二
殺人シーンがありますので、苦手な方は注意してください。
寺の外に出ると空は茜色に染まり、子ども達が家への生地をかけていく姿が見えた。かけていく子ども達を見ていた海はポツリと呟いた。
「…お初は、昔この寺に捨てられていた」
何かを思い出すかのように海は目を閉じて茜空に顔を向けた。
「俺が九つの時、お初はまだ目も開かぬ、本当に生まれたばかりの赤子だった…門の柱に薄布一枚でくるまれていたのを雲海様が見つけられたのだ」
「雲海様が…」
今は亡き、海の育ての親であり一の剣の師…微笑が絶えず、穏やかで、しかし強かで、弱者を守り強者を奮い立たせる人だった。
* * *
寒い、凍えるような冬の夜だった。冷たい霰とも雪とも取れるその夜に、門の下から小さな泣き声が響いた。仏像の前で今日を唱えていた翁の声が止まり、後ろで手を合わせていた小坊主の手も止まった。
『いかがなされましたか、雲海様』
キリリ、と涼やかな目元に多少の鋭さを持つ小坊主は、目の前の師の背中を見つめる。
『これは、いかんな…』
『雲海様?』
ゆるりと立ち上がる雲海の背を幼い海は追う。羽織もかけず、雲海はシンシンと白に染まる外に出た。草鞋を履いた海も後ろについて歩く。
門の前までくると、その小さな声に海も気づいた。膝を付き、雲海が抱き上げたその小さなおくるみに、慌てて自分が巻いていた襟巻きでくるみ直した。
『あぁ…寒かったろうに』
慈しむ暖かな声に、赤子がぐしゃぐしゃの顔で泣いた。海は雲海から手渡された赤子を、冷たい風から守るためにそっと抱きしめた。
『ふぁっ、あー…うぇぇん…』
『…母親は?』
『おらぬの…よほどのことであろう、己の子を手放せばならぬとは……』
悲しそうに目を細めて手を合わせた雲海の視線は遠く、「あぁ、赤子の母親を見つけたのだ」と、理解できた。千里眼を持つ雲海には、この赤子の親のことがわかったのだろう。その眉間には深く皺が刻まれている。
『南無阿弥陀仏…』
経文を唱え始めた雲海に、海は眉間に皺を寄せて腕の中で泣き声を上げている赤子を見下ろす。真っ赤な顔で泣くその赤子をそっと抱きしめて顔を擦り寄らせた。
『泣くな…雲海様が……俺がいる。お前は一人ではないぞ』
しゃっくりを上げる赤子にそう言って、海はぎこちなく笑う。その顔を見て、赤子は海の頬に、小さなもみじの手を伸ばした。
『あー…』
『つめたっ…お前、体が冷えてるな…』
雲海は合わせていた手を解き、ゆるりと笑った。
『あぁ、冷えてきたのぉ…』
さくさくと境内の中を歩く二つの影。ふと、思い出したように雲海が後ろを歩く海を振り向いた。
『海、お前がその子を守る名をつけるのだ』
雲海の言葉に、海は目を丸くし、『そんな…俺がなんて……』と、首を横に降ったが、雲海は、目尻に皺を寄せて、笑う。
『その子は、お前が笑わせた。お前が笑顔をあげたのだ。ならば、形に残るものもおあげ、それがその子を守る糧となる』
海は腕の中で手を伸ばす赤子をそっと抱きしめて、笑った。楽しげな声を上げる赤子を持ち上げて、空に掲げた。
『…初。お前は、今日から始まったんだ。いつか、お前を守る奴が表れるまで…俺が、初を守ってやる』
『ほほ、よきかな、よきかな…ずいぶん体が冷えてしまったのう、さぁ、温かいものでも飲もう』
『はい』
深深と冷える雪空の下で、雲海は楽しげに目を細めた。
* * *
懐かしい面影を思い出し、海は柔らかく微笑んだ。
「…では、お初殿は、昔から今日までここに住まわれていたのですかい?」
「否、お初は十三の時に寺を出た。今日は久方ぶりに帰ってきたのだ」
海はふ、と、零すように息を吐いて首を横に振った。
「皮肉なものだ…祝言をあげるつもりで寺に戻ってきたはずが、葬儀になるとはな」
ぐっと、眉間に皺を寄せて苦悩の表情を浮かべる海に、一は眉を八の字に下げた。
「お初殿は、泣かないので?」
「あぁ、先に見たとおり、ああして体を動かして、泣くまいとしている」
境内に目をやると、本堂の前で濡れた落ち葉を集めて、忙しそうに動く初の姿。その姿が海の目には痛々しく見える。
「…全く、ばか者が」
一は、顎に手を添え、これまで見てきた妖の姿を思い浮かべるが、来度の事件の妖が、どんな妖が皆目見当もつかず、首をひねる。
「海殿、妖には心当たりが?」
