剛腕のダエルと白き花嫁
がじゃり、がじゃりと重量を感じさせる足音が近づいてくる。
居並んだ人々は一斉に顔を伏せ、息を殺した。
これからあらわれる男と、間違って目でも合ってしまえば、殺される。
がじゃり、がじゃり。
可能な限り深く頭を垂れた人々の目に映ったのは、婚礼の儀にのみ用いられる青い敷物を踏みつけて通り過ぎてゆく、巨大な足だ。
黒い防具に爪先までも覆われたその足の、一歩一歩の響きの重さだけでも、この男の前に立ちはだかることがいかに馬鹿げた試みであるか、人々に腹の底まで思い知らせるに充分であった。
人前で決して武装を解かぬといわれる、キハーナ族の猛将「剛腕のダエル」。
その前を塞いで、生きて戻った者は誰もおらぬ。
剣の一振りで、五つの首を飛ばす。
伝説にうたわれる「不死身の戦士」の生まれかわり――
キハーナ族に臣従を誓ったこの地を治める者としてやってきた彼は、今日、族長の息女、白き乙女を娶る。
がじゃり。
ダエルの歩みが止まった。
青い敷物の尽きるところに、ふたつの席がしつらえられている。
そのひとつは、金の粒で飾られた、青い布の天蓋に覆われている。
その中に、彼の花嫁がいるはずであった。
ダエルが、もうひとつの席につけば、婚礼の儀がはじまる。
「……兄上?」
ダエルの背後に付き従い、重い毛皮のマントを捧げ持っていた男が、怪訝そうに呟いた。
ダエルの弟、セーダンだ。
黒髪をたてがみのように編み込んで背に垂らし、頬にいくつもの傷を帯びた彼もまた、兄に劣らずおそれられるキハーナ族の戦士である。
ダエルは、爛と光る眼を青い天蓋に据えたまま、身動きしない。
と、彼は急に籠手に覆われた腕を伸ばし、むんずと天蓋を引っつかんだ。
ばきばきと骨組みの折れ砕ける音、人々の息を呑む音が重なる中、引き破られた青い天蓋のうちにいた、白き乙女の姿が晒された。
生まれてよりこのかた陽の光を知らぬような、真っ白な肌。
金色の長い髪のまつわる、細い首。
今にも風に紛れて消えてしまいそうな姿の乙女は、席の上で体をすくませ、花嫁衣装と同じ美しい青の目を見開いて、夫となる男の姿を見上げていた。
震えている。
「おい、おい」
婚礼の場を凍りつかせた沈黙を破ったのは、セーダンの呆れたような声だった。
「この娘が? 本当に、この娘が、この土地で一番の美女なのか?
なんだ、棒きれみたいに痩せてるじゃないか。
兄上、よしたほうがいいんじゃないですか? こんな痩せっぽちじゃ、最初の赤ん坊も生み切れずに死んじまうかもしれん」
「貴様ァ!」
怒号したのは、ダエルではない。
参列者のあいだから、若い男が飛び出した。
抜き身を手にしている。
人々のあいだから悲鳴のような声が上がった。
キハーナ族の男たちに逆らえば、殺される。武器を抜いてしまった。皆殺しにされる――
「これは、失礼」
セーダンは顔を二分しそうな笑みを浮かべた。
兄の婚礼の場でも当然のように帯びていた長い愛剣を引き抜くまでが一瞬。
それが一閃し、猛然と突っ込んでくる若い男の首を――
ガッ、と凄まじい音がして、吹っ飛んだのは、若者の首ではなく、剣を手にしたままのセーダンだ。
錐揉みして地面に突っ込むセーダンの体を、人々は焼け石か何かのように飛び退って避けた。
「俺の、婚儀の場を」
鉄錆びたような、低い声。
「剛腕のダエル」が、口をきいているのだと、人々が理解するまでに一呼吸かかった。
「血で穢すな」
底光りするような目が、動いて、抜き身を手にしたままの若い男を見た。
「ひ、あ」
青い敷物の上に、刃を取り落とし、若い男は脱兎のごとく逃げ出した。
