俺は、許すことにした
世間では、姉や妹という存在に多大なる理想を抱いている人がきっと結構いるだろう。
勿論その理想に叶う素晴らしい姉や可愛い妹も存在するのだとは分かっている。だが知ってほしい。そんなものは幻のポ○モン並にレアなものなのだと。
「何それ修太郎、買ってきたの?」
「...そうだけど」
しまった、奴がきた!
リビングに置いたのが迂闊だった。そうか、今日は部活が休みなのか。
妹は袋からケーキの箱を取り出し蓋を開けると、興味深そうにそれを眺める。
「ふーん」
「あっ」
折角専門の店に寄って買ってきたケーキが妹の手に!そのまま口に入れる気か!
貴様、妹!止めないか!
「うわ、何その顔。キモいんだけど」
「...返せよ」
顔はお前も似たようなもんだろが!
「は?何で?修太郎が食べるより私が食べた方がケーキも幸せだし」
「何馬鹿なこと言ってんの美里。ケーキに意志なんてないよ」
うるせえぞ姉!妹から一口貰おうとするな!
「修太郎、あんたお兄さんでしょ。あげなさい」
最後には母親の鶴の一声で、俺は大事なケーキを失った。
こんなことは、日常茶飯事だ。早く脱出したい。
中学三年生の俺は、切に願った。
この状況が大きく変わるなんて、この時はちっとも考えていなかった。
俺こと桐田修太郎ぴちぴちの十八歳には、三つ年上の姉と二つ年下の妹がいる。
姉の名前は杏奈。父親の頭の良さと母親の運動神経と美貌とをいいとこ取りした、正にリア充である。大学の為に上京して今は一人暮らしをしている。
今、俺を少しでも羨ましいとか思った奴、慌てるな。
こんな全てを持って生まれた人間の性格が、いいと思うか?そう、姉は無自覚で性格が悪いのだ。
俺を見下すだけならまだ良かった。だがこの姉は、自分より劣る人を誰であっても本心から低能とか言っちゃうのだ。ハイスペックな自分を基準で考えるから、それがどれだけ周りに迷惑をかけているか分からない。
小学四年生の頃から因数分解を理解して「え?こんなの誰でも出来るでしょ?」とか、相当だと思う。
姉が余裕で合格した高校も、俺は必死で勉強してやっとだった。これがどれ程残酷なことか!
親まで姉を基準にするから、合格して当たり前という圧力を毎日かけられ、ノイローゼ気味になりながらもひたすら勉強した日々を思い返すと、今でも泣けてくる。
俺の頭は姉みたいにスポンジでは出来てないのだ。
だから勉強した。俺は運動神経が悪かったし、父親似のカエル顔だったから、伸ばせるのは頭だけ。勉強しかなかったのだ。
高校は姉がいったところしか許してくれなかったが、大学は自由にしてもいいと言われたので将来は家を出て一人暮らしするつもりだ。
母親からは「勉強しか出来ないわねえ」とは言われつつも、俺は家での居場所を確保していた。
姉と俺の紹介が終わったところで、妹の話をしよう。
妹の名前は美里。残念ながら母親の美貌を全て継いではいない。目はくりっとして可愛いけどね。他のパーツは父親譲りなのだが、頭の出来はそれ程父親から譲られなかった。運動神経もそこそこだ。
そんな妹は幼い頃は俺のことを「にーたん」と呼び、とてとてと後を着いてきた。天使だった。こいつだけは守ろうと思った。
だが俺を見下し馬鹿にする姉を次第に真似するようになってしまい、小学校中学年になる頃にはすっかり嫌われて見下され名前呼びされるようになってしまった。
妹は、姉に憧れていた。頭が良くて運動神経抜群で友達(姉の外見に騙されてる奴らだ)が多い姿に憧れ、その妹である自分も、姉のようになれると信じて疑わなかった。母親も、そんな妹を甘やかしていた。
だからだろうか、妹は受験勉強に真剣に取り組まなかったのだ。
勉強なんかしなくても、私なら合格する、だって修太郎も受かったんだし、と舐めた考えで、先生の忠告も聞かず毎日遊び呆けていた。
結果は勿論不合格。当たり前だ馬鹿野郎。
そして、状況は変わった。
妹の不合格を知り、母親は発狂した。
毎日のように妹を怒鳴り、喚き、罵詈雑言を浴びせた。
父親は何もしなかった。元々家庭の問題には一切口を挟まない人だった。
姉は、妹をそれまで多少は可愛がっていたが、それからは俺に対する扱いで妹に接するようになった。