「…あぁ、亡骸には、花の香りがついていた。つぼみが膨らみだしている花が怪しいだろう」
「なるほど、なら、八の出番ですね」
「オイラが、妖の香りを探ればいいんですね」
「そうだ、すまねぇな。八」
背丈が小さな八を見下ろし、海は眉間に皺を寄せて頭を下げた。それに対し、八の顔は穏やかに笑っている。
「オイラのこんな力が人の役に立てるんですから、頭を上げてください。海和尚様」
自分の首に巻かれた黒い布をそっと掴み、八は首を横に振り「オイラは、呪われた犬神憑き…妖怪を探る力がありやす。人を殺すことじゃなく、生かすことに使えるオイラは、なんて果報者なんでしょう」と、笑う八の頭を、海はくしゃくしゃと撫でた。
「…こんなことを言っていいのかわからねぇが、犬神が選んだガキがお前でよかった。人を生かすことに喜びを感じてくれるお前で、本当によかった」
海の言葉に、八は目を伏せて、困ったような大人びた笑みを浮かべた。その様子を見て、一は、カリカリと頬を掻いた。
「…そう、なんですかね」
消えそうな八の言葉に一は開きかけた口を閉じて、自身の首をカリカリとかいて苦笑し「では、海殿、また後日」と、軽く会釈し寺を後にした。
「今日の夕餉は雪屋にするか」
茜色に染まる大通り、商人達は帰り支度をし、子ども達の手を引く…その中を一と八は歩いていた。八の頭は叱られた子どものようにうなだれていて、一は後ろを歩く蜂に振り返った。
「どうしたァ、八。さっきは元気だったってのに今は縮こまっちまって、まるで”見越しの入道”みてぇだぞ」と、からかう一の言葉に八はうなだれた頭を更に下げた。
「旦那、お気遣い、ありがとうござます」
「何のことだよ、俺ァ腹が減ったから早く雪屋に飯を食いに行きたくなっただけだぜ」
一はそう言って笑い、顔を前に向ける。目の前に広がる茜に染まった江戸の街は、殺しがあったことも忘れたように日が暮れていく。行く人行く人の顔には笑顔、泣き顔、怒り顔…様々な表情がある。それでもやっぱり多いのは陰気を吹き飛ばすあっけらかんとした笑顔だ。
「この町にゃ陰気は似合わないな、八」
そよそよ吹く風は、一の一本結いの髪を揺らした。空は燃える茜からいつの間にか薄紫に変わっていた。並ぶ店先には、赤や白のちょうちんが明かりを灯し、道を照らしていた。
「すっかり冷えたなァ…番所の囲炉裏にでもあたってから行くか」
番と書かれた障子の扉。木の小屋の前にもちょうちんの明かりが灯っているのを見て一は小さく伸びをした。八は「何か忘れているような…」とつぶやきながら首をかしげた。一は八に首をかしげながら白い提灯の下がった引き戸を開けた。
「次郎八、ちっと囲炉裏にあたらせて…」
「はぁじめぇぇぇえ!!」
その怒鳴り声に、一は引き戸を開けたことを後悔した。先に八を入れるべきだった…と、目の前で赤鬼顔負けの恐ろしい形相で仁王立ちしている朝比奈に一は口端を引きつらせた。「朝比奈さん、赤鬼みてぇになっていますぜ」と減らず口を開き、朝比奈の額に青筋が浮かぶのを見た八はため息を吐いて顔を抑えた。
朝比奈の拳骨が一の頭に落ちた。そして隣の隣にまで響くような轟音で雷並みの怒鳴り声が響いた。顔を抑えていた八は静かに耳を塞いで開け放されていた引き戸を閉めた。そして、番所の中に残された一は怒る朝比奈を宥めようとしていた。
「朝比奈さん、そんなに頭に血を上らせているとこの間おっ死んだ、シゲじいみたいにポックリ逝っちまいますよ」
「ド阿呆!シゲじいさんは年だ!!俺はそこまで年くって無いわ!!」
宥めているというよりも挑発しているようにしか思えない一の言動…朝比奈の額には血管が浮かんでいる。八と違い逃げ遅れた朝比奈の下っぴきは泣きそうな顔で、一と朝比奈を見比べている。付き人と下っぴきの違いか、朝比奈の下っぴきはいつも人の顔色をうかがってびくびくとしている。一は横目で下っぴきを見て、小さくため息を吐いた。朝比奈の説教が続きそうになった矢先「ぎゃあぁ!!」と、男の叫びが夜の町中に響いた。
「旦那」
八は引き戸をすばやく開けて、口を一文字に結んでいた。一は朝比奈に目配せし、すべるようにかけて番所を後にする。「おう、お前はここで待ってろ」と朝比奈は腰が抜けて真っ青になった下っぴきに言うと、早いこと、下っぴきはすぐさま首を縦に振った。
「八、行くぞ」
