姫野の想い
「やっほ、落ちこんでるねぇ」
場違いなほど明るい声を出し、アコーディオンカーテンの隙間から覗いてきたのは、ずいぶん前に帰ったはずの鬼平さんだった。
「鬼平さん! 帰ったんじゃなかったんですか?」
そう尋ねると、鬼平さんは可愛らしくデコレーションがされたスマートフォンを振って笑う。
「ケータイ忘れちゃったから戻ってきたんだ。姫ちゃん怖かった?」
そう言いながら、鬼平さんは面談室に入って来て、机の上に大きなカバンを置き、さっきまで姫野さんがいた椅子に腰かけていった。
「いえ、あれは俺が悪かったです」
「まぁ、そうかもね。でもわかってよかったじゃん」
がっくりとうなだれていると、鬼平さんは屈託のない笑顔を見せてくれて、そのおかげで少し心が楽になったような気がした。
「そうそう。姫ちゃんさ、一年生の時は違う病院にいて、二年目にここに来たんだけどね」
突然、何かを思い出すかのように鬼平さんはナナメ上を見つめてそんなことを話していくけれど、俺にはその会話のフリは唐突過ぎて、わけがわからない。
ぽかんとしている俺のことなど見もせずに、鬼平さんはにこにこ笑いながら話を続けていった。
「それで、前の病院が結構ひどかったんだって。姫ちゃんはあんな感じですごく看護師の仕事に誇りを持ってる子なんだけど、前の職場の方々はそんな感じじゃなくて。ねぇ、浅葉君はDNRって言葉知ってるかな」
「でぃーえぬあーる……? ごめんなさい、勉強不足で」
学生時代に勉強覚えのない単語に首をかしげると、鬼平さんは微笑みながら静かにうなずいていった。
「まぁ、まだその指示に出会ったことないもんね。今回は教えちゃうけど、簡単に言うと『亡くなりそうな時に延命措置はしない方向』っていう意味なの。死期が近い状態で、無理に人工呼吸器つけるのも、心臓マッサージするのも本人にとっては苦しいし、もし蘇生できたとしても意識や身体の機能が戻ってくるかはわからないしね。もちろんそうするかどうかは、家族や意識があれば本人とも相談して決めるんだ」
「そのDNRが一体……」
「姫ちゃんが、前の職場で働き初めてまだ三ヶ月頃、末期がんの患者さんが個室に入院してたんだって。その方は苦しいから何度も何度もナースコールを鳴らした。だけど、誰もそれを取ろうとはしない、さぁ何故か」
人差し指を天に向けながら神妙な面持ちで、鬼平さんはやけに重苦しい内容のクイズを出題していった。
だけど、そんなの答えは簡単だ。
「他の患者さんに呼ばれてるから、とか、処置の途中だから取りたくてもすぐには取れない、ですよね」
自信満々で答えていくと、鬼平さんは視線を落として首を横に振る。
「そこの看護師さんたちは、ナースコールをわざと聞こえないふりをしていたの。あまりにも忙しい時にコールを鳴らされ続けたっていうのと、もう出来る治療が何もないから……だったんだって」
出来る治療が何もないからナースコールを取らないとは、一体どういうことなのだろう。
わけがわからず、言葉が出ない。
鬼平さんは、うつむいて手元をせわしなくいじりながら、不愉快そうに眉を寄せ淡々と語っていく。
「姫ちゃんはその患者さんのナースコールを取って、すぐに向かった。息も上がってすごく苦しそうにしているから少しそばにいて落ち着かせてあげて、その患者さんの担当チームの先輩に相談しに行ったんだ。そしたら先輩、なんて言ったと思う?」
「まさか……」
さっき鬼平さんが話していた言葉が、ふと頭の中をよぎる。
「そう、浅葉君が察しているように『DNRって意味わかる? 何もしないって意味なの。出来ることは何もないのよ! 人んとこに首突っ込まないでまずは自分のチームの仕事しな!』って言われたんだって。信じられないよね」
しんと面談室が静まり返る。
苦しむ人が目の前にいるのに、学生の時に散々『看護についての考え方』を叩きこまれたのに、その先輩はどうしてそんな答えに行きついてしまったのだろう。
「それで結局その患者さんはその一時間後に亡くなった。確かにあの病院はあまりにも忙しすぎるから、一人につきっきりでいるのは難しいんだと思う。慢性的に看護師は不足してるし、医療も複雑化して、患者さんからは相応のサービスも求められてる。忙しさのあまり、優しくしたくてもそう出来ないことだってあるよね。でも、まぁだからといってその看護師さんは大分ひどすぎるけど」
苦笑いしながら鬼平さんは手を止めて、祈るかのようにその手をぎゅ、っと握っていく。
「だけど、姫ちゃんは看護師ってこれでいいのかなって、悩んで悩んで悩んで。医療的には何も出来なくても、他の何かが出来たんじゃないかって、今でもずっと姫ちゃん後悔してるみたい。それでウチの病院に来たんだって」
「どうして俺にそんな話を」
姫野さんの過去がわかったけれど、それを鬼平さんは何故今、このタイミングで話したのだろう。
その問いに鬼平さんは、俺を見ていつものように優しく笑っていく。
「姫ちゃんは怖い人なんかじゃなくて、ただ看護にアツいのよって言いたかっただけ。君は指示をこなすことばかり気を取られて、患者さんを見ようとしていない部分があるよね。だから姫ちゃんはあんなふうに怒鳴って、君に看護を真剣に考えてもらおうとしてるんだと思う」
ぼっ、と火がつくように顔が赤くなっていくのが自分でもわかった。
『患者さんを見ていない』その言葉に自分でも思い当たることが多々あったのだ。
はやく先輩に報告しなきゃと意気込んで、目の前の患者さんの話をちゃんと聞いていなかったこともあった。
本当は見守っていなければいけないのに『やることがあるから』と認知症のある方をトイレに残したまま、少しの間離れたこともあった。
昼間だって、ナースコール『なんか』より点滴詰めの方が大切だと、そう思っていたのだ。
今思えば、業務を時間内に完璧にこなすのが良い看護師だと履き違えていたのだろう。
俺も、そのナースコールを無視した先輩と、何も変わらない……
ぐ、と奥歯を噛みしめて泣き出しそうになるのをこらえていった。
「すみません。俺、間違ってました。看護師失格ですね」
いっそのこと辞めてしまった方がいいんじゃないかとさえ思ったけれど、鬼平さんは怒ることなく親指をたてて笑っていた。
「そう思えれば、浅葉君はもう大丈夫。また明日から生まれ変わった気持ちで始めよう。私たちは病気や数値を見てるんじゃない。人を看る仕事をしてるのよ!」
堂々とそう言った後、照れたように鬼平さんは頬をぽりぽりと掻いて笑う。
「なーんて、ドラマみたいなこと言っちゃった。業務は多少遅くてもいいから確実に、まずはちゃんと目の前の患者さんを看ることが大事だと、私は思うよ」
忙しさに流され、忘れかけていた気持ちを思い出させてくれたその言葉に、目頭が熱くなる。
「はい! がんばります!」
鬼平さんが思わず耳をふさいでしまうくらいに大きな声で、決意を込めて返事をしていったのだった。