六
「…と、ひでぇにおいだなァ」
一の後ろから湖を見た龍之介は眉を寄せ、顔を歪めた。
「これが紅湖か?」
「あんま近づかない方がいいです」
近付いた龍之介の前に、さりげなくわりこんだ八を見下ろし、龍之介は目を丸くした。
八の目の色が、漆黒から、金色に変わっていた。
「旦那、これ相当集まってます」
「真ん中に行くのは難しいですよ」と、一を見る。
「ここににおいはあるのか?」
「わかりません。こう血の臭いが充満していちゃあ…」
八が水際に寄り、一と龍之介が八の後ろから水を見下ろすが、赤い水は八しか映さない。
「お?」
龍之介は首をかしげ、後ろを振り向く。「何かあったかい?」
一が龍之介を見ずに言う。龍之介は水に映る姿と土を見比べる。
「いやぁ、水にゃあ映ってんのに、ねぇなと思ってよ」
「何がだい?」
「花だよ」
「…何だって?」
「兄さん、見えてねぇのかい?」
「ここに映ってるじゃねぇか」と、八の隣を指差す龍之介に一は目を見開く。
「八、お前には見えてるか?」
「いいえ、オイラには何も…」と、戸惑った顔で一を見上げた。
一は首をかしげ、八の隣を見て不思議そうな顔をする龍之介を見た。
「龍さんよ、そりゃ一体どんな花だ?」
「白い花だ。椿…いや、こいつァ、さざんかか?」と花には近づかずそう言った。
「さざんか…花精か!」
「狸のじいさんの言ってた鍵だな」と、一は八の隣を見下ろす。
しかし、困ったことに、話を聞こうにもさざんかは龍之介しか見えない。一は顎に手をあて、少し考えるようにうつむいた。
そして、一拍置いて頷いて龍之介を見た。「龍さんよ、今から唄う唄をそのまま唱ってくれないかい?」
「あぁ、構わねぇぜ」
一の突拍子がない一言にも、疑いもせず龍之介は軽く頷いた。
一の言葉を聞いて、龍之介は息を吸い唄う。
「薄い葉、薄い刃。誰を切る。咲いた裂いた。何を咲く。」
しん、としていた空間で、幼子の笑い声が聞こえた。振り返ろうとした龍之介の髪が、風もないのに、ふわりと浮いた。まるで誰かに撫でられたかのようにだ。
そして聞こえる女児の声。それは鈴を転がしたように軽やかでいて、楽しげな声だ。
≪薄い葉、薄い刃。人を切る。咲いた裂いた。人裂き、花咲き。満開に≫
クスクスと耳をくすぐるその唄に、龍之介は驚いたように瞬きを繰り返し、聞こえた一は八と顔を見合わせる。
「聞こえやしたね」と、八が言う。
「まさか、本当に答えるとはなァ」と、一が言う。
「お…?今度は花が見えるぜ?」
「親分さん。それはあんただけか花精に招かれたからですよ」と、八が言う。
「そうだな、俺達には視えねぇ」と、言って、一と八は一歩下がり、龍之介は一歩進んだ。
≪人の子、恐い子、何しに来たの≫
震えた幼子の声に、龍之介は進むのをやめて屈んだ。一と八がぎょっとする中、龍之介は花に向かって笑いかけた。
「怖がらして悪かった。だけど、俺は知りたい」
泣きそうな声が嘘のように消えて幼子が笑う声が聞こえ、真っ白な着物をまとった女児が、花の代わりに龍之助を見上げていた。
≪人の子、無垢な子、良い子、教えてあげる≫と、笑った。
龍之介は懐から、あの杯を取り出し、主の目の前に差し出した。
「教えてくれ、これの持ち主が殺された。なぜ殺されたのか、誰に殺されたかを、俺は知りたい」
≪殺したのは獣、血を抜かれた人を食った。肝を喰らった。力ある人、半分の人、交じりモノの肝、獣を強くする≫
「血を抜いたのは、誰なんだ」
声は平静を保っていても、八は見た。拳が震え、血が小さな水たまりを作っているのを…
≪血を抜いたのは、我が一族。時期を待てずに狂って咲いた≫
「どこにいるんだ」
≪水が流れ、とどまるところ≫
「謎かけか?」と、龍之介は困ったように笑う。女児は両手をくるくると回して歌う。
≪がらがら、がらがら回る音。かたん、かたんとつく音がする≫と、女児は笑う。
「そこにいるのか?」
≪いるよ、いるよ。それが導く≫
「それ…って、何だ?」
龍之介は、次に首をかしげる。次は楽しそうに笑い、竜之介の方に担がれたソレを指差した。
≪ずっと、狸が隠していた水の宝、水の流れを見つけるよ、水の全てを知ってるよ≫
しゅるり、と、解きもしないのに、紐が解け、布が池面に落ちた。その刀の姿に、その場にいた人間は目を見開いた。
「おぉ…すげぇ」と、龍之介はポカンとした顔で自分の肩にある刀を見た。
