細貝
看護師の朝は、早い。
始業時間は八時半だけど、八時半というのは業務スタートの時間なのだ。
患者さんの名前や病名、病状や注意事項などの情報収集は始業時間までに終了していなければならないため、出勤は大体七時半から八時の間。
いつものように早く来て、集中して素早く情報収集したつもりが、あっという間に八時半前になっていた。
「おはようございます。管理日誌送ります。重傷患者なし。昨日は入院が三名。六○二号室に小島ゆう様、十八歳アキレス腱損傷……」
夜勤のリーダー看護師がナースステーションの中央にあるテーブルの真ん中に立ち、堂々と昨日一日と朝までの報告を進めていく。
まだ夜勤はやったことがないけれど、先輩の目元にくっきりと刻まれたクマを見る限り、楽な仕事ではないことは確かなのだろう。
「細貝さん、今日よろしくおねがいします」
朝の会が終わってすぐ、もう一度、ペアになった先輩に挨拶をする。
まだ一人で出来ないことも多く、問題分析能力もない俺は、先輩の助けがないと一日を無事に終えられないから、こうやって何度もお願いするのだ。
「はいはい、よろしくー」
今日のペアの先輩である細貝さんは四年目の看護師で、目が細くてのんびりとしたというか、不思議な雰囲気をもった先輩だ。
二人で今日の担当患者さんに挨拶へ回り、患者さんの顔色を確認しつつ、点滴の残量や滴下を確認したり、その他繋がっている管の確認をしたり、患者さんの身の回りで見えることの全てを確認をし、安全に過ごせるように環境を整える。
それが終わったら、今度は排泄の援助の時間だ。
「じゃー今日は掘りますか」
細貝さんはそう言って、テキパキと支度を整えていく。
ビニール手袋を二重に装着し、使い捨てエプロンに水色のマスク。完全防備だ。
今日は便が四日出ていない患者さんが一人いて、排泄の援助をしなければならない。
便の出し方にもいろいろパターンや種類があって、例えば温罨法や、お腹のマッサージをしたり、内服や座薬、浣腸……そして今回は本人希望でやる予定の摘便だ。
患者さんにお尻を突き出してもらい、下にはおむつを敷く。
こうやってトイレではなく寝た状態で行うのにも、転倒を防いだり腸を傷つけないようにするという意味がちゃんとあるのだ。
「浅葉君、付けてー」
細貝さんは、ビニール手袋をつけた手を差し出して、潤滑剤をせがむ。
チューブを押して、たっぷりと潤滑剤を渡すと、細貝さんは声をかけながら、指を肛門の中に突っ込んでいった。
「中野さんちょーっと痛いよ、ごめんなさいね」
最初この光景を見た時は、びっくりしたというか何というか、かなり衝撃的だったことを覚えている。
自分のにすら指なんか突っ込んだことないのに、と顔をしかめていたけれど、慣れとは怖いもんだ。
指を入れて便を掻きだしていくというこの光景も臭いも、今では日常の風景の一つになっている。
かきだされていく大量の便に、細貝さんは顔をしかめるどころか生き生きとした表情を見せていった。
「おうおう、よく出るね。こりゃ苦しかったですね」
なんなんですか、その嬉しそうな顔。
中野さんの身体を支えている俺は、細貝さんのその顔にふと先日の、友人との飲み会のことを思い返していった。
「いーなー浅葉ちゃん、看護師さん周りにいっぱいじゃん」
髪の毛をツンツンに立たせたユウトがそう話す。
その言葉に、今度はダテ眼鏡のケンがぽうっと恋焦がれるように天を仰いでいった。
「看護師さんって優しそうだし、憧れるよなー。しかも男は一人しかいないなんて、超モテモテ!」
友人二人から飛び出たお決まりのセリフに俺は静かに首を横に振った。
「いや、そんなことないよ」
モテるのはお年寄りにだけ。
先輩たちが優しくしてくれた記憶はないし、あごで使われ、重たいものを持たされ、からかわれることがほとんどなのだ。
「かわいい子とか美人はいないのー? 」