俺は、何やってんだ妹、と思いながらも、特に妹を助けようとはしなかった。
そんな状況で、妹が今まで通りを貫ける筈もなく。
妹は、すっかり暗くなり、自分に自信を失った。
それでも、また昔に戻りたかったんだろうか。
滑り止めで受けた高校に進学した後、妹は毎日夜遅くまで必死で勉強するようになった。
初めての試験の結果が郵便で届いた妹は、その封筒を料理中の母親に差し出していた。
「お母さん、これ...」
「何それ。今料理してんだから後にして」
「ご、ごめんなさい...」
あ、と思った俺は声を上げる。
「それ、俺のもきてたっけ」
「え?早く言いなさいよ。ほら見せて」
「え?でも料理...」
「料理よりあんたの成績の方が大事に決まってるでしょ」
うわ、すまん妹。余計な傷を負わせたな。
妹は母親の言葉にあからさまにショックを受けると、ダイニングキッチンから飛び出していった。
「学年で五番じゃない!すごいわよ修太郎」
母親は、妹の不合格の後から、よく俺を誉めるようになった。
夕食の後、妹が微かに手を震わせながら封筒を母親に渡した。
妹はその場で母親が封筒を開けて成績表を見てくれると思ったようだが、母親は受けとるとすぐに机の上に放り投げた。
妹はまた部屋を飛び出した。
風呂に入ってからアイスを食べ、その容器をごみ箱に捨てようとした時、ギョッとした。
そこには開封された跡もない、ただ握りしめていたことで出来たのであろうシワだけがついた封筒があった。
多分、というか絶対母親だろうけど、えげつないなあ...。
慎重に封筒を拾い上げると、後ろでばさっという音がした。
振り返ると、風呂に入ろうと持っていたバスタオルを落とした妹が、呆然と俺の手にある封筒を見つめていた。
妹は俺から封筒をひったくると、走っていってしまった。
行き先は母親のところだろう。
俺の部屋とリビングは隣り合っている(ついでに妹の部屋も俺の隣だ)。だから、声もよく聞こえた。
「お母さん、あの、これ。私、ほら、この間のテスト、学年で六番目だったの」
おお、よくやったじゃないか妹。中学までの怠惰が嘘みたいだ。お前二百人いる学年で最高でも七十番目だったもんな。
「だから?」
「え」
「あんたの高校、偏差値低いんでしょ?そんなとこで六番目?どうしてそれで嬉しそうなの?」
「...ごめんなさい」
母親よ、それは流石にキツいのではないか。あと、確かに妹の高校は姉と俺の高校よりは偏差値低いけど、一般的に考えたら低くないぞ。
「というか、こんなのどうでもいいから」
「え?」
え?
「あんたには期待してないから、あんたの成績がどうだろうがどうでもいいのよ。うちには杏奈がいるもの」
俺は!?俺はいらないんですね知ってた!
妹が部屋を飛び出す音がして、それきり何も聞こえなくなった。
姉が盆に帰省してきた。
母親にちやほやされ、父親に誉められる姿を、妹は何も言わずにじっと見つめていた。俺はそんな妹をじっと見ていた。
その夜、姉が妹の部屋に強引に押し入り、妹が蓄えていた成績表を発見したらしかった。
「何これ。一学期の?学年で六番と...四番?うわあ、この高校でこれって、あんたそんなに成績悪かったんだ」
姉よ、自分を基準にするんじゃない。妹は一切遊ばなくなったんだぞ。受験生の時の俺と同じ生活をしてるんだぞ。
「ていうか、あんた終わってない?修太郎はまだ頭良いから何とかなるけど、あんたは勉強も駄目って、確実に負け組じゃん?フリーターにでもなるつもりなの?」
姉!
これ以上妹を馬鹿にするな!
もう我慢出来ない、乗り込んでやる!
意気込んで立ち上がった俺の耳に入ってきたのは、コンコン、というくぐもった音だった。
「...美里?」
ドアを開けると、妹がまるで幽鬼のようにひっそりと立っていた。
妹は、蒼白な顔で繰り返した。
「...兄さん、ごめん。ごめんなさい...ごめんなさい...」
何が、とは言えなかった。
妹には何度も苛立たせられたし、恨みもたっくさんあるが、俺は、妹を許すことにした。
俺は妹を部屋の中に入れると、昔よくしてやったようにゆっくり頭を撫でた。