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階段下は××する場所である  作者: 羽野ゆず
バレンタイン回想録―My lost 27days
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V-7 失恋プロトコル【解決編】

プロトコル~手順

 姉が化粧をしていた。

 リビングで。自然光でメイクするのが良いらしい。蛍光灯の下だと、無駄に厚塗りになってしまうのだそうだ。


「今日は最高の日ね」


 幸せそうに微笑む。

 帰ってきたら、おめでとう、と彼女に言わなければ。ああ、なんて――最悪な日。

 化粧品にあふれた洗面所で、色つきのリップを塗った。

 姉のブラシに細い金髪がからんでいる。昨日も来た(・・)らしい。憂鬱ゆううつが増す。 


 鏡の前で微笑んでみる。ぎこちない笑みだった。

 いってきます――



「水無月先輩?」

「…………」

「どうしたんですか。固まっちゃって……私の顔、見えてます?」

 目の前で、白い手がひらひらと揺れた。

「わ!?」

「大丈夫ですか」

 日向は低くうめいた。

 深い思考に沈んでいたせいか、すぐに反応できない。

 丸い膝頭が真上にある。スカートの裾を押さえた莉麻が、椅子から転げ落ちた日向を見下ろしている。

「星住先輩と宇井川先輩から伝言です。今日は部活を休むから、家デートを楽しんでって」

「……あ」

 そうだ。今日は莉麻の家に行くことになっていた。

 申し訳ないが、約束は反故ほごにしなければならない。


「鉢植えを落としたの、東雲さんだよね――?」



「根拠は?」

 表情をなくした莉麻の第一声。

 日向はなるべく彼女を見ないようにして言う。

「二つある。ひとつ目は《ネームピックの向き》。

 鉢植えを落とした人物は慌てていたんだろう、土の盛り方は雑なのに。ネームピック(・・・・・・)の向きは(・・・・)正確(・・)なんだ」

 サボ子、のネームピックに莉麻が指先で触れる。

「陽が当たった側に向きを変えているんですよね、正木先生が」

「そのことを知っているのは、サボテンの面倒を見ているごく一部の人間に限られる」

「正木先生と宇宙研の部員に、ですか?

 本当にそうでしょうか。物理準備室(ここ)には、化学と生物の先生もよく出入りしています。彼らも、日常的に鉢植えを見かけていると思いますが」

「見かけている、というだけでは不十分だよ。ネームピックの向きなんて普通は気にしない。でも、この人物は鉢植えを落としたアクシデント下で、ピックを正しく挿し直している。意識して行ったとしか思えない」

 昨日、正木が調整したのは南南東の方角だった。今もピタリと合っている。

「適当に挿したら当たりだった、というラッキーは除いておきますか」

 蓋然性がいぜんせいが高い方を優先、と莉麻はつぶやく。推理研のクイズのときと、まるで同じ調子だった。


「ふたつ目は、《水差しが補充されていない》こと」

 日向は窓辺に寄って、〈H2SO4〉のラベルが貼られた瓶を指す。

 莉麻はつぶらな目を大きくした。

「それ、水差しだったんですか……。サボテンの近くにあるから、まさかとは思ってましたけど」

「昨日サボ子に水やりしたのは俺なんだ。その後、水差しを満タンしておいたのに――ほら、量が半分(・・・・)になっている。たぶん、鉢植えが落ちたとき巻き添えで倒れたんだろう」

 蓋の締めかたが緩かったかもしれない、と日向は思い返す。

 彼のだらしない悪癖のひとつだ。湿った床を避けるように一歩下がる。


「土を盛り直して、床を掃除して、ピックの向きにも注意して……。できることなら犯行を隠したい、直ぐ露見す(バレ)るのは避けたい、とその人物は望んでいたはずだ。なのに、何故(・・)水差しを(・・・・)補充(・・)しなかった(・・・・・)んだろう(・・・・)――? 水道なら続きの物理室にある。手間がかかる作業じゃないのに」

