5話
それから時は経って、放課後のこと。
上から見ると『Iの字型』の南廊下中央、下駄箱の蔭で、サイドアップの癖毛がピコピコと揺れた。
「頼みの先生は腰が引けてるし、春風さんはあの調子だもん。此処はいっちょ、私が一肌脱いであげないと!」
決意を固めて力んだ拍子に、昼休憩に買っておいた唐揚げのパックが、バリバリと耳障りな音を立てた。
「うわっとと……」
ミッション開始を前にして、いきなり突発事故発生だ。
彼方は慌てて左右を見回して、昇降口の様子を確認する。
――幸いにも、周囲に異常は見当たらない。
道行く生徒が、こちらに奇異な眼差しを向けているだけだ。
気を取り直した彼方は、下駄箱の角から監視対象を発見して声を弾ませる。
「あっ、居た居た♪」
目当ての人物は、中央廊下の階段を軽快な足取りで降りてきた。
足踏みのリズムに合わせて、白いTシャツに覆われた豊かな膨らみが瑞々しく跳ねる。
「それにしても、あのスタイルで生徒指導なんて、実に怪しからん……。アタシが男子だったら、どうしてくれよう」
彼方は思わず本来の計画を忘れて、相手の容姿を盗み見る。
細く締まった下肢に絡み付く紺色のジャージ。
時折、シャツの裾から見える、白く肌理細やかでほっそりとした腹部のさらに上、ハリのある双丘が、シャツの布地を紡錘形に押し返す。
薄い唇、小高い鼻筋、愛嬌のあるくりっとした瞳。
同性の彼方の目から見ても、そこには健康的な色気と慈悲の精神が見事に同居している。
「あれで生徒の悩みを聞こうだなんて、どだい無理な話だよ。ぜったい、男子の隠れファンが多いって……。教師と生徒とのアンバランスな恋を楽しむには、打って付けの迂闊な相手…………って、そうじゃなかった」
彼方は、頭をすばやく振って正気に戻る。
いま大事なのは、女の品定めじゃない。
どれだけ上手に、清掃中の千早をアピール出来るかだ。
沢野が、南北に走る中央廊下を南に進んで、下駄箱前へと近付いてくる。
――今がチャンスだ。
下駄箱の蔭からそそくさと盗人歩きで離れると、曲がり角の手前に位置を変えた。
やがて、南廊下の連結地点で、彼方のわざとらしい演技が始まる。
「ねっこ、ねこ、ねっこ♪ ねっこさんや~♪ い~ます~ぐ、お肉をあっげましょう~」
沢野の前へとスキップを踏んで躍り出ると、曲がり角のど真ん中、嫌な予感に首を動かし、沢野に気付いて『ピシッ!』と石化硬直したフリをする。
対する沢野は、目の前でネコの餌付けを仄めかされて、感情を失った殺戮マシーンのように、無表情に口を開いた。
「……ねえ、片瀬さん。今の歌、どういう意味かしら?」
彼方は苦手意識をあえて顔に表し、片手を上下に振って、フレンドリーに誤魔化す。
「アハハ……。先生ってば、やだなぁ。単なる独り言だって……。本気で校舎裏の猫になんか、エサを上げるわけないじゃん」
「そう、校舎裏ね……」
両者、空々しい応酬をやり終えて、互いに短い沈黙を交わす。
ややあって、彼方が先手を打って、見事なスタートダッシュを切った。
「ダ~ッシュ!!」
「待~ちなさ~い!」
遅れて沢野が後ろを追い駆けるが、校舎内での遠慮から全力を出せない。
いっぽうの彼方は、上履きのまま昇降口を出ると、左に曲がって正門近くの購買裏へと疾走。
捕まった際の恐怖心から、幻覚性衝動に囚われる。
「ふは~!! 男に乾いた女に犯される~。たすけて~。おかーさーん!!」
周囲の注意を呼び込んで相手を牽制する狙いもあったが、まったくの逆効果だった。
彼方の思惑とは反対に、沢野は般若のような形相でスピードを上げる。
「他人聞きの悪いことを言って逃げるなぁぁぁぁあ!」
「ふはー!!!!!」
彼方は涙目で猛ダッシュを続けるが、沢野との距離は縮まるばかりだ。
焦る気持ちで後ろを振り返った拍子に、脚がもつれて前方にダイブ。
校舎裏の芝生で盛大にクラッシュした。
「さあ、片瀬さん……。どういうことか、キッチリ説明してもらうわよ!」
身を捩って顔を上げると、目の前には、怒気を背負った沢野が仁王立ちに構えていた。
彼方はあたふたと首を振って、周囲の様子を確認する。
千早の清掃地区から少し遠いが、なんとか視線が届く距離だ。
状況的には悪くない。
ただ、いつも通りに『春風さん』の呼び方だと、演技だとバレる恐れがある。
とっさにうまい愛称を閃いた彼方は、体育館裏へと腕を伸ばして大袈裟に嘆く。
「ああ……。ちーちゃん、御免よぅ……。私、先生に捕まっちゃったぁ」
沢野教諭は、彼方の見つめる先を目で追って、呼び名の意味を理解する。
「どうやら猫の餌付けには、春風さんも関わってるみたいね」
「最近、ちーちゃんと『代わりばんこ』で餌をあげるのが、私達の密かなブームなんです」
言い終えてすぐ、彼方は、最後の一言が余計な誤解を与えることに気付いた。
「あっ! ゴミはちゃんと持って帰ってますよ?」
「そんなことは分かってます!」
彼女も今では、千早が裏庭荒らしの犯人だとは思ってない。
むしろ、被害者側であるとすら考えている。
仕事熱心のいじめられっ子。
さらには、動物愛護に富んだ精神。
その根本に、人としての優しさがあると踏んだ沢野は、千早に対する方針を小さく漏らす。
「もとより、気に掛けてあげなきゃいけないとは思ってたけど、これでいよいよ
春風さんのまわりには、注意しておかなきゃいけなくなったわね……」
ワンテンポ遅れて、沢野は、芝生の上を這い蹲って逃げようとする彼方に注意を戻した。
「……と、その前に!!」
沢野に後ろ襟を無造作に掴まれて、彼方は、恐怖に怯えた仔猫のように身を竦ませる。
「うえっ!? 先生、いきなり何する気? もしかして体罰!?」
「体罰じゃなくて、生活指導よ。猫の餌付けに加えて、公衆の面前で私が枯れてるとか不名誉なことを言った罪、ちゃんと生徒指導室で反省してもらうから、覚悟しなさい!」
手足を伸ばしたまま、沢野にズルズルと引きずられる彼方。
今度は正真正銘、涙ながらの心境で親友に助けを求める。
「い~や~! たすけて~、ちーちゃ~~~~ん!!」
同時刻、体育館裏で軽い異常を察知した千早が、ふと顔を上げて不思議そうに
呟く。
「うん? 今、誰かに変な綽名で呼ばれたような気が……」
千早は動きを止めて思案するが、どうせ空耳だろうと考えて、再び作業に専念した。