20話
二人は一度も後ろを振り返らず、一心不乱に脚を動かす。
目的も定めずに走ったことで、位置が分からなくなった。
分かっているのは、変異ネズミが居る駐車場を飛び出し、自然公園外周を反時計回りに逃げていることだ。
三人組と逆方向なのは単なる偶然だが、そこには彼女達と一緒に居たくない嫌悪感もあれば、別方向へと逃げて、少しでも生存率を高めようとする本能が働いたからかも知れない。
全ては一瞬かつ無意識の判断だったが、その偶然に最後まで縋るのは危険に思えた。
視界の右前方、黒い半紙に見立てた闇に、オレンジ色の墨汁を垂らしたような
染みが見える。
千早が前へと進むたびに、歪つな縁の色彩は、芯の部分に光の珠を形作って鮮明さを増す。
長方形の小屋を目の前にして、ようやく正体が掴めた。
よく見るとそれは、公衆トイレの衝立を回り込む照明器具の明かりであった。
「待って……。彼方、ちょっとストップ!」
千早が反対方向に腕を引いて立ち止まる。
動きを中断された彼方は、その場で駆け足を維持して返した。
「ダメだよ……。立ち止まったら、アイツに追い着かれちゃうってば!」
「そうじゃない! そうじゃないから、いったん落ち着いて!」
彼方は、千早の苛立った声に足を止めると、肩を上下に揺らして息を整える。
いっぽう千早は、膝頭に両手をついて上体を折り曲げ、体全身を使って深呼吸を繰り返す。
こちらはアウトドア派の彼方と違って、明らかに運動不足が原因だ。
だからと言って、小休止のために親友を付き合わせたわけではない。
千早は前屈みのまま、時折、声の韻律を崩して語る。
「さっき彼方を捜すとき、ノイズを使って調べたの。山の至る所に、動物の反応があったわ」
「それじゃあ、アイツとおんなじ奴が、逃げた先にも一杯居るかも知れないって事!?」
「分からない……。ただ、そういった奴らと遭遇しないためにも、探知ノイズで調べておかないと」
「そっか……」
彼方は短く呟くと、顎先に溜まった汗を手の甲で拭い落とし、千早の意見に改めて同意する。
「うん、そうだよね……。分かった!」
千早は上半身を立ち上げて、冷静に辺りを窺う。
周囲に危険生物が潜んでいる気配はない。
呼吸が安定してきたことで、鳩尾が体操服を打つ滑らかな動きも弱まった。
「それじゃ、ノイズを走らせるよ」
小声で了解を取ってから、探知ノイズを広域に放射。
千早の脳内に、自然公園の3次元マップが描画される。
近くの茂みとトイレには異常なし。
ただ、屋外灯の明かりに誘われて、かなりのネズミが山から下りて来ている。
続けて千早は、地形図の外に巨大な自分の虚像を描き、徐々に弾き出される動体反応の輝点に指先を軽打してゆく。
それらの多くは、ノイズの影響を受けて狂奔する只のネズミだが、思った通り、共食いによって変異した異常個体も数体はいた。
しかもその数は、少しずつだが確実に増えてきている。
『早く…………公園……外へ…………』
ふと、脳裡に何者かの悲鳴が混線する。
朧気ながらも、クラスメイトが池の南側を逃げる映像が、空想地形図の画面と
重なった。
逃げる2つの点を扇形に半包囲する形で、無数の光点が追跡している。
先頭を走る点の数も、念写映像に映る人の姿も何故か2つだけだ。
――やめよう。そんなの調べた所で、良い事なんて一つもない。
数が足りない理由を深層心理に引っ込めて、千早はゆっくりと瞼を開いた。
喜ぶべきかどうか複雑だが、三人組が危険生物の多くを陽動している形である。
「ちーちゃん、なにか分かった?」
「多くのネズミが山の中にいて、これからドンドン下りてくるみたい」
「それじゃあ、このまま道なりに進むのは危険だね。少し歩きにくいけど、池の近くを突っ切って行こう」
彼方は、提案と同時に視線を動かし、公衆トイレの存在にやっと気付いて、ビクンと小さく身を弾く。
「あっ、そうだ……。ちーちゃん、トイレの中って平気だったんだよね?」
千早は質問の意図が分からず、首を上下に揺すって曖昧に答えた。
「ええ、そうだけど……」
「それじゃあ、ちょっと中に付いてきて」
「付いて来いって、トイレに? 用でも足すの?」
焦点のずれた問い掛けに、彼方は一瞬だけ不思議そうな顔をして、クスリと笑った。
「あっ、そっか……。ウン! 今のうちに、出来る事はしておこう。逃げてる最中に、トイレなんて無理だからね」
こんな時に呑気ではあると思ったが、近場の安全は確保されている。
千早はトイレの個室に入り、無理にでも用を足して着衣を整える。
この際、音や匂いなど気にしてられない。
これから自分達は、危険生物が跋扈する道を掠めて移動するのだ。
便座に腰を下ろして、ジャージの上着を戻そうとチャックをいじくるが、金具が壊れていて、どうにも直りそうにない。
仕方なく、前がはだけた荒くれスタイルで通すことにした。
千早が個室を出て右に曲がると、親友の不敵な笑みとすぐにぶつかる。
入り口を背にして立つ彼方は、右手でデッキブラシを2本まとめて軽く握り、
左手には、トイレ用洗剤を1本携えて待っていた。
「本当の目的はコレ。こんな物でも、無いよりはマシでしょ? 今は非常時なんだし、ちょっとだけ借りてっちゃおうよ」
あんなバケモノ相手に接近戦を挑むのは危険だが、不意の遭遇時には、牽制用として使えるかも知れない。
千早は、彼方の手からデッキブラシを受け取ると、快活な笑みで頷く。
「そうね……。絶対に、二人で無事に旅館まで帰ろう、彼方!」




