三
ほの暗く辺りなど人の目では見えぬ薄暗い河原、ぱきりぱきり霜が立つ草を踏む小さな影が走る。微かな音に犬が走り抜けたのかと思えば、小さな影はゆっくりと立ち上がり「はぁ…」と息を漏らした。
辺りを見回す八は、襟巻きに埋めていた鼻をあげた。
「…においは、ここで途切れてんのか」
すんっ…と鼻を鳴らした場所は、昨夜の事件があった土手だ。
血の臭いに混じった花の香りは水辺で途切れていた。辺りを見回しても、目ぼしいものは見つからず、白けてきた空を見上げた。
「…夜が明けちまう」と、呟くように言って走って行く。
武家屋敷が続く通りを音もなく走る八の傍、ぞわりと黒い何かが追うように這う。
八は、それを横目で見て何事もないように身軽にも塀を飛び越える。
着地と同時に、ぴぃん、と音を奏でる水音。その音に怯えるように闇は震え、八の影へ滑り込んで行った。
八はしばらく自分の影を見ていた。がらり、と引き戸が開き、黒の着流しに、赤の綿羽織を着込んだ一がいた。
「帰ったか」
「どうだった?」と、問うと、八は首を横に振った。
「昨夜の土手でにおいは消えてやした」
「お役に立てず、すいやせん」と項垂れる八に一は笑って首を横に振る。
「いいや、少なくとも昨夜の場所に繋がりがあることがわかったぜ」
右手で握る白い鞘におさまる刀がキン、と泣いた。「今日はもう休め」と、八を屋敷に招く。
「オイラ、長屋に帰りやす」と首を振る八。
「いいから休んでいけ、どうせ俺とおかよしかいないんだしよ」と、一は頭、三つ分小さな八をひょい、と肩に担いだ。
十六、と言う年のわりに八の身体は小さく、周囲からは十一、十二と思われていて、同い年の小梅よりも背は低く、並ぶと姉弟に見えてしまう。
「旦那、下ろしてくださいよ」
慌てる八に一は素知らぬ顔で「お前の部屋に布団があるから今日は寝てな」と言う。
「草鞋を脱いでやせん」
「後でおかよに湯を持って行かせるさ、その時に渡せ」
「まぁ、若」曲がると、目尻に皺を持つ女は目を丸くした。
「お、おかよ。丁度よかった。八の部屋にお湯を持ってきてくれ」
「まぁ、まぁ…また八殿に御無理をおっしゃって…」
「若、もうお子ではないのですから」と母親のようにたしなめるおかよに一は苦笑いを浮かべる。
「勘弁してくれよ、おかよ。俺はもう若じゃないんだからよ」
「左様ですか」とおかよは小さく笑って頭を下げた。
「おかよ殿も、相変わらずお元気そうでよかったです」
「おかよが、息災でなければ俺は何もできないさ」
そう笑って八を部屋前の縁側に座らせ、「さて…俺はそろそろ出る用意だ」と、お湯を持って来たおかよに目配せをして部屋の中へ入って行き、八は静かに頭を下げた。
いつもより静かな道のりは、味気もなく、いつもの様に寄り道をする気も起きず足早に通りを抜けていった。見えてくる奉行所の門を静かにくぐる。
「おはようございます」
ぷかり、と煙草の白い煙が煙管の細い筒から空へと上る。ゆるり、と首を擡げて「おう」と朝比奈は炭鉢に向けていた顔を一に向けてややぁと首をかしげた。
「ん?八はどうした」
「八は夜中、走らせっぱなしにしちまいましたんで」と笑い笠を下ろした無防備な一の頭にごつりと落ちる拳骨。
「馬鹿者!あんな子どもを使いっぱしりにすんな!」
「いったたた…ひでぇや朝比奈さん。鬼の拳骨じゃいつか頭がわれちまいますよ」
殴られた頭を押さえて不満そうに言う一に朝比奈は仁王立ちで見下ろす。
「いくら腕っぷしが強かろうが、足に自信があろうが、八はまだ十二の子どもだろうが!夜は寝かせてやれ!」