「回りくどいのは止めましょう」

 腕組みした莉麻が先を促した。

「水差しの中身が『水』と知らなかったからだよね?」

 無理もない、と日向は思う。『硫酸』のラベルは強烈過ぎる。


「ネームピックのことは知っているのに、水差しの中身は知らない――この人物は、『サボ子』に詳しいのに(・・・・・)詳しくない(・・・・・)んだ。東雲さん、サボ子に水やりしたことなかったよね?」

「……サボテンはいま冬眠期だから。水やりは月一程度ですものね。水やり当番が回ってきたら気付けたのに。残念です」

 イタズラが失敗したみたいに、莉麻は舌を出した。

「硫酸に水を加えたら危険でしょ? 空き瓶だからって水差し代わりにするなんて……」

「正木先生の悪趣味だよ。ちゃんと洗浄したとは言ってたけど。――料理部の〈重曹〉を盗ったのも東雲さん?」

 日向は殴り書きしたレポート用紙をかかげる。


 H2SO4+2NaHCO3→Na2SO4+2H2O+2CO2


「重曹は炭酸水素ナトリウムだから。硫酸を中和できる」

 化学式をネットで調べたのは秘密。莉麻なら、そらで言えるだろう。

「念のためです。実際には、CO2を発生させただけでしたけど……。重曹は、家庭科室に返しておきましたので見逃してください」

「うん」

 カナには黙っておいてあげよう。



 雪が降ってきた校庭を眺めて、莉麻はカーテンに手をかけた。髪を切って露わになったうなじが淡く染まっている。

「サボ子には可哀想なことをしました。つい手が滑ってしまって」

 ふう、と莉麻は小さな息を吐く。

「こうするしかなかったんですよ。あの人(・・・)は私を避けてましたから……。

 鉢植えをポスト代わりにしたんです。正木先生への『手紙』を潜ませて」

 正やんへの?

 仮入部した莉麻が、顧問の正木と部室で顔を合わせていないことを、日向は今さら気づく。

「先生、今日はお休みですね。私の姉と一緒にいる筈です」

「お姉さんって……『東雲里香』さん?」

「ご存知でしたか。白志山高では有名ですものね。――今日、姉と先生は入籍します」

 そう告げて、しずかに睫毛を伏せた。


「水無月先輩、『再婚禁止期間』って知っています?

 女性は離婚後百日は再婚できないという民法の規制です。姉は、離婚から百日経過して、本日晴れて婚姻できるようになりました。

 いきなりこんな話をされて戸惑っていますね……?

 そもそも、私が宇宙研(ここ)に入ったのは姉に勧められたからです。本当は天文部に入るつもりでしたが廃部していたので。『正木さんが顧問をしているから入りなさいな』って――表向きは穏やかですけど、本当の目的は、私を通じて先生を監視すること(・・・・・・)です」

 はっと顔を上げた日向に、莉麻はおだやかに笑んだ。

「姉は、ものすごく嫉妬深いんです。

 元々繊細すぎるきらいはあったんですが、高校を辞めて離婚してから、精神のバランスを崩してしまって……私と母は、姉を第一に気遣う生活をしています。宇宙研に入るよって報告すると、姉は別の勧めをしてきました。

『あなたも、もう高校生ね。勉強ばかりしていないで、恋人でも作ったら?』って。

 どういうことか分かります? 正木先生を監視させている私が信用できなくなったんですよ。恋人を妹に盗られるかもしれない被害妄想。狂ってますよね」


 自身の両腕を抱いて、莉麻は淡々と続ける。

「でも、一番異常なのは私かもしれません……。姉に疑われた瞬間、私は、自分の初恋を利用(・・・・・)することを思いつきました。

 水無月先輩に告白していたおかげで、宇宙研に入会するのは先輩目的、と思われる状況が揃っていたから。好都合でした。

『二十七日間』の意味は、お分かりですよね、姉の再婚禁止期間が明けるまでの期間です。

 告白してから、私は先輩のことを探りました。大学生の彼女がいるとか宇宙マニアとか、好奇心旺盛だとか――私は今日まであなたの注意を引いておきたかった。

 送ってくれたメール、全て姉が見ていました。ごめんなさい。先輩が私の彼氏だって、完全に信じてましたよ。姉は、自分に都合の良いことなら盲目もうもく的に信じることができるんです。

 水無月先輩だったら、きっと姉も気に入ったでしょうね。一目会ってくれるだけで良かったんですが」


 何かがおかしい……?

