M-2 『知っているぞ』
夏休みのキャンパスは賑わっていた。
駐車場で合唱するアカペラ部、グラウンドで走り込みをする陸上部、校舎の廊下で筋トレするボクシング部……。
来春から通うであろう大学を、日向はきょろきょろ見回しながら歩く。高校とは違う、独特の活気にテンションが上がる。
光に脅されたあの日から、とにかく一生懸命に勉強した。
部屋にこもると暑いし気が滅入るので、エアコンのあるリビングに移動した。家族――特にテレビの音量を下げることを強いられた陽太――には疎ましがられたが、適度に集中力を削がれる方が日向には良いらしい。
好きなことは夢中になれるが、そうじゃないものを無理に集中すると極端に“落ちて”しまうのだ。自身の意外な一面がわかって、貴重な経験でもあった。
先週の模試で、無事にB判定が取れたときは心底ほっとした。
現実逃避してヤケになっていたところに、活を入れてくれた光に感謝しなければならない。
「おぅい。立ち止まってないで行くぞ!」
先を進む友人の空野楓が、カランコロンと玩具じみた下駄の足音を響かせる。
テラス風の学生食堂を通り過ぎ、文化系サークル棟に着く。入口で野巻アカネが待ってくれていた。
「ノマちゃん、バイバーイ」
一緒に談笑していた女子――Tシャツに“よさこい”の文字がプリントされている――が離れていく。
アカネは、楓と日向を交互に上から下まで眺めた。
「着付け終わったんだね。お疲れ様! うん、男子の浴衣もいいわぁ」
「足がスース―するんですけど」
裾から脛を覗かせて、楓が心もとなげに言う。日向も同意して頷くが、
「いいじゃん、涼しいし。すぐ慣れるよ」
白地に椿の柄が目立つモダンな浴衣をまとったアカネは、愉快そうに笑った。
『パパの会社が共催するお祭りがあるんだ。浴衣の人には、屋台で使えるサービス券が貰えるからおいでよ』
B判定のご褒美に、とアカネが夏祭りに誘ってくれた。
浴衣を持っていない旨を伝えると、じゃあ当日ウチに寄って、と指示され、言われるままに野巻邸を訪れると、高級住宅地に似つかわしいマダム(アカネ母)が浴衣を着付けてくれた。わざわざレンタルしてくれたらしい。
「ケーキまでご馳走してもらって悪かったなぁ。お母さんによろしく伝えてください」
「う~む。ママのセレクト甘いわね、楓くんには浴衣より甚平の方が似合うのに。でも、座敷わらしみたいで可愛いわよ」
「座敷わらしぃ!?」
小柄で童顔の楓が頬を膨らませる。高校三年生になった今でも、中学生に間違われることがあるという。日向は必死で笑いをこらえた。
守衛のおじさんに会員証を示して、サークル棟に入る。
俳優志望で黒志山大の演劇サークルを手伝っている楓は、勝手知ったる様子でエレベーターに乗り込む。
日向は履き慣れない下駄が気になる。足指のつけ根が痛い。普段着で来れば良かった、と今さら後悔する。サービス券につられてしまった自分が情けない。
「ほんとうはカナちゃんも誘いたかったんだけどね……」
アカネが含みのある口調で呟くと、楓は気まずそうに瞳を伏せた。
楓は、日向の幼馴染である宮西カナと何度かデートしていたが、交際までには発展しなかったらしい。上手くいかないものである。
「カップルたくさん来るんだろうなあ。神様、リア充に天罰を」
ぶつぶつと呪いの言葉を唱える楓は、二ヒヒ、とふいに笑い出し、
「受験勉強で溜まったストレスを、屋台で喰いまくって解消するぜ!」
「食べ物が目当てなの? 他にも花火とかあるじゃん」
アカネが呆れている。
「花火より屋台だよな。なっ、水無月くん!?」
同意を求めるな。
でも――正直楽しみだ。たこ焼き、かき氷、クレープ、りんご飴、フランクフルト……想像しただけで涎が出そう。日向も相変わらず食い意地が張ってる。
演劇サークルは、大学祭の公演に向けて作業中だった。ダンボールやカラーセロハンや文房具類が床に散らばっている。
視線をめぐらすと、ベニヤ板にペンキ塗りをしている光がいた。
もっぱら裏方を担当している光は、タンクトップにショートパンツと軽装。むき出しの腕や脚のところどころがペンキで汚れている。
「ぎゃっ! ペンキが服に付いた!」
隣で作業する男子が叫ぶのを、「やかましい。そのくらいで喚くな」と叱る。
「だってぇ――あっ、光ちゃんの彼氏くんだ!」
なよっとした印象の男子が振り向く。
日向は頭を下げた。
「こんにちは早乙女さん。先日はありがとうございました」
「先日?」
光が首をかしげる。
「オープンキャンパスのとき、建築学科代表で早乙女さんが話をしてくれたんです。他にも色々教えてくれて」
「もしかして、工学部は三年生から別校舎になるって教えたのお前か」
「うん。マズかった?」
早乙女はキョトンとするが、日向をまじまじと見つめて、
