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浅葉と姫野

「海島~、海島~」

 独特なイントネーションのアナウンスを聞きながら、肩からずれてきたリュックを背負いなおし、軽やかに駅のホームへと降り立つ。


 空は晴天、雲一つない爽やかな朝だ。

 もちろん俺の心にも一点の曇りはない。



 笑顔を浮かべながら改札を抜け、人込みの隙間を縫うように通り抜けていった俺は、桜の木の下にある大きな看板の前でぴたりと足を止め、ゆっくりと空を見上げていった。


「ふぉぉぉ……やっぱ、でけぇ」

 七階建ての巨大な建物の中には数え切れないほどの窓があり、そこから時折白い制服を着た女性が見える。

 目の前にある巨大な看板には、でかでかと『海島病院』という文字が真っ青な色で書かれていて、その下には電話番号やらたくさんの診療科やらがところ狭しと書かれていた。


 朝っぱらから何でこんなところにいるのかって?

 何を隠そう、今日から俺はこの総合病院、海島病院で働くのだ。

 心優しく、確かな技術と豊富な知識を持った、頼れるナースマンとして!




 ……そうやって、意気込んでいたのが二週間前。

 だけど、俺はもう早くも心が折れてしまいそうです。


「浅葉! ナースコール取るのは新人の仕事だってアタシ言ったよね! もしかして、アンタ耳詰まってんの!? この音、聞・こ・え・な・い・の!?」


 怒鳴るように俺の名前を呼ぶ先輩の声に、びくりと身体を震わせていく。

 俺の恐怖ランクでぶっちぎり一位の姫野さんが、点滴作成をしている俺に向かって、怒り始めていったのだ。

 瞬間湯沸かし器のような姫野さんはいったん沸騰してしまうと、もう俺のような未熟者にはどうにも止められない。


「すみません、点滴詰めてたもんで……」

 謝ってやり過ごそうと思ったけれど、俺にだってプライドはある。


 ナースコールに出なければいけないのはわかっていたけれど、俺にはここで点滴を作るという作業があったのだ。

 出たくても出れないという状況にあったことをわかってもらおうと、小声で反論していった。



 点滴はボトルのまま使うことも多いけれど、医師の指示の内容によってはアンプルという小さなガラス瓶の中に入った薬を、ボトルの中に混ぜ込む場合もある。

 先輩たちはこのアンプルというガラス容器をいとも簡単に開けてみせるけれど、新人にとってはこれを開ける作業は指を切ってしまうこともあるほど難しい作業であり、注射器の針を容器に突っ込んで薬液を吸うのもこれまた難しいのだ。

 

 そんな状態でナースコールなんか気に出来るはずがない。


 それに何より、入れる薬を間違えてはいけないから、薬を入れる作業中は決して点滴を作る台から離れるなと看護学校でも習っている。

 さぁ、先輩。どうだ、俺の反論に死角はないはずだぞ。



 心の中で得意げににやけると、姫野さんからは想像とは全く違う言葉が返ってきて、俺はあっけにとられていった。



「何、アタシに言い訳する気? 混中くすりづめをしてても、ナースコールが鳴ったら顔を上げるとか何か反応しろって言ってんの! アンタ、患者がうちらを呼んでんの無視するつもり!?」


