──冬日──
彼の一日は掃除から始まる……と言えど、その量は膨大である。膨大であるがゆえに、一日の大半をそれに尽くすことになっていた──のは、今からおよそ半月前までの話だ。現在では、念願の使用人に半分任せているので、かなり楽にはなった。
使用人も半月も経てばかなり手慣れてきていたようで、最初はわからないようであった薬品などの備品の位置、倉の手入れの仕方など、ほぼ完璧に近い形でやりとげるようになった。
一言で言えば、彼は天才だったのだ。
(いや、でもこんな人が無償で雇われてくれるとは正直予想外だったな……)
ノスタルジアの魔女は、湯気の立つミルクを一口啜った。展望台の魔法道具の具合を診て、少し色を弄る。
彼の魔法は色を使う。色というものは時間が経つとご存知の通り剥げていく。
この微細な仕事は、天才使用人の彼であっても、任せるには少々力不足だろう。
使用人には一応色を視る方法を教えようとは思っていたのだが、どうしたものか。彼はよりによって教会の人間なのである。
古代より魔女狩りの風習の強いこの地域で、自分が魔女だと疑われれば、理不尽な裁判にかけられるだろう。
(……お金がたまったら、別の人を募集しよう。でも惜しいな、無料の執事というのは)
そんなジレンマを胸に抱きながら、また一口それをすする。
霜のついた窓から入る光は淡い。植物や燃えやすい道具がある故か、この部屋には暖炉はない。焼却炉行きのポストならあるのだが。
はぁ、と白い息を吐く。
どうやら外では雪が降っているらしく、温室の壁には結露ができる始末だ。放っておけば黴になるかもしれない。
少年はゆっくりと立ち上がると、空になったカップを丸テーブルに置いた。
「マンドラゴラ、枯れてなかったら良いけどな……」
霜焼けで赤くなった手を擦りながら、耳当てをつける。
マンドラゴラ、もしくはマンドレイク。ナス科マンドラゴラ属の植物。
古くから薬草として用いられてきたが、多くの人の間では、魔術や錬金術の材料としてのそれが有名だろう。
根茎が幾枝にも枝分かれしており、物によってはそれが人の形に似ることから、その様な発想が成されたのだろうか。正直なところ、民間でのそれはよく知らない。
根には毒がある。幻聴や幻覚を伴い、時には死に至る。
これは俺の予想ではあるのだが、それらのことから引っこ抜くと奇声をあげる、聞いたものは死ぬ、などの噂話が広まったのだろう。
……とはいえ。中には実際に鳴く奴もいる。あぁほんとに。始めにそれと出会ったのは、緑の目の人と旅をしていた頃だった。
結構昔の記憶で曖昧なのだが、とある呪術師に惚れ薬の材料として採取の依頼を受けたのだ。
その時に、耳当て必須とか、ただの耳当てじゃ貫通するとか言って、専用の耳当てを貸してもらった事もあった。
その呪術師曰く、耳当てもせずに聞けば、脳が狂って死ぬらしい。脳が狂うというのは、その人の独特な表現だったけれど、実際にそれで死んだ術師も少なくないのだとか。
俺はいつも、それを採取するときはこの話を思い出す。うっかり忘れて死んでしまったら嫌だからな。
少年は展望台と温室の扉が閉まっていることを確認すると、耳当ての上から更に肩で耳を押さえて、その葉を掴んだ。
強引に引き抜くには相当な力が必要で、根や葉を切りながら引き抜くとかなりの音が出る。
その音は、到底擬音語では表現できまい。
俺も最初にやってしまったときは腰を抜かすほどにビビったものだ。
「ふんっ!」
抜こうとしてもなかなか抜けない。
いつもより根が深い。
「──っは~~。こいつ、いつもの奴より格段に強いな。かといってルノーを使うわけにもいかないしな……」
困ったものだ。
少年は汗を拭うと、額に手を当てた。親指の関節を左目の目頭にぐりぐりと押し当てて、しばらく黙考する。
「仕方ない。掘り起こすか」
未だかつて、誰かがそんな事を行った事例があっただろうか。
俺は未知への興奮を、思わず顔に出した。
シャベルを持ち、根を傷つけないように慎重に掘り起こす。掘り起こした土は、麻布でできた袋の上に置いておく。
「──なかなか、長時間屈むのは腰に来るものがあるな……にしても、このマンドラゴラ。どこまで伸びているんだ?もしかしたら本当に魔力でも宿ってるんじゃないだろうな?」
一人そう呟きながら、それを掘る。
一心不乱に掘る。
掘る、掘る、掘る。
すると、ふとごんごんごん、というノックの音が聞こえた。
(まずい、ルノーだ……ここには絶対に入ることのないようにって厳命しているが、金の払っていないアイツに、果たしてそれが通用するのか……)
思いながらも、そそくさと土を戻していく。
せっかくここまで掘り起こしたのに、少し残念だ。
しかし仕方ない。だってこんなところ見られでもしたら厄介になること間違いないし。
「ごしゅじーん?……居ないのかな……」
使用人の声が扉越しに聞こえてくる。
このままじゃ、勝手に入って来かねない雰囲気だ。
俺は急いで温室から出ると、耳当てを戻して展望台の入り口へ駆けていく。
「っくし……居る。何か用か?」
くしゃみをひとつ。回るドアノブを押さえつけて、俺は扉越しに問う。
「ご主人、もしかして風邪でも引いたのかい?」
「少し冷えただけだ。そんなことより用件は何だ?」