 水が渦を巻いているような混沌が、日向を支配していた。

 莉麻は、姉が命じるまま宇宙研に入った。正木を監視するため。日向が好き、と皆の気を逸らして。

 だとしても――

「正木先生への『手紙』というのは?」

 ここで初めて、莉麻は口ごもった。

「……密告です」

 密告。あまり日常で使わない言葉だ。

 後ろめたいに表情のまま、ふるえる声で少女は叫ぶ。

「姉は、まだあの男(・・・)と会っています……!

 離婚して、別れたはずの男を家に呼んで……私に隠そうともせず……慈悲深い天使みたいな顔をして、正木先生を裏切り続けてるんです。

 私は先生と親しくありません。学校では教師と生徒、家では姉を通じて会話する程度です。でも、私は、彼を、少し変わっているけど良い人だと感じました。彼は普通に幸せになれる人です。

 私と母の二の舞になってはいけない、と思った……。

 だから結婚を考え直して欲しくて……姉の行いを綴った手紙をサボテンの鉢植えに仕込みました。回りくどい手段を取ったのは、彼が私を避けていたから。『サボ子に手紙を預けてます』って昨日すれ違いざまに伝えました。今日授業が終わった後、手紙が読まれたか確認しようとして、鉢植えを落としてしまったんです」


「手紙は?」

 ブレザーのポケットからビニールに入った紙片を取り出す莉麻。

「……開封されていませんでした。望み薄とは思ってましたけどね……〈毛髪作戦〉にも動じなかったし」

「毛髪って……部室に落ちていたの、東雲さんが?」

「はい。金色の長髪、姉の浮気相手のです」

「正木先生は相手を知っているの?」

「路上で姉に暴力をふるおうとした男を、先生が止めたことが付き合う発端だったらしいですから。あの男は自称アーティスト志望で、長髪を派手に脱色していて。嫌でも気づいたと思いますよ……調達しているのは私の仕業だってことも、その意味(・・・・)も」

 毛髪を捨てた正木のどこか冷めた表情を、日向は思い出す。

 それでもなお、彼は東雲里香に寄り添うことを選んだのだ。


「物好きですよね、先生も。私も、こんな酷い姉のことが嫌いになれないんです。大嫌いと大好きが共存していて……」

 語尾が涙声でかすれる。もう喋らなくていい、と日向は思った。でも、莉麻は続ける。

「米国にいる父には、ありのままを相談していました。姉さんも結婚するし、少し距離を置いてみたらって。父は、私に留学を勧めてくれました。そうしようと思います」

「留学……?」

 予想外の展開に、日向は思わず声を上げる。

「いま手続きを進めているところです。

 宇宙研には半端なかたちで関わってしまい、ご迷惑をかけました。推森先輩と七条原さんにも伝えてあります。はなむけに、って推理クイズをプレゼントしてくれて嬉しかった」

 あの推理クイズが、莉麻への餞別せんべつ……? 日向は少し脱力した。


「水無月先輩」

「ん?……っ!!?」

 耳朶に近い頬に柔らかい感触がした。

 至近距離から引いた莉麻が、恥ずかしそうに笑っている。

「お別れのキスです。大丈夫。私はもう――失恋し終えてますから」

 いつの時点でだったか分かります?