朝比奈の言葉に一は口端をひきつらせた。八は十六、と言うことを朝比奈は知らぬ。むしろ、教えても信じるかどうかが問題だ。
「聞いてんのか、一!」
「朝比奈さん、そんな怒ってると、早々に藤次郎殿に世話になっちまいますよ」
いらぬことをホイホイと言う一に、朝比奈の右の拳が飛ぶ。ふしゅう、と、口から蛇の威嚇音と煙草の白い煙の筋が滝のように零れていき、その白い煙が閻魔の溜息と言われる煙羅煙羅のように見えて、横に腰かけていた下っぴきの口端がひくりとひきつり、おまけに目尻には光る筋もうかがえたが…見えぬ振りだ。
「やかましい!誰があの馬鹿息子の世話になんぞなるか!俺はまだまだ現役だ!」
額にいくつもの筋を浮かべて、ふうふう、と息を荒くし、肩を震わせる朝比奈の後ろ姿は地獄の鬼そのものだ。
「あ、朝比奈さん…柳川殿、聞こえていません……」と、恐る恐る声をかけた初めの同僚の口は終始ひきつっていた。
すぐさま、強制的に目を覚めさせられた一は、朝比奈によって事件の真相を調べてこいと奉行所を放り出された。「これは、番所の仕事でないんですかねぇ」と、ぼやいた一にもう一撃、拳が無言で落とされたのは言わずもがな……
「はぁ、まだコブが残っていやがる」
自分の頭を撫で、ため息を吐いた一は、春屋の前で足を止める。
「いらっしゃい!あら、柳川様!」
「お梅ちゃん、みたらし二本」
「はぁい!…あら?」
元気に返事をした小梅だが、一の後ろを見て首をかしげた。
「柳川様、はっちゃんは…?」
「あぁ、八なら今日は休みだ」
「休み…」
それを聞くと、しなれた花のようにみるからにしぼんだ小梅。一は苦笑いで「悪いな」と言った。
「い、いいえ!そんな…あ、今お団子持ってきますね!」
頬を、カッと梅色に染めて、小梅は誤魔化すようにパタパタと暖簾をくぐっていった。
「春だなぁ…」
「まだまだ寒いですけどねぇ…」
しみじみと言う一の逆側に座っていた恰幅よい男、番所の主である次郎八は腕を擦り、怪訝な顔をしていた。
「にしても、八がいねぇなんて珍しいですねぇ」
「昨日の夜から今日の朝まで走らせちまったからな、休ませたんだ」
苦笑した一に、「昨日から!はぁぁ、八は相変わらずすげぇですなぁ」と、膝を叩いて笑う。
「みたらしお待ちどうさま!」
「おう、ありがとな」
小梅から団子をもらい、頬張ろうとした一に…「はぁじめぇぇ!」
スパァン、と風呂敷につつまれた分厚い何かが頭に落ちた。
「お前は八がいねぇとすぐサボりやがって!」
「あ、朝比奈さん…」
本日二度目の頭への衝撃に一は頭を押さえた。見ていた次郎八は「相変わらずですねぇ…」と、苦笑を浮かべる。
「いらっしゃい!あら、朝比奈様!」
「おう、お梅ちゃん。草餅と熱い茶をくれ!」
「はぁい!」
「朝比奈さん、一体それなんです?」と、自分の頭を叩いた風呂敷を指さし、「やけに痛かったんですが…」と、苦笑する。
「これか?これァ、代官所に出す書だ」
「…地獄帳で殴らんでくださいよ」
「地獄帳だァ?」と朝比奈は首をかしげて、風呂敷に包まれた書を机に置いた。
「罪をしたためた書のことですよ」
「なるほどなァ、たしかに地獄帳か」
「たまにはうめぇ洒落が言えるじゃねぇか」と笑う朝比奈に一は笑って頷く。
「えぇ、それに閻魔様に持っていくのは鬼の役目…」
ゴンッ、と鈍い音と、机に突っ伏し、動かなくなった一。
「一言余計だ…この馬鹿者!」
「柳川様ったら…」
「水布巾持ってきますね」パタパタと中に戻って、濡れ布巾をそっと一の頭に乗せた。
