ある魚の独り言
初投稿、処女作です。某副都心の駅に出かけたときの心境をつらつらと書いてみただけなので、内容は無いようです。
大目に見てやってください。
正午を指す10分前、目に入るのは多くの雑踏。そして人。また人。
都会を生きるということはつまり、人と人の間を上手くかいくぐる術を身につけるということでもあると思う。都会暮らしは長いはずだが、不思議なことにいつまで経ってもその術は身につかない。
都会は、海だ。行き交う数多の魚や海藻がそこらにあって、群れをつくって、生活して。息苦しさは人が吐き出す二酸化炭素のせいなのか、はたまた車の吐き出す二酸化炭素のせいか。どちらにせよ二酸化炭素であることには変わりないか。
都会の魚たちは一見窮屈に生活しているように見えるが、互いが上手くスペースを見つけ、ギリギリ体が当たることないように動いている。こんな生活は慣れるまでが長い。やっぱり他の魚を上手く避けることが必要不可欠なのかもしれない。ともすれば私はまっすぐにしか進めない鮪かもしれないな、なんて。直進する人生も良いな、いやこの場合は魚生か。でも波に揉まれずにいられない世の中だから、最期は壁にぶちあたって死ぬんだろう。壁を乗り越えて成長するとよく聞くけれど、鮪にとってはそのぶちあたる壁の1回すら命取りだから是非そのような壁を避けて生きたいものだ。実際はそんなに甘いこと言ってられないんだけど、鮪なんだし大目に見てほしい。
今日も多彩な音が耳を通過する。それは田舎に行くのとはまた違った、人が生み出す音。人が奏でる音。それで人の温もりを感じるのかどうかはその人によるところだが、私は今日も都会の喧騒をBGMにして生きる。この喧騒は、避けられないものであるから。ならばそれを愛さないと勿体ないような気すらするのである。
先日、愛用していたウォークマンが水没した。音楽を奏でるどころか、音すら出ない。うんともすんとも言わなくなった。今朝見たウォークマンの死骸は以前変わらないまま。久しぶりにイヤホンを外して外出をしてみたが、イヤホンが有っても無くても外は騒がしかった。無音とは程遠い都会の海には、今日もたくさんの音で溢れていた。
何かを考えているようで考えていない私の肩に痛みを与えたのは、姉だった。そうだった、私は人を待っていたんだった。
待っていたといえば待っていたのだが、思いを巡らせていたあの時間が、待つという退屈を無意識のうちに有耶無耶にしてくれていたのかもしれない。都会は人が多くて煩わしい思いをすることが殆どだが、今回はその人の多さが私の退屈を潰してくれたので、不特定多数の都会人に少しだけ感謝をしてみても良いかもしれない。