花鬼の章、開幕
直接的ではありませんが、人がなくなっているので、ご注意ください。
静々と震える川原道、冷たい夜の風が清八の顔を撫でた。サワリサワリと草を踏めば青い匂いが鼻をくすぐる。こんな静かな夜には物の怪でも出そうな塩梅だ…自分の考えに肩を震わせ、振り切るようにして前を見る。白いちょうちんの明かりがあぜ道を照らし、ふと、気づいた。
「はて、おかしいな」
ちょうちんで照らした先には女が佇んでいた。
「娘さん、娘さん。こんな夜更けに如何した?」
誰もいないあぜ道に娘の絹のような肌がちょうちんに照らされ、なまめかしく、うなじにたれた黒髪が肌の白さを際立てる。ごくりと鳴りそうに鳴る咽を慌てて抑え、邪な考えを飲み込んで娘に近寄る。よく見れば娘はその目から涙をこぼしていた。
「娘さんや、何がそんなに悲しいんだい?」
優しく問う清八に娘は静々と泣くばかり、困り困った清八は首をカリカリと掻くだけ…しかし、この清八、泣いた女をそのまま置き去りに出来るような男ではない。お人よしで有名なのだ。根気強く娘の言葉を待つ清八にようやっと袖で隠していた唇をゆっくり開く。
「花が、咲かぬのですよ…」
その紅を引いたように赤い唇に目を奪われ、鈴のような声に酔いしれそうになる。クラクラする頭を抑えて清八は問う。
「花?」
「はい…花が咲かねば……」
そこまで言うと、娘を泣くばかり、清八は恐る恐る娘の細い肩に手を置いた。するりとする肌触りの着物はまるで花びらのように柔らかい。
「娘さんや、花はどうすれば咲くのかな?俺に出来ることがあれば協力しよう」
ぴたり、娘の嗚咽が止まる。吹いていた風はいつの間にか吹いておらず…しかし、清八は気づかない。
「本当に、してくれるのですか?」
うつむいたままの娘の鈴の声が耳に響く。泣き止み返事をした娘にほっとして、「もちろんだ」と、大きく頷いた。
「あぁ、何てお優しい…」
娘は清八の背にそっとしなりかかる。清八は驚いてちょうちんを持った手と持たぬ手を頭の上に上げて固まる。どうするべきかと目を泳がせ、清八はふと、思い出したように娘を見下ろし、「娘さん、名はなんと?」と言う。娘はうつむいていた顔を上げ、清八の顔にその赤い唇を近づけてきた。娘のすることに驚き慌てて娘を離そうとするが、娘の爪が強く背に食い込み、短く呻いた。娘の唇が三日月に弧を描き、ゆるりと開かれる。
「つばき…椿鬼と申しますの」
赤い唇が、清八の切れた唇に重ねられ、どくり、と嫌な怖気と寒気が走る。振り払いたいのに、目の前の華奢な娘の腕はまるで相撲取りのように強く振り払うこともできず、がくがくと出来そこないの絡繰り人形の様に手足が震えて上がらない。
<すまねぇ…お初…!>
薄れゆく意識の中、花のように笑う婚約者が見えた。
* * *
朝の鳥が鳴くより先に、女の高い声が江戸町中に響いていた。集まる野次馬連中はかわるがわる除いては呻いて、袖で顔を隠したり中には口を抑えて吐きそうになっている奴がいる。
「あぁ…こいつァ、ひでぇな」
川原に倒れた亡骸を目にして眉間に深く皺を刻む老同心、朝比奈源十郎は白い息を手に吹きかけて暖をとりつつ、ため息を吐いて亡骸に手を合わせ拝む。
「しかし、可笑しなもんだ…」
はて、と首を傾げて朝比奈は顎を撫でる。首を傾げるほどその亡骸は不思議なもの…生きていたはずの人間も今じゃまるで干物のようにしわしわに干からびている…のにもかかわらず、唇だけは紅を塗ったかのように赤く瑞々しい。そして、男物の着物と結い上げた髪があるためにかろうじでこの亡骸が男だとわかることだけだ。
「こいつぁ、一体いつおっ死んだんだか、なぁ?お?」
後ろにいるはずの男に問いかけようと後ろを振り向くが、振り向いた先には自分の下っぴきの小僧だけ…
「おいおい、あいつぁ、どうした!?」
下っぴきの小僧に思わず強く言うと小僧は方を跳ねさせた後に、体を縮こまらせて、おずおずと口を開きながら指差した。
「だ、旦那なら、あそこで……」
「あん!?」
指差された先には団子の暖簾。そして、その下に長い髪を風に揺らす花に一文字の傷跡が残る男が団子を頬張り唸る。その後ろには鼻の頭にゴマをつけた少年が呆れた顔で見ている。
「もそっと甘いのが俺は好ましいなァ」
「旦那…また朝比奈の旦那に大目玉を食らいますよ?」
呆れたように腰に手を当てて八は言う。
「なに朝比奈さんは今、仏さんと逢引中だ。気付きゃしないさね」
そう言って、開いた手を振り、しょうゆの甘ダレがかかった団子を口に運ぶ男の後ろに立った額に血管を浮かべる人影に八は「オイラは、ちゃんと申しましたからね」と、両手で耳を塞いだ。その行動に男が口を開くより先に、頭に雷が落ちた。
「こんの馬鹿者が!!」
「あいてっ!うへぇ…朝比奈さん何時の間に後ろに?まるでぬうりひょんだ」
頭に落とされた拳骨で、手に持っていた団子は地面に落ち、アリがご馳走だとうれしそうに群がってきた。それを見た男は口をへの字に結んで「あぁ、もったいない…みたらしはまだ食べていなかったのに」と愚痴を呟いた。
「やかましい!ふざけたことを抜かしてないで、お前も仏さんに手を合わせろ!」
額に青筋を浮かべた朝比奈は男の耳を容赦なくぐいぐいと引っ張り、「あいてて、ちょいと朝比奈さん。俺は耳なし法一にゃなりたくないですよ」と男の訴えにも耳を掴む手は緩めずに引っ張る。
「お前の怪談はいいんだよ、今回の仏さんのがよっぽど怪談だぞ、一」
朝比奈のその一言に、ずっと減らず口を叩いていた男の口はぴたりと止まり、引き摺られた先にある亡骸を見下ろす。カラカラに干からびた男…干からびたはずなのに唇だけは潤い赤い。
一の目が細り、「こいつァ…」と、珍しく神妙な一の様子に朝比奈も神妙に頷きながら、ごくり、と、つばを飲み込んで一の言葉を待つ。
「一体、死ぬ前にどんなべっぴんさんと※口吸いしたってんだ!うらやましい…」(口吸い=キス)
心底、うらやましいという表情で拳を握りうなだれた。後ろにいた下っぴきと八は静かに耳を塞いで後ろを向く。見物していた野次馬もそれに習って耳を塞いで横を向く。一ひとりが頭を抱えて亡骸の前に立っている…後ろに鬼のような形相で見下ろす朝比奈に未だ気付かず…
「一…この、大大馬鹿者がぁぁ!!」
江戸じゅうに響き渡る雷神様の特大雷。しかしこの大江戸ではいつものこと…朝比奈に叱られるこの少し変わった同心、柳川一。
その人こそが、この大江戸唯一の妖退治屋なのでございます。
毎週、金か土で更新します。
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