1話
私立鏡守学園の昇降口。
春風千早は、下駄箱の前で陰気な溜め息をついた。
「入学式からたったの3日……。今度のは、思ってたよりも早かったわね」
落胆の拍子に、後頭部の上で束ねた髪がしゃらりと揺れる。
高校一年目の4月、千早は早くもクラス内で浮いていた。
友達づきあいの悪い、なにを考えているんだか分からない女。
同じ中学校出身の同級生から噂は始まり、やがて下らない諍いから虐めに発展する前段階。
それでも千早は、誰かの影のように地味に徹する必要がある。
今回は、靴を隠されていた……。
普通の娘なら、泣いて教師に縋るところを、千早は、自分の力だけを頼りに乗り越える。
――そう……。あの時、自力で蘇ったみたいに。
今からおよそ十年前、幼い千早は、ワゴン車とブロック塀のあいだに挟まれて
仮死状態に陥った。
その数分後、同じ場所、同じ地点で、千早は独りでに息を吹き返したのである。
周囲に人影はなく、救急車が駆け付ける素振りはおろか、警察がきた痕跡すらない。
俗に言う、『轢き逃げ』という奴であった……。
その事故の影響なのか、以来、千早のまわりでは不思議な現象が多発する。
勝手に物が動き、燃え、実体のない影が夜ごと街を徘徊する。
――これはきっと、自分の力が暴走したせいだ。
何とは無しにそれに気付いた千早は、その日を境に他人との接触を避け、感情の起伏を抑え込んで生活していたのである。
「こういった時だけね。私の『能力』が役に立つのは……」
能力とは、千早が幼少期の事故後に目覚めた超能力のこと。
目に見えず、触れる事すら出来ないが、確かに其処にある存在。
千早は、その力を身近なものに準えて、『ノイズ』と呼んだ。
眼鏡の奥、するどい輪郭の瞼を閉じて、千早はゆっくりと息を吸い込む。
やがて、微弱な波動を広域に放射する風景を想像し、その反響音に自身の痕跡を確かめる。
――あった……。校舎裏の叢の中!
千早は上履きのまま、正面玄関を右に出て校舎沿いを歩く。
途中、花壇の前に立てられた掲示板には、『校内でのペット飼育禁止!』のドデカイ張り紙。
校舎の角を右へと曲がり、体育館へと通じる渡り廊下を横切って、校舎裏へとやってきた。
裏山沿いを走る緑色のフェンス下、草むらの中から白く真新しいスニーカーを拾い上げ、下足へと履き替える。
するとその時、千早の耳が、苦しげな鳥の鳴き声を捉える。
不思議に思って振り向くと、欅の下の乾いた地面に、翼の折れた一羽の雀が小さく震えていた。
このままでは、猫に食べられてしまう。
――出来る…………かな?
なんとなく、出来る気がした。
千早は、傷付いた小鳥を両手でそっと掬い上げると、その身体を掌で優しく包み、心を落ち着かせて目を閉じる。
小鳥が、翼を力強く広げるイメージ。
特に、骨がピンと伸びた内部骨格の想像を脳裡に描くと、瞼の向こう側が、緑色の輝きにゆっくりと包まれる。
熱エネルギーが生命力へと転化され、指の隙間から眩い光が零れた。
掌を氷の中へと埋めたような感覚に、千早は勢いよく両手を開く。
「冷たっ!!」
雀は、千早のすばやい動作に驚いて、空中へと軽やかに翔び上がった。
『チチチュン、チチチュン!』
唄うような暖かい囀り。
千早の頭上を幾度か旋回すると、梢の蔭へと身を隠した。
感謝の気持ちを表していたのかも知れない。
「良かった……」
千早は柔和な笑みを浮かべると、まだ冷たい掌を口許へと運び、安堵の息で温めなおす。
呼吸の温もりが掌を伝い、かじかんだ指先をくすぐる。
――暖かい……。これが、『生きてる』っていう感覚なんだ。
そうして千早が、大樹の根元にしばらく佇んでいると、視界の外で誰かの声が聞こえた。
「今、なにしたの……?」
千早はビックリして、視線をサッと左へ移す。
フェンスのすぐ横で、一人の女子生徒が呆然と立ち竦んでいた。
背は千早よりも頭一つぶん低く、長い髪を頭の両側で束ねた、潑剌とした雰囲気の少女。
それが、春風千早と片瀬彼方の出会いだった……。