「放て。斬るな」
婚儀の場を囲んでいたキハーナの戦士たちは、ダエルの命に服し、指一本動かさぬ。
「あがががが」
歯が折れたかも、なんで殴るんですか、と急速に腫れ上がる情けない顔で訴えてくる弟には目もくれず、ダエルは、ゆっくりと花嫁の席を振り向いた。
白き乙女は席の上にちぢこまり、がたがたと震えていたが、夫となる男の一瞥を受けて、かくりと気を失ってしまった。
「続けよ」
「へあっ、はっ? はあっ!」
ふたつの席の真横で置き物と化していた司祭が、自分も今にも引っくり返りそうな声をあげて応える。
花嫁が気を失ったままという前代未聞の婚儀は、そのまま進み、滞りなく終えられた。
がじゃり、がじゃりと、重い足音が進む。
その、すぐ前を、あるかなきかの衣擦れの音だけを立てながら、青い花嫁衣装を着た乙女が進んでゆく。
まるで、巨大な怪物が小鳥を追いたててゆくような光景だった。
意識を取り戻した花嫁を待っていたのは、婚礼の儀は無事に終わり、自分はすでにダエルの妻となったという報せだった。
その細い首には、キハーナ族のならわしである金属の輪が嵌められていた。
複雑な紋様を刻み込んだ重い金属の輪は、夫が妻に与えるもので、生涯外れることのないようにと、曲げて輪とした先端と先端を熔かして合わせてあった。
あれからすぐに、馬車に乗せられ、花嫁が連れてこられたのはダエルの館だ。
館を守る男たちはもちろんのこと、女たちさえもが武装している。
廊下の先に、黒い扉があった。
立ちどまった花嫁は、次の瞬間、ひっと息を呑んだ。
背後から、顔の真横に、籠手に包まれた手がぬっと差し出されたのだ。
その手は、大きな鍵をさげた鎖を掴んでいた。
花嫁は、白くか細い手で、重い鍵を受け取り、自分の手で錠の鍵穴に差し入れ、回した。
錠の外れる音が、ひどく恐ろしげに響いた。
錠は、花嫁の両の掌でも包みこめぬほど大きく、重く、外すのに暇がかかった。
花嫁には、振り返って見る勇気はなかった。
背後でものも言わずにいる大男の、覆い被さってくるかのような威圧感がおそろしく、また、これから部屋のなかで自分を待つ出来事がおそろしくてならなかった。
「入れ」
地を這うような低い声が、背筋を撫でる。
ぎいいいいと軋む厚い扉を引き、花嫁は、意を決したように寝室へと踏み込んでいった。
この部屋を囲む壁の分厚さは、細長い窓が切り取る空の遠さから分かった。
部屋の隅は、みな陰に沈んでいたが、すでに火の入っている暖炉のあかりが、巨大な寝台を照らし出している。
花嫁は一歩、中に踏み込んだところで、立ち止まっていた。
それ以上、足が前に出なかった。
男の指先が、肩に触れた。
彼女は逃げるように身をよじり、さらに三歩、奥に進んだ。
そして振り向いて、夫の姿を見た。
揺れる炎の光に照らされた男の姿は、冥府から歩み出てきた番人のそれのようだった。
全身を覆う、黒ずんだ金属の武装。
人間の手で振るえるものとは到底見えぬ、巨大な剣。
その顔は、岩を荒々しく刻みあげた彫像にも似て、いくつもの傷痕があり、無慈悲に結ばれた口があり、爛と光るおそろしい目があった。
いくつにもねじり編み合わされた長い黒髪は、肉食獣のたてがみのようだった。
大きな手が、ぐいと突き出され、彼女は悲鳴をあげてさがった。
「錠と、鍵を渡せ」
低く唸るような声が言った。
「誰も、入れぬように」
それが何のためか、想像するだにおそろしく、花嫁は重い錠と鍵とを握りしめたまま、身動きひとつできなかった。
だが、そうしたところで、何の意味があろうか?
