V-7 失恋プロトコル【解決編】
プロトコル~手順
姉が化粧をしていた。
リビングで。自然光でメイクするのが良いらしい。蛍光灯の下だと、無駄に厚塗りになってしまうのだそうだ。
「今日は最高の日ね」
幸せそうに微笑む。
帰ってきたら、おめでとう、と彼女に言わなければ。ああ、なんて――最悪な日。
化粧品にあふれた洗面所で、色つきのリップを塗った。
姉のブラシに細い金髪がからんでいる。昨日も来たらしい。憂鬱が増す。
鏡の前で微笑んでみる。ぎこちない笑みだった。
いってきます――
*
「水無月先輩?」
「…………」
「どうしたんですか。固まっちゃって……私の顔、見えてます?」
目の前で、白い手がひらひらと揺れた。
「わ!?」
「大丈夫ですか」
日向は低くうめいた。
深い思考に沈んでいたせいか、すぐに反応できない。
丸い膝頭が真上にある。スカートの裾を押さえた莉麻が、椅子から転げ落ちた日向を見下ろしている。
「星住先輩と宇井川先輩から伝言です。今日は部活を休むから、家デートを楽しんでって」
「……あ」
そうだ。今日は莉麻の家に行くことになっていた。
申し訳ないが、約束は反故にしなければならない。
「鉢植えを落としたの、東雲さんだよね――?」
*
「根拠は?」
表情をなくした莉麻の第一声。
日向はなるべく彼女を見ないようにして言う。
「二つある。ひとつ目は《ネームピックの向き》。
鉢植えを落とした人物は慌てていたんだろう、土の盛り方は雑なのに。ネームピックの向きは正確なんだ」
サボ子、のネームピックに莉麻が指先で触れる。
「陽が当たった側に向きを変えているんですよね、正木先生が」
「そのことを知っているのは、サボテンの面倒を見ているごく一部の人間に限られる」
「正木先生と宇宙研の部員に、ですか?
本当にそうでしょうか。物理準備室には、化学と生物の先生もよく出入りしています。彼らも、日常的に鉢植えを見かけていると思いますが」
「見かけている、というだけでは不十分だよ。ネームピックの向きなんて普通は気にしない。でも、この人物は鉢植えを落としたアクシデント下で、ピックを正しく挿し直している。意識して行ったとしか思えない」
昨日、正木が調整したのは南南東の方角だった。今もピタリと合っている。
「適当に挿したら当たりだった、というラッキーは除いておきますか」
蓋然性が高い方を優先、と莉麻はつぶやく。推理研のクイズのときと、まるで同じ調子だった。
「ふたつ目は、《水差しが補充されていない》こと」
日向は窓辺に寄って、〈H2SO4〉のラベルが貼られた瓶を指す。
莉麻はつぶらな目を大きくした。
「それ、水差しだったんですか……。サボテンの近くにあるから、まさかとは思ってましたけど」
「昨日サボ子に水やりしたのは俺なんだ。その後、水差しを満タンしておいたのに――ほら、量が半分になっている。たぶん、鉢植えが落ちたとき巻き添えで倒れたんだろう」
蓋の締めかたが緩かったかもしれない、と日向は思い返す。
彼のだらしない悪癖のひとつだ。湿った床を避けるように一歩下がる。
「土を盛り直して、床を掃除して、ピックの向きにも注意して……。できることなら犯行を隠したい、直ぐ露見するのは避けたい、とその人物は望んでいたはずだ。なのに、何故水差しを補充しなかったんだろう――? 水道なら続きの物理室にある。手間がかかる作業じゃないのに」
「回りくどいのは止めましょう」
腕組みした莉麻が先を促した。
「水差しの中身が『水』と知らなかったからだよね?」
無理もない、と日向は思う。『硫酸』のラベルは強烈過ぎる。
「ネームピックのことは知っているのに、水差しの中身は知らない――この人物は、『サボ子』に詳しいのに詳しくないんだ。東雲さん、サボ子に水やりしたことなかったよね?」
「……サボテンはいま冬眠期だから。水やりは月一程度ですものね。水やり当番が回ってきたら気付けたのに。残念です」
イタズラが失敗したみたいに、莉麻は舌を出した。
「硫酸に水を加えたら危険でしょ? 空き瓶だからって水差し代わりにするなんて……」
「正木先生の悪趣味だよ。ちゃんと洗浄したとは言ってたけど。――料理部の〈重曹〉を盗ったのも東雲さん?」
日向は殴り書きしたレポート用紙をかかげる。
H2SO4+2NaHCO3→Na2SO4+2H2O+2CO2
「重曹は炭酸水素ナトリウムだから。硫酸を中和できる」
化学式をネットで調べたのは秘密。莉麻なら、そらで言えるだろう。
「念のためです。実際には、CO2を発生させただけでしたけど……。重曹は、家庭科室に返しておきましたので見逃してください」
「うん」
カナには黙っておいてあげよう。
*
雪が降ってきた校庭を眺めて、莉麻はカーテンに手をかけた。髪を切って露わになったうなじが淡く染まっている。
「サボ子には可哀想なことをしました。つい手が滑ってしまって」
ふう、と莉麻は小さな息を吐く。
「こうするしかなかったんですよ。あの人は私を避けてましたから……。
鉢植えをポスト代わりにしたんです。正木先生への『手紙』を潜ませて」
正やんへの?