とくり、とくり、と脈だっているかのように透明な刀身の中で水が弾ける。まじまじと見る竜之介に幼子はクスクスと笑って龍之介の頬をそっと撫で、≪人の子、無垢な子、覚えてて、水が流れ、とどまるところだよ≫と、言った。
一陣の風が吹いた時、女児は水に溶けていく寒天のようにとろりと空気に消えていった。
「あ、消えちまった」
龍之介は花があったはずの場所を見た。
「妖っての、便利だなァ」と、楽しげに笑い、包む物がなくなった刀を月に透かした。
サラリ.と水が流れていくのが見え、この刀がただの刀ではないことはすぐに理解できた。一は唖然とした顔で竜之介の持つ刀を見た。
「おいおい…一体どうやって手に入れたんだい? 」
「いや、笑わせた礼だって、あのじいさんにもらった」
カラカラと笑う竜之介に一は「あの狸が…? 」と、ありえない、と頭を抱える。
「こいつァ一体何なんだ?すげェ刀ってのはわかるけどよ」
「妖刀、清冷風月」
八の静かな声が龍之介の耳に届いた。 「清冷風月? 」と首をかしげる竜之介を八は見上げる。
「心清きものが使えば、水の流れを知ることができ、妖を切ることができる。しかし、その心に曇りがあれば、刀は持ち主を殺す…生きた刀ですよ」
「心清い…俺には程遠い言葉じゃねぇか?」
「怖ぇ刀だ!」と、言うが、龍之介の表情は明るくカラカラと笑っている。
「清廉潔白…アンタは自分の心に曇りないから、刀が扱えるんさね」
「兄さんの方が使えそうな気がするなぁ」
「俺ァ、極道者だぜ?極道者が潔白っつうのねぇだろ」と、龍之介は首をかしげる。しかし、それに対して一は笑い、「アンタは、常に迷いがないのさ」と背を向けた。
「変わった兄さんだなァ」
「オレも人のこと、言えねぇけどよ」と、横に居た八を見下ろして笑う龍之介に、八は困ったように眉を寄せて龍之介を見上げてから、前を歩く一を見た。
「…旦那は、修羅を選ぶ方なんですよ」ぽつり、とこぼれ落ちたように出た。
「片や極楽、片や地獄…どちらを選んでも行けるはずなのに…旦那は、わざわざ辛い道を選ぶんです」
「不器用なんだなァ」
「そうです、不器用なんです。誰も、責めたりなんかしませんのに…」
「…でも、お前さんもついていくんだな」
疑問ではなく、確信を持った声音で尋ねてくる龍之介に、八は笑った。その顔は、その幼い容姿とは裏腹に静観さを含み、年相応の青年の顔だった。
「この命、尽きるまで」
呆れたような竜之介のため息に八は小さく笑う。「なにやってんだい? 」と、こちらを振り返った一の怪訝そうな顔を見て、八は困ったような顔をして言葉を飲んだ。
「おお、世間話さ。兄さんもどうだい? 」
「呑気なものさね… 」
「そうかい? 」
一の隣に移り、さりげなく変えられた話…目の前でトントンと交わされていく言葉、カラカラと笑う龍之介にムッスリしている一。八は、顔を俯けて笑いを耐えた。
「それにしても、妖ってのは別嬪さんが多いんだなァ。下手な茶屋や花街よりもずっと眼福だったぜ」
「見た目だけで近寄ると痛い目に遭うぜ」
いつもと違って、ふざけた様子はなく冷たい様子…いいや、こちらが一の本当の姿なのだが、それでも…
「まだあったことねぇな」
「そのうち遭うさ」
いつもは冷たいだけの顔が、僅かだが笑っていることに八は気付いた。
黒と赤が入り混じった空に、ぽっかりと穴を開けたように白く丸い月を見上げて、八は柔らかに微笑んだ。
「…雲海様、なぜ、雲海様が、あの人にも妖刀渡したのか…オレ、わかる気がします」
「そして、あの狸も…」と、その言葉は飲み込んで、亡き和尚の笑顔を思い出し、最後にもう一度、小さく笑って、出口を通り抜けていく二人の後を追った。
冷たい水を含んだ風が頬を撫でつけていき、一気に消えた生臭さに龍之介は深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出し笑う。
「生きてるってのはいいなぁ!!」
「洒落にならんこと言わんでくれ」
「アンタの子分さん達が聞いてたらどうすんだ…」と、げんなり顔で庭や縁側を用心深く眺める一に、龍之介は刀を肩に担いでけらけらと笑って空いた手で家を指した。
「この家には、俺やアンタ達を含めて十人もいねぇよ。おまけに、ここには誰も近づかねぇように言ってある。」
「俺の言いつけ破る奴ぁ、俺の組にはいねぇよ」と、軽く肩を竦めた。
「…なら、いいんだけどな」