この扉の外にいるのは、目の前の男の手勢ばかりなのだ。
部屋の外に助けを求めようと、あるいは目の前の男の手をかいくぐって逃れようと、全て無駄なことだった。
がじゃり、と足音を立てて「剛腕のダエル」が一歩近づき、花嫁の手からいともたやすく錠と鍵とをもぎ取った。
彼が背を向け、内側から扉に錠をおろすあいだ、花嫁はむなしく部屋を見回し、身を守るすべはないかと探し求めていた。
暖炉のかたわらに立てかけられた、黒い鉄の火かき棒がその目にとまった。
だが、自分の力で、あんなものを振り回すことができるだろうか。
たとえ持ち上げ、振り上げ、振り下ろすことができたところで、それで、幾多の勇士たちを打ち破り無敗とおそれられる剛腕のダエルを打ち倒すことなど、できそうにない。
彼を怒らせたら、自分の細腕など、あの天蓋の骨組みのように掴み砕かれてしまうだろう。
ああ、だが、このままでは――
一歩、火かき棒の方に寄ったところで、錠の金属音が響き、ダエルが振り向いた。
その目に見られただけで、彼女はもう、動けない。
「座れ」
群狼のごとき男たちを戦場で指揮する、命令することに慣れ切った男の声には、逆らう意志を根こそぎ消し飛ばすような力があった。
花嫁は今にも倒れそうな足取りで、寝台に近づき、その端に座った。
できることなら、このまま、もう一度気を失ってしまいたかった。
あの呪わしい婚礼の儀のように、気がついたときには、全てが終わっていればいい――
がじゃり。がじゃり。
冥府の番人が引きずって歩くという鎖を思わせる音を立てて、ダエルが歩み寄ってくる。
花嫁は、腿の上で固く両手を結び合わせ、うつむいて自分の手だけを凝視しながら、近づいてくる男を待ち受けた。
厚い毛皮のマントがはらわれると、野の獣を思わせる、男のにおいがした。
石のように身を固くする乙女のかたわらに、ダエルが腰を下ろす。
武装した長身の重みに、寝台の敷き藁は大きく沈みこみ、乙女は声もなくダエルの方へ倒れかかった。
その細い肩を、籠手と革手袋に覆われた手が、支えた。
花嫁は、目を見開いた。
ダエルの手は、そうっと、彼女の体をもとのように押し戻した。
だが、沈みこんだ敷き藁の傾きは変わらず、ダエルの手は、彼女の肩を包んだまま支え続けている。
「まわりの、者どもが」
耳元で、ぶつぶつと、何か唸るように言う声がした。
「おまえに、何を言ったか、知らぬが、……あの、礼儀知らずの、弟のような者どもが……何を言ったか、知らぬが、俺は、そうは、思わぬ。つまり、おまえが……痩せすぎているとか、棒のようだとか」
花嫁は、おそるおそる、青い目だけを動かして、夫の顔を見上げた。
ダエルは、彼女の肩を支えたまま、おそろしげな顔で、床をじっと睨みつけながら喋っている。
「そんなことは、ない。おまえは、まるで、……花のようで、美しい、と、思う、俺は」
これは、夢だろうか。
自分は、恐怖のあまりに、幻でも見ているのだろうか?
ダエルの傷だらけの顔が、赤く見えるのは、暖炉の炎のあかりのためだろうか。
「おまえは……姉妹たちの、かわりに、俺に、差し出されたと、思っているのだろうが」
彼女は、はっと身じろぎした。
族長には、彼女をいれて四人の娘があった。
姉たちと妹は遠くへ逃がされ、体のよわい彼女だけが、残された。
姉たちと妹は、一族の血を繋ぐため。
彼女は、臣従のしるしとして征服者にあたえられ、一族の安泰をはかるため。
「俺は、おまえを、望んだ。一年前、この地を、探りに来て、おまえを見た……白い、エーシエンの花の咲く、野原で」
わすれられなかった、と、呟く声は、本当にこの男のものか。
戦場で、立ちはだかる者をことごとく血塗れの肉塊に変えるという、このおそろしい男の?
「おまえを、妻に迎えて、俺は、嬉しい……」
両肩をつつみこむ男の手に力がこもり、彼女は小さく悲鳴をあげた。
ダエルが弾けるように手を放すと、彼女のほっそりとした体はもう一度、彼のほうに倒れかかり、まるですがりつくような姿勢になった。
この、かたく冷たい鎧におおわれた内側には、彼女と同じ体温を持つ肉体があるのだろうか。
伝説にうたわれるような不死身の戦士のそれではない、温かい肌と、早鐘のように打つ心臓が――
革手袋におおわれた大きな手が、まるで触れたら砕けるかけらでも扱うようにそっと、彼女の髪を撫で、彼女の首に嵌められた金属の輪を撫でた。
「見たか?」
「えっ?」
初めて、花嫁は声をあげ、ダエルの顔を見た。
「おまえに、贈った、首飾り」
ダエルは、少年のように笑っていた。
「こう、刻ませた。『この者は我、剛腕のダエルの妻。手を触れんとする者には、我が剣を』と――」
ダエルはもう一度、彼女の両肩をつかみ、起き上がらせた。
「おまえは、我が妻、俺がおまえを守る。大切にする、必ず……」
何度もうなずいてみせ、彼は、立ち上がった。
「今は、疲れている、だろう、多分。また来る。多分、今夜、すぐに。おまえは、少し、休んで――」
一歩、扉に向かって踏み出したそのマントが、引かれる。
ダエルは、戦場ではついぞ見せたことのない顔になって、振り返った。
彼の花嫁が、うつむいて、マントの端をかたく握りしめている。
やがて、小さな白い手を、大きな温かい手が包み込んだ。
「エーシエン……」
本当に、不思議なことだ。
花と同じ、この名を呼ぶ低い声が、今は、もう、おそろしくなかった。
【終】