「へい」
一は八を連れて、叫び声があがった方角に走り出した。「八、どこらかわかるか?」と、一が言うと八は鼻を空に向けて静かに頷いた「へい、大分濃い匂いが漂ってるんでわかりやす」と言うや否や、郡、と走る足が早くなる。そこいらの馬よりもよっぽど速い八の足は一を気にして遅くしているのだから適わない。一は足に力を入れる。
「どこらだ、八」
「先に上がった躯と同じ川原の土手原です」
先を行く八の目に、ちょうちんの明かりが見えた。
「あ、あ、あ…」
男の呆然とした声を聞き、八は手に持った白ちょうちんで男を照らした。結い上げてある頭だが反られてはいない。おまけに着物は着崩されていて、肩からちらりと覗いた彫り物がヤクザ者と言うことが容易にわかった。腰を抜かし地べたに座り込むヤクザ者と目を合わせるために一は屈みヤクザ者の襟首をむんずと掴んだ。
「粋な兄さんが何をそんなに怯えているんだい?」
ヤクザ者は一の肩に縋るように両手を置いて唇をがたがたと震わせた「あ、あぁ、あにき、あにきがぁっ!」と、何度もうわ言のように言い続ける。一は八に目を向けると、八はすでに男が呆然と見ていた先をちょうちんで照らしていた。
「こいつは、ちとえぐいですね」
そう言って、一に見せるために身体を横にずらし、口と鼻を袖で押さえて異臭から身を守った。ヤクザ者は一層震え、情けない声を上げて一は眉間に皺を寄せた。一は縋るヤクザ者から離れ、八の隣に立つ「こいつぁ…ひでぇな」と、白い明かりに照らされたものに深く皺を寄せた。
土手原の道の真ん中、干からび、瞳の無い首がこちらを見て口を魚のようにぱくつかせている。周りには散らかしたように千切れた手足、そして、まるで熟れた柿が地面に落ちたように内臓が地面にぶちまけられていた。無論、血は一滴たりとも残されてはいなかった。一は未だ口をぱくつかせている首の前にしゃがんだ。首が、無い瞳で泣いたように見えた。首が言う。しわがれ、まるで翁のような声で言った。
「兄ぃに、盃返さねば…兄ぃ、兄ぃ……」
近くに落ちていた腕がしっかりと握り締めている無傷の真っ白な白磁器の盃に一は気付きその干からびた腕ごと持ち上げた。その白い盃を、首の前に突き出した。
「俺ァ柳川 一、アンタの名は?」
首はヒューヒューと空気を吐き出し、かすれて徐々に小さくなっていく声で「大江戸一家、立川龍之介が右腕…狛犬の刃、だ…」と、しっかりと言った。一は首をまっすぐに見据えて杯の自分の手に乗せた。
「相分った。この盃主、狛犬の刃、アンタの杯必ず俺が届ける。アンタの言葉と共にな」
一の言葉に首の乾いた唇がゆっくりと弧を描いて「ありがとよ」と、声なき声で呟いた。なき瞳を空に向けて…
「兄ぃ、ありがとうよ…」と、その一言を最後に、首は何も言わなくなった。後ろで震えていた男は呆然と見ていて、八はぶちまけられていた肉片を一箇所に集め終わり、ようやく朝比奈と他の同心が息を切らしてきた。集められた身体を見て、若い同心達は顔を青くしたり背けたりした。朝比奈は眉間に深く皺を寄せてガリガリと首を掻いた。
「また、血がねぇのか…おまけに身体はバラバラ…惨いことしやがる」
未だ放心した男に話を聞こうにも、可笑しくなったかのように「女…兄貴……」と繰り返すだけで話にならない。同心達は集められた身体を大きな一枚布に包み二人係で持ち上げた。「朝比奈さん、運びますよ」
「おう、立てるかい兄ちゃん」
朝比奈は放心した男に肩を貸して連れて行った。その場に残ったのは杯を持った一と八の二人だけだ。八は何もしゃべらない。ただ静かに一の後ろに佇んでいる。風が二人を緩やかに抜けていき、一はようやく口を開いた。
「花か蝶にたとえる女は多いが、中身が腐っちゃ意味がねぇ」
低く鋭い声で唸るように言いながら、一はギリリと掌の皮が破けるほどに強く握り締めた。八はちょうちんを持ち直し、一の後ろ姿を見つめた。
「…八、悪いが明日っから忙しくなるぜ」
「はい」
ぴりりと冷たい空気をまとった一に八は深く頭を下げた。
手折られた花は、もう戻らない。
あぁ、かなし、あぁ、かなし
くすくす、くすくす、女の鈴を転がすような笑い声だけが、闇夜に響いていた。
※犬神憑きは、本来、女性しかいませんが、この物語の都合上、男についています。違和感を感じていたらすいません。