酒が入ってテンションが上がった二人はそう尋ねてくるけれど、俺は反対にテンションががた落ちし、苦笑いをしていった。
「まぁ、いるけど……」
かわいいのは見た目だけだよ。あの人たち、中身は俺よりよっぽど男らしいよ。
何度、死の恐怖を感じたことか。
そんな時、大声で笑う女の人の声が隣の部屋から聞こえてきた。
「さっきから思ってたんだけど、あそこの女たち、下品だよな。シモの話ばっかり」
ケンがそう言うと、ユウトは顔をしかめて隣の部屋を睨みつけていく。
「さっきは、ケツさわるなら金払えとか言ってたぜ。あんな女無理だよな」
「そうだね」
苦笑いをしながらそう言って、下を向く。
二人には言わなかったけれど、俺はひっそりと心の中でこう思った。
……でもさ、たぶんあの人たち、君らが憧れてる看護師さんだよ。
回想とともに中野さんの摘便を終えてお尻を綺麗に洗い、完全防備も解いて病衣を整える。
そして、部屋を去ろうと横を向いた細貝さんのお尻を、中野さんはにやりと妖しく笑いながら撫でていった。
「おおう!」
びくりと身体を震わせて、細貝さんは大きく飛び上がる。
こんなのセクハラじゃないか。一般企業だったら大問題だ。
そう思っていたのだけれど、細貝さんはプンプンといった効果音が付きそうな指を突き付けながら怒っていった。
「ちょっとー、中野さん何するんですか。おしりタッチは別料金なんだからね!」
喧嘩にならなくて安心したけど、なんだろう。
毎回思うんだけど、ナースってちょっと恥じらいがない……んだよなぁ。
――・――・――・――・――
おむつをしている他の患者さんのお尻も洗い終え、着替えの介助も済ませ、次は検温だ。
体温、脈、血圧を測るだけではなく、患者さんと話をして情報を聞き取ったり、実際に目で確認したことからも情報を手に入れて、異常はないか、困っていることはないかを判断していく。
本当は看護師一人に対して十人近くの患者さんを担当しなければいけないのだけれど、まだ新人である俺の担当患者さんは状態の安定している三人だけ。
しかも一人ではまだ判断が出来ないので、こうやって困ったことがあればすぐに先輩に相談している状況だ。
「細貝さん、相談なんですけど」
「はいはい、どーした?」
昼食の時間が近づき、細貝さんは一人で車椅子に乗れない患者さんをリハビリのために起こして回っていて、彼女の手が空いた瞬間、慌てて呼び止めていった。
「これ、さっき長倉さんと測ったんですけど、佐藤さんの血糖値310もあるんですよ」
糖尿病のある方は毎食前に血糖値を測定している。
血糖値はだいたい70~110が正常値なので、佐藤さんの値は異様に高い。
「ふーん。でもさ、食前に注射するよね、血糖下げるやつ」
細貝さんはボールペンを杖のように振り回しながらそう答えていく。
「あ、そっか。じゃあ問題ないっすね」
にこりと笑ってそう返すと、細貝さんは大きく手をクロスさせバツの形にしていった。
「ぶー、残念でした。問題アリでーす!」
その声と態度に驚いて声を出せずにいると、細貝さんは佐藤さんのカルテを取り出して血糖値の部分を指さしていく。
「ほら、ここ見て、ここ」
「昨日の昼までのぶん? ずっと180前後だ」
カルテを見ると、佐藤さんの血糖値は一度も200を超えたことがない。
それなのに何でこんなに急激に上がってしまったのだろう。
「さぁ、何で昨日の夜から高いんだろうねぇ。ふしぎだなーふしぎだなー」
細貝さんは小馬鹿にしたように左右に揺れて笑う。
先輩にこんなこと思っちゃいけないんだろうけど……なんかちょっとむかつくな。
「薬が合ってないんですかね?」
原因がわからなかった俺は、首をかしげながらそう尋ねるけれど、細貝さんは立ち上がって手を振っていった。
「とりあえずまぁ、昼食行ってらっしゃいな。そこで、ちと考えてみなよ。先生そこにいるから、私は報告しておくね。んじゃいってらっしゃーい」