見ていた。
トゥルルル、トゥルルル。
トゥルルル、トゥル。
「止まった」
胸を撫で下ろす。
アイスも棒だけになっていた。
瑠伊は再びベッドに身体を預けようと腰を下ろした後、今度は携帯電話の着メロが鳴りだした。
渋々、取りあえず、携帯を手に取った。
「はい、篠原です」
普段なら、こんなにも他人行儀にはならないだろうが、この時は警戒心一杯だった。
そして運の悪いことに、瑠伊の警戒している最悪の事態というのは、ほぼ百パーセントに近い確率で当たってしまうのだ。
『おー、瑠伊か。今、暇か? 』
電話の主は、瑠伊の父であり篠原プロダクションという芸能事務所を経営している、篠原一太郎からだ。
パソコンのソフトのような名前である。
瑠伊は怪訝そうに、
「高校三年の夏に暇なんてないの」
父の問い掛けに速答した。
『でも、電話に出れるだけ暇だな。丁度いいから、また例の場所に来てくれんか? 一人足りなくて困ってるんだ』
やはり、そう来たか。
頭の中では、すでに話が見えていた。
それでも、瑠伊は抵抗を試みる。
「困るのなら、一人でやらせれば!? 」
『それがなぁー、コンテストの再登録が出来ないんだ』
「パパ、社長なんだから出来るでしょ! それに明日は大事な全国模試なのよ、模試」 怒鳴る声が大きくなる。
同時にお隣さんから、「うるさい! 」と苦情が出た。
瑠伊はひたすら謝り、
「ほら、怒られちゃったじゃない! 」
またしても携帯に怒鳴ったが、その時は見事に通話不能になっていた。
携帯を切る。
「逃げたか」
瑠伊は、静かに呟いた。
グシャ。
同時に、瑠伊が壊した携帯電話の数が十台目になった。
いとも簡単に握り締めた??
普通の人間、まして十八の女の子では不可能だが、やってしまった。
瑠伊はその残骸をごみ箱に投げ込み、クローゼットの更に奥にあるスポルディングの大きいバッグを持ち、
「もういやだ、こんな生活! 」
他にも普通サイズのバッグを持ち、マンションのドアを勢い良く閉めた。
マンション全体が上下に揺れた。
突発性の地震であると観測された。
その震源地のドアは、砕けていた。
この時、マンションの住人達は瑠伊に声をかけるどころか、反対に瑠伊の形相に一言も言えなかった。