 と、真っ赤になった日向にイタズラっぽく微笑んで、ボブカットの襟足を撫でる。

「私が宇宙研を訪れた日、覚えていますか。――先輩、私を『光さん』と間違えましたよね?」

「……ご、ごめんなさい」

 思い出すだけで悶絶したくなる出来事だ。


「実は私、あのとき、まだ先輩のこと忘れられずにいたんです。

 でも、光さんって呼ぶ声がとても愛しげで……抱きしめる動作も泣きたくなるほど優しくて……完全に打ちのめされちゃいました。

 放課後、学校から真っすぐ美容院に寄って髪を切ったんですよ。もうあんな想いは二度と御免だったから」

「…………」

 やっぱり、ごめんなさい、だ。

 謝ろうとした日向を、莉麻が止める。

「水無月先輩、好きです。大好きでした」

 ボブカットの頭を深く下げる。

「利用してすみませんでした。明日からお互い自由です。さようなら、水無月先輩……さようなら」



* * *



「――ふうん。そんなことがあったの」


 冷めたコーヒーを啜って、田雲が独りごつ。 

 日向も甘いコーヒーで喉をうるおした。正木と東雲里香の件は、ぼかして話したつもりだが、田雲にはバレバレかもしれない。

「でもさ」

 生チョコをようじで挿して、渡してくる田雲。「君は結局、利用されたわけだろ? 怒りはしなかったの?」

「……僕は利用されたかもしれないけど、でも、彼女は自分自身を利用していたんですよ」

 怒れるわけがない。

 莉麻が、好きと偽っていたのなら怒ったかもしれない。だが、彼女は、好きを(・・・)偽っていたのだ。

 あの二十七日間は、彼女が戦って、そして失った日々。日向も――

『何ねぼけたこと言ってんだ。嫉妬と失恋じゃ全然違うぞ』

 楓の説教をようやく理解した。嫉妬は、向ける相手がいるが、失恋には、それさえない。圧倒的で絶対的な違いだ。


「難しいね」

 悟った大人の表情で田雲がぼやく。

「好きな人が自分を好きになってくれたらいい。それだけのことなのに――ところで日向くん」

「はい?」

「僕が一番知りたいのは、君と光ちゃんがどうやって仲直りしたか、なんだけど?」

「……秘密、です」

 回想した日向は、顔色を青くして、赤くした。

 まあ、色々あったのだ。事後も含めて一生忘れられない思い出だ。


「ハッピーバレンタイン!」

 保健室の扉がけたたましく開く。

 野巻アカネが満面の笑みで入場してきた。雷宮光も一緒だ。ふたりとも高校の制服を着ている。

「おぉ懐かしいね、その恰好。いいじゃない」

「えへっ、コスプレしちゃいました! 私服で侵入したら目立つしね。スカートがきつくなってたのがショックだけど」

 はいっ、と紙袋からファンシーな包装箱を出して、

「バレンタインチョコの配達ですよ。今年は光と一緒に作ったの」

「ありがとう。嬉しいよ」

「ホワイトデー期待してるからね! 水無月くんには、ブランデー抜きのやつ。はい」

「……ありがとうございます」 

「なんだよ?」

 呆けたように見つめてくる日向を、光は拗ねたように睨む。

 ポニーテールに制服姿。まるで去年にタイムスリップしたような、不思議な感覚だ。にやけていると、光に箱を投げつけられた。

「痛っ!」

「東雲莉麻からのチョコだよ。さっき玄関でバッタリ会った、一時帰国してるんだって。日向に渡しておいてくれって頼まれたから」

 日向と田雲は顔を見合わせる。

 噂をすれば、というやつだ。

「直接渡したら、って勧めたんだけどね。光に遠慮したんじゃない?」

「ふざけるなよ。あいつのせいで別れそうになったんだぞ」

 光が苛立ったように言う。

「……案外それも狙いのうちだったりしてね」

 ぽつり、とつぶやいた田雲に、同意するようにアカネは頭を上下した。

「バレンタインに帰国なんてあざといしね。恐ろしや、偽天然巨乳っ娘」

 じろり、と光が猫目でいっそう睨んでくる。

 日向は疲れたように溜め息を吐いた。


「あの、誤解されてるみたいで、ずっと訂正したかったんですが。僕、巨乳好きってわけじゃないです」

「じゃあ嫌いなの?」

「好きですけど」

「やっぱりそうなんじゃん!」

 アカネが爆笑しながら責め立ててくる。

 日向は険しい顔をしている光の胸元をちらっと見て、

「それよりも、美乳派なんです」

 と、へらり、と笑った。



【end】

お読みいただきありがとうございました!

よかったら、ブクマ、評価、感想などなどお待ちしています。

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