 反応したところで、出れないなら意味がないのに、何言ってんだこの人は。

 姫野さんは気が強すぎてきっとモテないだろうな、なんてそんなことを考えていると、突然ナースステーションの入口からふわりと神が舞い降りてきた。



「姫野さん、そんなに怒ったら怖いからやめなよ。浅葉君もびっくりしてるよ」


 長い栗色の髪を後ろにまとめ、ふんわりと柔らかい笑顔を花のように振りまく女神のようなこの人は、八年目の先輩、鬼平おにひらさんだ。

 なぜ、このお方が姫野という名字ではないのだろうと心底思う。

 なんというか、鬼平さんのほうが姫野というイメージにぴったりで、姫野さんのほうが鬼平という名前のほうがしっくりくるんだよな。


 姫野さんなんか、猫みたいな目をしてるのにさらにそれを釣り上がらせて、黒のショートカットからはぴょこりと角が生えてたり……なんてね、そんなわけないけど。



 頭の中で姫野さんが鬼になった妄想を繰り広げていると、なぜか優しい鬼平さんの柔らかい目がぐっと大きく見開かれていくのがわかった。

 そして、速足で数歩歩き、俺の隣、すなわち点滴台の前でナースシューズをきゅ、と鳴らしながら足を止めていく。


 そして、女性らしいしなやかな動作でアンプルを手に取りながら静かにこう言った。


「あのさ、浅葉君。まさかこのビタミン剤、全部入れた?」


「ふぇ? あ、はい」

 先輩達から、一人で点滴に薬を詰める作業はやっていいと言われているし、いけないことをしたわけではないはずだ。

 そう思っていたのに、鬼平さんは今度は医師の指示書を指でさしながらこんなことを指摘していったのだ。


「ここ、ほら。1/2って書いてあるでしょ。誰かと見た?」


 だんだんと顔が青くなっていく。

 そう言えば『仕事始まりの時だけじゃなく、薬を詰める時にも指示を見ろ』と言われていたんだった。



 姫野さんのほうをちらりと見ると、彼女の目がまたつり上がってきていて、怒りのせいかだんだんと顔が赤くなっているのがわかる。

 やばい、母さん。俺、今日殺されるわ。しかも病院で……


 死を覚悟した瞬間、姫野さんは俺の手を取ってずかずかと歩き、声の響かない面談室へと連れ込んでいった。



「浅葉、アンタ! 半筒はんとうの時は誰かと確認しろって言ったでしょ」

 姫野さんが扉を閉めた途端、俺の頭に怒りの説教という恐ろしい雷が容赦なく降り注ぐ。


「半筒って……?」

 恐る恐るそう尋ねると、姫野さんは看護師とは思えないほどの鬼の形相を浮かべ、舌打ちをしていった。


「朝、伝えただろ! アンプル半分ってことだよ、わからないままやるなと何度言ったらわかる」

 怒鳴り散らしたら落ち着いたのか、姫野さんは大きくため息をついて、ナース服も台無しな仁王立ちのまま両腕を前で組んでいった。 



「す、すみません。でもまだビタミン剤で良かったです」

 ビタミン剤なんて半分くらい多く入れたって大した問題にはならないはずだ。

 そう思って、苦笑いしながら話したのに、それがまた姫野さんの怒りを買ってしまったようだ。


「おい。浅葉、今なんて……!」

 ああ。怒りの雷第二陣が降ってくる、そう思った瞬間、がしゃりと面談室のアコーディオンカーテンが開かれていった。



「姫ちゃん、怖いから怒らない! ねぇ浅葉君、確かにビタミン剤で良かったかもしれないよね。でもそれでいいの?」

 俺らの視線の先に立っていたのは、柔らかな笑顔を崩さない鬼平さんだった。


 ビタミン剤でまだよかった、とは言ったものの、俺だってちゃんと間違えたことは反省している。

「……良くないです」


 静かにそう答えると、鬼平さんは首をかしげながらこう尋ねてくる。


「どうして?」


 どうしてなんて、そんなの決まっている。


「先生の指示通り、出来なかったからです」

 鬼平さんの目をまっすぐ見てそう答えると、鬼平さんは視線を落としながら口元に手を当てて、何やら考える仕草を見せていった。


「うーん。そうだけど違うんだよなぁ。あとで姫ちゃんと振り返ってね。これ、インシデントだから」


 インシデント、か。

 鬼平さんの容赦ないその言葉に俺はがっくりと肩を落としていったのだった。



インシデントとは……

患者の身に影響がなかったミスのこと。インシデントで防げなければ事故になる可能性がある。

振り返ったり、レポートを書いて対応策を話し合うことで、看護師たちはミスの再発防止に取り組んでいる。

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