──陰蟲──
春だ。
春になると、やつらがやって来る。
あいつらは、大概春から夏にかけて現れる。しかし、希に秋までいる事もある。
今年もそんな季節になった。
やつらというのは、ローチ(ゴキブリ)の事ではない。
そいつのこともあるが、こいつらはもっと、精神的に嫌だという域を越えている。
精神的にも、物理的にも嫌になるのである。
そう、そいつらの名前は──
「──やられた……」
俺は、荒らされた温室の畑を見て、両膝をついた。
やつらの名前はカゲムシ。
比較的温暖で、湿度の高い場所を好む傾向にあるため、こういったじめじめした森の中では、特にこの季節にはよく出る。
その被害は、虫食いにとどまらず、下手をすれば町一体を大飢饉に陥れることもあり、ある種のそれは、蚊のように人の血を吸うとすら言われている。
蚊に刺されると、痒みは三十分ほど続くのに対して、カゲムシの場合は少なくとも二日、長くて一週間も続く。
下手をすれば死ぬ事もある。
理由はわかるだろうが、多くの場合は中毒死やストレスによるものだ。
そう。彼らはローチよりも厄介なのである。
「もう……こんな季節になったのか……」
はぁ、とため息をつくと、俺は急いで一階の研究室へと降りていった。
マンドラゴラ、もしくはマンドレイクと呼ばれるナス科マンドラゴラ属のこの植物には、根っこに数種のアルカロイドを含む。その効果は以前説明した通り、幻覚、幻聴をもよおす神経毒だ。
この神経毒から合成される、特別な薬がある。
作り方は緑の目の人から教えてもらっていたし、曲芸でもよく利用したので、作り方は覚えていた。
その特別な薬というのが、題して『対カゲムシ殺虫剤』である。
それがどのようにしてあれに効くのかは知らないが、今はとにかく、そんなことは関係ない。
一刻も早くそれを手にして、やつらを殲滅せねばならないからだ!
俺は机の引き出しから対カゲムシ殺虫剤を取り出すと、急いで温室へと駆け戻る。
「ご主人、そんなに急いでどうしたんだい?」
「ローチよりもヤバイやつらが出たんだ。至急ガスマスクを二つ倉から引っ張り出してくれないか?」
少年は早口にそう伝えると、二つ持っていたそれの片方をルノーに渡した。
「おいおい、物騒な薬品だね。殺虫剤かい?」
笑う彼に、ノスタルジアは真剣な眼差しで見つめ返す。
「……わーったよ。やればいいんでしょ、やれば」
彼は肩をすくめると、渋々といった風にそれを受け取った。
「できるだけ早くお願いね」
私は急かすようにそう言うと、目の前の階段を一段飛ばしで駆け上がっていった。
──展望台の入り口の扉の前で、腰を下ろしてルノーを待つ。
少し伸びた黒髪が、眼前でゆらゆらと揺れる。
霧吹きの中に入れられた対カゲムシ殺虫剤の薄いピンクと水色の混ざりあった液体が、窓からの日光の反射を受けてキラリと光る。
カゲムシは羽虫の類いである。
細かいそれは、数匹の群れをつくって空を舞う。
日光の反射がなければ、到底目につかないようなやつらである。
それゆえ、ここの太陽光がよく当たる(ように設定した)展望台は、やつらと戦うのにあたって絶好の場。
……でもまぁ、やりあっている間に魔法道具が壊れたら元も子もないんだが。
作戦を練りながら、ルノーの帰りを待つ。
──しかしそれにしても遅い。
アイツはいつまで俺を待たせるんだ。
少年は一度、彼の様子を見に行こうか悩んだ。
しかし、ここを離れてすれ違いになってしまっては困る。
(……ここは我慢して待つしか──)
そう思った瞬間であった。
『ブ~ン……』
耳元で、羽虫の音が聞こえた。
「!」
飛び退き、音の聞こえた方へと霧吹きを向ける。
「うおっ!?」
「なんだお前か。紛らわしいことするなよ全く。本気でこれをぶっかけてやろうか?」
どうやら先程の音は彼のものだったらしい。
俺はそれがカゲムシでなかったことにほっと胸を撫で下ろした。
「勘弁してくれ、謝るから。にしても、あんなに驚くとは思ってなかったよ…………そろそろ、それ下ろしてくれないかい、ご主人?」
彼は両手を挙げて降参のポーズをとる。
全く人騒がせな男である。
少年はため息混じりにその手を下ろすと、ガスマスクを催促した。
閑話休題。
完全装備を成した俺は、ルノーを入り口に立たせて中へ入る。
いつもは何不自由なく簡単に開くその扉は、今に限ってキギギと重苦しい音を響かせた。
辺りを見回すも、カゲムシの気配はない。
やつらは数匹の群れをなして行動する。しかし、あの温室の惨状。明らかに数匹ではない。
俺は、警戒レベルマックスでゆっくりとその足を展望台に踏み入れた──。
「まさか、展望台の天井裏に巣を作られていたとはな……」
少年は空になった霧吹きを片手に、床にへたりこんだ。
お陰で大変な目に遭った。
ルノーを展望台に招かなければならなくなるし、挙げ句魔法道具は故障するし。
「本当に、やつらがいると碌なことにならないぞ、これ……」
少年はルノーの背中を背凭れにするようにして座り直す。
被害は甚大だ。
この殺虫剤はタンパク質に触れると、白い粘性のある液体に変わる。
そのため、そこら中にその液体が散らばっている。
その後の掃除のことを思うと、本当にため息すらでないほどに疲弊しそうだった。
「──なんか、卑猥な光景だね、ご主人。ここに女の一人や二人欲しいものだよ」
「カゲムシの死骸の前でよくそんな事言えるな……。まったく、お前の精神力のタフさ加減には羨ましさすら覚えてくるぞ」
「そりゃ誉め言葉かい?」
「戯けごとを抜かすな……」
互いに皮肉を言い合い、呆れた声を出す。
使えなくなったガスマスクを指先でコロコロといじりながら、俺はガラス張りの天井を見上げた。
──これだから、カゲムシはローチよりたちが悪いんだ……。
そう項垂れる昼前の出来事であった。
時間軸にそって読みたいならば、次回は第二章魔女の過去へお飛びください。
次話は第三章死神と魔女が終了した後の話からになります。
ご了承ください。