怒った理由
細貝さん不在のまま昼のおむつ交換を終えて、うつむきながら廊下を歩いていると、急に後ろからばしんと力強く肩を叩かれていった。
「うつむくな、笑え―!」
「痛ッてぇぇぇ」
あまりの痛みに顔をゆがませながら振り向くと、細い目をさらに糸のようにさせて笑う細貝さんがいた。
「浅葉君、ナースステーション行こう。それにまず、その顔止めて。看護師が辛気臭い顔すると患者さんにうつるよ」
俺の左腕をカップルのようにとり、細貝さんはにこにこ顔で俺のことをナースステーションに連行していく。
佐藤さんから俺の代わりに叱られて、細貝さんはさぞ俺を恨んでいるに違いない。
ナースステーションの真ん中についた途端、あの細い目がぐっと見開かれて、怒りのお言葉が雷のように次から次へと降ってくるのだろう。
そう思うと、一気に顔が青くなって額からタラリと冷や汗が流れ出していった。
「あれー浅葉君、なんか顔青くない?」
細貝さんはステーションの真ん中についた途端、俺から腕を離して顔を覗き込んでくるけれど、俺はその目を見つめることが出来ずに、あからさまに視線をそらしていく。
「すみません、ホントすみません」
今の俺に出来ることは、ただひたすら謝ることしかない。
そう思い、目をつぶってヘコヘコと腰を何度も折って謝り続ける。
――謝って済むなら警察はいらねぇんだよ! このヘボ看護師が!
そんな風に言われるんじゃないかとヒヤヒヤしていたのに、頭の上から降って来たのはぷっ、と噴き出す音で。
疑問に思いながら顔を上げると、俺の予想に反し、細貝さんは口を押さえながら声を出して笑っていた。
「なぁにそれ、おっかしー! 別に怒ってないから平気だよ。それに謝るんなら私にじゃなくて、佐藤さんに、でしょ?」
「でも、佐藤さんはお菓子を隠し持ってて……」
そもそも悪いのは佐藤さんなんだ。
佐藤さんが規則を破ったから俺はそれを注意しただけ。
あれ? 俺、別に悪いことしてないんじゃ?
そう思い始めた時、細貝さんは俺の甘い考えを読みとったのか、口をへの字に曲げながら、俺の鼻めがけて人差し指をずいっと突き付け、たいして怖くない顔で睨みつける。
「それはそれ、これはこれ。お菓子を持ってたのは佐藤さんがいけないけど、人の荷物勝手に漁ったり取っていくのはダメ―! だよ」
「でも、踏み込まないとお菓子が見つけられないと思って……」
細貝さんの言っていることはわかる。
わかるけど、俺は佐藤さんのためを思ってああしたのに。
いまひとつ納得がいかなくて、口をとがらせていると、細貝さんは俺を見つめて困ったように笑った。
「ねぇ、浅葉君。私たちは患者さんのいるスペースを何号室の何番ベッドって呼んでるけどさ、患者さんにとってはあそこはベッドであって、ベッドじゃないんだ」
「え、どういうことですか?」
「カーテンの中のベッドと棚とテレビしかないあのスペースは、小さいけど患者さんのお部屋なの。だから入る時に失礼しますって声をかけるんだよ」
細貝さんの言葉に俺は視線を落として、うなずいた。
患者さんの部屋……いままで俺は、そんなこと考えもしなかった。
カーテンを開ける時は、先輩たちもしているから自分も、と『失礼します』を言い続けただけ。
俺の場合、それはただの決まり文句になっていただけだったんだ。
「浅葉君もさ、勝手に部屋の中に入られて、しかも物を漁られたら嫌でしょ? それに、お母さんが部屋掃除してあげるって好意で言ってくれても、勝手に部屋に入ってくるなとか、物を捨てないでって思うことない?」
「あります……」
しょんぼりとする俺に、細貝さんは呆れたように笑っていった。
「母親でさえムッとするのに、赤の他人がしたら、そりゃねぇ?」
「そうですね、配慮が足りなかったかもしれません。怒られて当然だ……」
俺が佐藤さんにしたことは、『あなたのためを思って』という正義感の押し付けだ。
本当に佐藤さんのことを思うのであれば、彼に『いけない患者』というレッテルを貼るべきじゃなかったし、あんな強引な手をとるべきじゃなかった。
きっと、佐藤さんの話を聞いて、冷静に話しかける必要があったんだ。
一人脳内で反省会を開いていると、にかっと両方の口角を上げて細貝さんは笑う。
「まぁ、佐藤さんがあんなに怒ってたのはそれだけじゃないんだけどねー」
「ま、まさか俺、また何かしちゃったんですか」
怯えながら尋ねると、細貝さんはまた、楽しそうに吹き出して首を横に振った。
「ううん。佐藤さん、骨折っちゃって、ベッド上の生活になっちゃったでしょ。その上、病院食は味薄いし、苦手な物ばっかり出るしで、イライラしてたみたいなんだよね。それでいけないってわかっててもお菓子に手を出しちゃって。それが君にばれて、焦って思わずキレちゃった、ごめんよー、と」
「そう言ってたんですか?」
「うん。患者さんが治療を頑張れないのも、何か理由があるはずなの。出来ないことを非難するのは誰にでもできるけど、私たちは看護師。出来ない理由を工夫で減らして、出来るように調整するのも大事なお仕事! 佐藤さんには一緒に謝ろう。ご飯のことは、あとで栄養士に相談してみようね」
「はい!」
にかっと笑う細貝さんと同じように俺も笑い、大きくうなずく。
俺も数年働けば、細貝さんのような看護師になれるだろうか。
患者さんの気持ちを大切にしていける看護師に――