「おいおい。ボクはご主人のことを心配してやっているんだぜ?少しは感謝したまえよ?」
皮肉を言うルノーに、俺はさらにそれを皮肉で返す。
「それが教会の人間の口か?さっさと用件を述べろ」
「相変わらず口の悪いご主人だこと……では改めまして。主、昼食の準備ができましたので、お呼びに参りました」
昼食の準備……で、立ち入りを禁じたこの部屋まで探しに来たということは、おそらく相当探し回ったのだろう。
「……それはいったい、どれくらい前の話かしら?」
「ざっと半時ほど前でございますが、ご主人?」
嫌な予感がしていざ聞いてみればなんということだ。
その台詞に軽く退け反りながら、俺はさらに問うた。
「ちなみにメニューは?」
「メインはボク特製の鶏のシチューだよ。あとは副菜にリンゴサラダとか少々」
「何っ!?……くっそ、今回はやけに美味しそうなもの作るじゃねぇか。暖めなおしておいてくれ。手を洗ったらすぐに行く」
「へぇ、素直に嬉しいこと言ってくれるじゃないっすかご主人。わかった。用意しとくよ」
そう言って遠ざかる彼の足音を聞いて、俺はほっと胸を撫で下ろした。
にしても、さっさと下に降りないと。
土を掘り返す作業をしていたためか、手は黒く汚れている。
俺は少し渋い顔をすると、温室に取り付けられていた蛇口から手を洗った。
湯気立つそれが、かじかんだ手を生き返らせて行く。
ついでに顔も洗い、疲れを取り払う。
ここの水が冬なのに関わらず暖かいのには訳がある。それは簡単に言えば、焼却炉近くに設置されたヒーターのお陰である。
少年は顔を拭くと、展望台を後にした。
「っくし……」
「なぁ、ご主人。君は本当に風邪じゃないのかい?あまり無理しない方がいいよ?」
ニヤニヤしながら、対面する席で彼はシチューをすすめる。
「……これくらい問題ない」
相対する少年は、どこか強気である。
そんな彼に、ルノーはおおげさに肩をすくめてみせる。
「意地を張るのも大概にしておけよ?仕事に響くし。もしそうなったら、ボクの給料も減っちゃうだろ?」
「お前と給料のやり取りの契約した覚えはないぞ。それに、そんな事を言っても良いのか?」
「……何がだい?主人」
半眼で尋ねる俺に、ルノーは怪訝な顔をして答える。
「そんな事を言っていると、教会に黙ってこっそりと魔法書を読んでいたことチクぞ」
「げっ……見てたなら言ってくれよ?」
「どうせお前に日本語は読めないだろ?」
乾いた音をたてて、パンを千切りながらニヒルな笑みを浮かべる。
「そ、そうだけどさ……。あ、そうだご主人。ひとつ聞きたいことがあったんだが、なんで異国の書物は皆縦書きなんだい?ほとんどは横に向かって書かれているのにさ?」
「だから面白いんだろ。変わらぬ世ほど、見ていて詰まらないものはないだろ?」
怪訝そうに尋ねる彼に、なんだそんなことかと俺は返した。
「答えになってないし……とか言うけど、そんじゃご主人はアジアの魔法書なんかどこで手に入れたんだよ?ろくすっぽ外に出ないくせにさ?」
返すそれに、俺はニヒルな笑みを浮かべるだけで何も答えなかった。
この屋敷はノスティのモノだ。
持っているのは俺ではなく彼女なのだから、俺が外にでなくても持っていることに何ら不自然はないはずだ。
「……ま、いいけどさ。それで、シチューの出来はどうだい?これでも自信作なんだぜ?」
話題を変えるようにルノーはそう言った。
俺は小さくなったパンをシチューの中に投げ入れて、脇におかれたリンゴサラダに手をつける。
「いいんじゃないか?リンゴサラダだけは、いつもと代わり映えしないけど。……マヨネーズの作り方は以前教えたよな?使っていないのか?」
フォークでサラダからリンゴだけを取り出しながら、俺は使用人に尋ねた。
それにしてもリンゴの皮剥きが雑い。
おそらくウサギに模して切ろうとしたのだろうけれど、何をどう間違えたのか、耳の辺りが鱗みたいになっている。
──けど、これはこれで素晴らしいのだが、なんか今少しなんだよな……。
「作ろうとしたよ、もちろん。ご主人の頼みだからね。でも、なんつったけ?乳化?あれが結構な手間でさぁ……。なんかこう、パパッとできる方法とかない?」
「そんなに簡単にできるなら、市場に出ているものはそんなに高くはならないって」
この時代、お酢というものがあまり出回っていなかったためか、マヨネーズが市場に出されることは非常に珍しかった。
さらに言えば、出ていたとしてもそれなりの値段はつく。
お酢単体にしてもそうだ。
造るのにもかなりの時間を要するために、一部貴族の間でしか取引されていないような代物だ。
だからこそ、一から作ったほうが断然に安いのである。
「ですよね~……」
もっとも、東洋の方から仕入れてくる方が、現地で手に入れるより安いのだが。
しかしこんなことを教えれば、彼の暇も無くなるだろう。
そんな些細な気遣いに気がつくはずもなく、彼ははぁとため息をついて机の上に寝そべった。
やがて食事が終わると、俺は使用人に後片付けを押し付けた。
「さて。俺はそろそろ仕事に戻るから、それが終わったら残っている倉の整理を頼む。終わったら部屋に戻って良しだ」
「了解しましたご主人!さ~て、さっさと終わらせますか!」
彼は一言気合いを入れるように叫ぶと、席をたった。
ノスタルジアの魔女の一日は、掃除から始まる。