「浴衣カッコいいね~。着慣れていない感じがまた青春っぽくて良いよ。惚れ直しちゃった」
「……そ、そうですか」
いつの間に惚れられていたのだろう。日向はたじろぐ。
野巻アカネも雷宮光も変わっているが、この先輩もかなりのレアケースだ。黒志山大の演劇サークルは変人ばかりなのか。
けど、入会すれば光と毎日会えるかもしれない、などと悩んでいると、
「師範代、ご無沙汰しています。相変わらずスタイル抜群で」
楓が光に接近していた。いつもより肌の露出が高い光を、嫌らしい目つきで眺めている。
光は後輩の額を小突いて、
「空野はちゃんと勉強してるか?」
「そりゃあもう。オレ、成績良いんすよ。三年生になってから特に頑張ったし。白志山大の推薦枠取れそうです」
「じゃあ道場にも通えるな」
「うっ、それは」
「剣道続けるんだろ。サボらずに行けよ。――日向」
ポニーテールを揺らして光がこちらを見た。やっと。
前髪が風でふわりと浮く。目尻が上がった猫みたいな双眸で、柔らかく微笑む。
途端、急に――
ああこの人が好きだ、と自覚してしまう。こそばゆい感覚が全身の肌を滑るように走り、胸の奥が締めつけられる。
どうして、いつから、こんな風になってしまったんだろう? 何も感じなかった頃の自分には到底戻れそうにない。
「B判定おめでとう。短期間でよくやったな」
光は日向を顔をのぞきこみ、くしゃりと頭を撫でる。
「何か怒ってる?」
「……別に」
「もしかして、また早乙女に嫉妬してるの? それとも、久々に会ったのに先に空野と話したこと?」
図星をつかれて、ぐうの音も出ない。
光は笑って、日向の耳朶に触れて艶っぽくささやいた。
「馬鹿だな、日向は私の隅々まで知ってるくせに」
「…………」
聞こえていたらしい、早乙女が赤面して、きゃーっと叫びながら部室を出ていく。しばらく思考停止状態になった日向だが、
「光さん」
真顔に戻って訊ねる。
「何かありましたか?」
「……」
「ありましたよね」
光の様子が、おかしい。
付き合って二年近くにもなるのだ。いくら平静を装っていても分かる。
「何もないよ」
はぐらかすように、窓の外へと視線を移す。サイコロを連想させる立方体の校舎がそこに在る。
「光さん」
強く呼びかけると、観念したように吐息した。
「先週、建築設計の特別講習があって……講義室に置き忘れたノートにおかしな文字が書かれていたんだ」
「おかしな文字? どんな?」
興味を持ったらしい楓が口を挟む。
「『知っているぞ』――って」
日向と楓は同時に顔をしかめた。
「え、それだけ?」
光は無言のまま頷く。
知っているぞ、とは……。ずいぶんと意味深なメッセージだが。
「そのノート。今持っていますか?」
「気持ち悪いから、ページを抜いて捨てた」
「捨てた……」
いかにも彼女らしい行動だが、せっかくの手がかりが……。日向が歯噛みしていると、アカネが情報をくれる。
「見せてもらったよ、それ。ページいっぱいにね、大きく、たった六文字。筆跡が判別できないような走り書きで」
そのとき――開いた窓から強い風が流れて、カラーセロハンが飛んで散らばった。
とっさにしゃがんで拾い集めたアカネが、浴衣が着崩れるぅ、とぼやきながらセロハンを折り畳んで袋にしまう。
「ふうん」腕組みをした楓が、「何だかよく分からないけど。師範代は犯人に心当たりがありますか?」
光は面倒くさそうに首を振る。
B判定を取るのに躍起になっている間に、光の身にそんなことが起きていたとは。不安げに表情をくもらす日向を、大丈夫だよ、と光が笑い飛ばす。
「それ以外、何もないし。ただのイタズラだよ、イタズラ。――そろそろ作業を切り上げよう、野巻」
「あ、うん」
アカネが壁時計を見上げる。午後四時半。
「そうね。光もシャワーして浴衣を着付けてもらわなきゃだしね」
「私はいいよ。家に帰って普通に着替える」
「駄目よっ! 約束したでしょ」
そういえば、と日向。
「田雲先生は来るんですか?」
アカネは目を細めて微笑む。
「もちろん! 仕事があって遅れるけど、浴衣を着て来るって。ねえ、水無月くんも光の浴衣姿見たいよね?」
「え……っ」
「ねっ、ねっ!?」
「は、はい、見たいです」
「ほらあ!」
強引に言わされた感満載だが、光は照れくさそうに唇をとがらせた。細いうなじが淡く染まっている。
「……しょうがないなあ」
お祭りがはじまる。
この話を執筆していて、受験生だった頃を思い出しました。
受験勉強に関わらず、勉強というのはとかく孤独で辛い作業だったなあ、と。大人になってからもあんな孤独を味わったことはありません。あと何回テスト勉強をすればよいか、じりじりとカウントしていました。大してしていなかったくせに……。
学生さんの皆様、苦行のようなテスト勉強にもいつか絶対に終わりがきます。頑張ってください!(ここで何をいう)