ちらり、と、縁側の角を見た一に、八は微かに目を伏せた。
「さって、今夜はもうどこにも行かねぇんだろ?」
「あぁ…もう寝るさ」
疲れたしな、色々と…と、呟いた一の背をバンバンと叩き「本当はこれから酒でも飲むかと思ったんだけどなぁ!」と笑う龍之介に口端を引き攣らせた。
「遠慮しとくぜ…」
「だろうな!んじゃ、八坊、お前さんもしっかり休めよ!」
ぐしゃぐしゃと撫でられ、ぐちゃぐちゃになった髪のままぺこり、と頭を下げた。
「ありがとうございます」
ひらひらと手を振り慣れた足取りで庭を突っ切っていく龍之介を見送り、一に向き直ると「洗い桶を用意いたします」と頭を下げて消えた八。
誰も居なくなり、静かになったそこでふぅ、とため息を吐いて縁側に腰かけ、庭に足を投げ出したまま行儀悪く横になった。
「水が流れ、止まる場所…か」そう呟くようにって、くしゃりと目にかかった髪を右手で掻き上げ、目を閉じた。
かさ、と近づく足音に緩く顔を横に向けて左手を上げた。
「悪いな、八」
「旦那…またそんな行儀悪を…… 」
「おかよ殿に叱られますよ」と、呆れたように言う八に、一は薬湯を飲んだ時のように顔をゆがめた。
「俺はもういい年なんだけどなァ… 」
「子供みたいに叱るのやめてくれねぇかね」と、ため息を吐いた一に「旦那が子供みたいなことしなきゃしませんよ」と言って、足元に片膝を着いて水の入った盥を置き「失礼します」と脚絆と足袋を脱がせ足を濯ぎ始めた。
苦笑しながら起き上がれば、足を濯ぎ終えた八は盥を持ち立ち上がる。「ありがとうな」と声を掛ければ軽く頭を下げ、また静かに暗闇に消えた。
ぼんやりと浮かぶ月を眺め、頬を撫で、髪を揺らす風に目を細めていると、す、とお盆ごとお茶が入った湯飲みと御手洗団子を置かれ、きょとり、と、目を瞬かせた。
「団子なんてどうしたんだ?」
「嬉しいけどよ」と、団子に手を伸し、早速かじる一。
「龍さんから「団子があったから硬くなる前に食ってくれや」と、頂戴しやした」
「へぇ…おぉ、春屋の団子だったのか」
モチモチとした弾力と甘い醤油のタレが、舌と上顎に絡む。一が至福の笑みを浮かべている隣で、お茶を飲む八。
「そういや…」
ふと思い出した心配そうな顔をしている看板娘の姿。
「お梅ちゃんがお前を心配してたぞ」
「…そうですか」と、八は困ったような顔で答えた。
「色男は辛いねぇ」
「…面白がってやせんか?旦那 」
ため息をついたハに、「まぁ、面白がってないっては言えねぇけどよ」と、一は苦笑いを浮かべた。
「お梅ちゃんが、お前を心配してたのは、本当だ」
そう言って肩を竦め、月を眺めながらお茶をすする一に、ハは眉を寄せて口角をぎこちなく上げ、自嘲気に笑った。
「…嘘なんて思いやせんよ。だからこそ、困るんです」
一にならうよう月を見つめるハの顔は、その身丈とは裏腹に、年相応の大人びた表情を浮かべた。
「オイラは…俺は、こんな身です。」
一人称が変わる。いつもの幼さ、拙さが残る口調ではなく、静かで、大人びた口調。
「俺は、妖憑きです。俺みたいなのは、最後がいいんです。だから……」
「だから、これからもお梅ちゃんの気持ちには気づかねぇ振りするつもりか?」
「はい」
きっぱりと、竹をわるかのようなすっぱりとまっすぐで迷いない八の声に、一は呆れたように小さくため息を吐いて、隣にあるその頭をグシャグシャとかき混ぜた。
「不器用な奴さね」
‘一生涯、伴侶をもたない’。それは、他者との深い関係も断つことを意味する。すなわち、一生涯の孤独の覚悟なのだ。
自分の半分の年くらいしか生きていないのに、なぜこんなにも重い覚悟ができるのか…自分がこの年の時、こんな風になれただろうか……妖憑きというのは、こんなにも、重くて、愛しくて切ない者になるのか。
そこまで考えて、一は小さく頭を振った。
「人は皆、不器用で、重くて、切なくて……」
そより、と縁側から吹き込んだ風が、一の長い黒髪を空に流す。
「愛しい生き物さね」
そう、愛おしげに目を細める姿は妖艶。八は小さく苦笑を零す。この人は、あのふざける姿がなければ、嫁はくるのではないだろうか…そう、思いつつ、月に杯を掲げる一の後ろで月を見上げた。
※脚絆:足袋の上に履いて、土埃や虫、草から足をガードするもの。普通は旅をするときに使うものなのです。一は妖の場に入ることが多いので、動きやすいために脚絆をよく着けています。