「お梅ちゃんはいい娘だなぁ」
しみじみと言う朝比奈に小梅はコロコロと笑う。
「そろそろ嫁に行くのかい?」
「嫌だ、朝比奈様ったら、私はいきませんよ。おとっつぁんの手伝いもありますし!」
「しかしなぁ、お梅ちゃんの器量なら引く手は数多にあるだろう?」と、お節介を焼く朝比奈に、一が頭を持ち上げた。
「困ってる女子に聞くなんて野暮ですぜ」
「なぁ、お梅ちゃん」と笑う一に小梅は顔を真っ赤にした。
「もう、柳川様!」
ぱたぱたと暖簾の奥に逃げてしまった小梅の後ろ姿を、笑って見送る一と、不思議そうに首をかしげる朝比奈。
「お梅ちゃん、誰かに惚の字なのか?」
「さぁ、そいつァどうですかね」
はぐらかす一に、朝比奈はため息を吐いた。
「早いもんだなぁ…お梅ちゃんも恋する年か。にしても…」
「何ですかい?」朝比奈の呆れた目に、一は後退さる。
「お前も、いい年なんだからよ、いい加減嫁くらいもらえ」
ぐさり、と朝比奈の言葉が見えぬ矢になって一の心臓に突き刺さる。「ひでぇや、朝比奈さん…俺だって、俺だって……」
壁に頭を押し付け、がっくりと項垂れた一に倒くさいことになったと朝比奈は口を引き攣らせ、どう持ち直させるかと思った時矢先、聞きなれた娘の声。
「ごめんください…」
「あ、お初さん!」
「こんにちは…草餅二つにみたらし四本、包んでくれる?」
「はい!」
「おう、お初」
「あ…朝比奈様」
朝比奈に頭を下げる初の顔色は悪い。まるで幽霊のように青白い。
「飯は食ってんのか?」
「…いえ」
「そうか…まぁ、しっかり食って寝るんだぞ」朝比奈は、そう言って笑った。
朝比奈は、慰める言葉を言わない。「気を落とすなよ」、「元気になれよ」。温かい言葉だが、それは時として鋭さを持つことを、朝比奈は知っているからだ。
「お初さん、お待ちどうさま」
「ありがとう…」
小梅から笹で包まれた菓子を受け取り、初は店を後にした。
「……」黙って、初が去って行った暖簾を食い入るように見つめる一。
朝比奈は眉を潜め、持っていた湯飲みを置いた。「おい、どうしたよ、一」と、声をかけるが朝比奈の言葉にも、一は反応しない。これは一体どうしたことか…と、朝比奈は首を捻る。ここに八が居たら、ため息を吐いて頭を抱えていただろう。
「お初殿…」と、呟く一。
「あ?お初?」
「なんて、美しく健気な方なんだ…!」
頬を赤くし、興奮した面持ちで暖簾を見つめ続ける一。
朝比奈は何故一が今まで黙っていたかを悟り、のぼせて気持ち悪くなった時のような気持ちになり、頭を抱えた。
「お前…お初はいかんだろう」と、朝比奈は言うが…
「お初殿の為に、俺は必ず事件を解決…そして、俺はお初殿と…!」
一の耳には全く入っていなかった…恋は盲目とはこのことだ。
「こうしちゃいられねぇ、聞き込みだ!」
「ごちそうさん!」と、金子を机に置いて、一はつむじ風のように消えてしまった。
一のやる気の入りように、茶屋にいた朝比奈と次郎八はぽかん、と口を開けたが、次郎八はややぁ、と首を振って苦笑を浮かべて温くなった茶を啜った。
「旦那の色恋の絡まるとあの俊敏さは…いやはや、なんと、まぁ…」
次郎八の言葉に、ずっと固まっていた朝比奈はようやくまん丸くかっ開いていた目と口を閉じた。
「…いつも、あれ位…いいや、あれの半分の半分でいいから張り切ってくれりゃあいいのによ…!」
頭を抱えて嘆く朝比奈。一のやる気の動機を考えると、その不純さに更に頭が重くなった
不純な動機で俊敏に…