仮入部した莉麻が、顧問の正木と部室で顔を合わせていないことを、日向は今さら気づく。
「先生、今日はお休みですね。私の姉と一緒にいる筈です」
「お姉さんって……『東雲里香』さん?」
「ご存知でしたか。白志山高では有名ですものね。――今日、姉と先生は入籍します」
そう告げて、しずかに睫毛を伏せた。
「水無月先輩、『再婚禁止期間』って知っています?
女性は離婚後百日は再婚できないという民法の規制です。姉は、離婚から百日経過して、本日晴れて婚姻できるようになりました。
いきなりこんな話をされて戸惑っていますね……?
そもそも、私が宇宙研に入ったのは姉に勧められたからです。本当は天文部に入るつもりでしたが廃部していたので。『正木さんが顧問をしているから入りなさいな』って――表向きは穏やかですけど、本当の目的は、私を通じて先生を監視することです」
はっと顔を上げた日向に、莉麻はおだやかに笑んだ。
「姉は、ものすごく嫉妬深いんです。
元々繊細すぎるきらいはあったんですが、高校を辞めて離婚してから、精神のバランスを崩してしまって……私と母は、姉を第一に気遣う生活をしています。宇宙研に入るよって報告すると、姉は別の勧めをしてきました。
『あなたも、もう高校生ね。勉強ばかりしていないで、恋人でも作ったら?』って。
どういうことか分かります? 正木先生を監視させている私が信用できなくなったんですよ。恋人を妹に盗られるかもしれない被害妄想。狂ってますよね」
自身の両腕を抱いて、莉麻は淡々と続ける。
「でも、一番異常なのは私かもしれません……。姉に疑われた瞬間、私は、自分の初恋を利用することを思いつきました。
水無月先輩に告白していたおかげで、宇宙研に入会するのは先輩目的、と思われる状況が揃っていたから。好都合でした。
『二十七日間』の意味は、お分かりですよね、姉の再婚禁止期間が明けるまでの期間です。
告白してから、私は先輩のことを探りました。大学生の彼女がいるとか宇宙マニアとか、好奇心旺盛だとか――私は今日まであなたの注意を引いておきたかった。
送ってくれたメール、全て姉が見ていました。ごめんなさい。先輩が私の彼氏だって、完全に信じてましたよ。姉は、自分に都合の良いことなら盲目的に信じることができるんです。
水無月先輩だったら、きっと姉も気に入ったでしょうね。一目会ってくれるだけで良かったんですが」
何かがおかしい……?
水が渦を巻いているような混沌が、日向を支配していた。
莉麻は、姉が命じるまま宇宙研に入った。正木を監視するため。日向が好き、と皆の気を逸らして。
だとしても――
「正木先生への『手紙』というのは?」
ここで初めて、莉麻は口ごもった。
「……密告です」
密告。あまり日常で使わない言葉だ。
後ろめたいに表情のまま、ふるえる声で少女は叫ぶ。
「姉は、まだあの男と会っています……!
離婚して、別れたはずの男を家に呼んで……私に隠そうともせず……慈悲深い天使みたいな顔をして、正木先生を裏切り続けてるんです。
私は先生と親しくありません。学校では教師と生徒、家では姉を通じて会話する程度です。でも、私は、彼を、少し変わっているけど良い人だと感じました。彼は普通に幸せになれる人です。
私と母の二の舞になってはいけない、と思った……。
だから結婚を考え直して欲しくて……姉の行いを綴った手紙をサボテンの鉢植えに仕込みました。回りくどい手段を取ったのは、彼が私を避けていたから。『サボ子に手紙を預けてます』って昨日すれ違いざまに伝えました。今日授業が終わった後、手紙が読まれたか確認しようとして、鉢植えを落としてしまったんです」
「手紙は?」
ブレザーのポケットからビニールに入った紙片を取り出す莉麻。
「……開封されていませんでした。望み薄とは思ってましたけどね……〈毛髪作戦〉にも動じなかったし」
「毛髪って……部室に落ちていたの、東雲さんが?」
「はい。金色の長髪、姉の浮気相手のです」
「正木先生は相手を知っているの?」
「路上で姉に暴力をふるおうとした男を、先生が止めたことが付き合う発端だったらしいですから。あの男は自称アーティスト志望で、長髪を派手に脱色していて。嫌でも気づいたと思いますよ……調達しているのは私の仕業だってことも、その意味も」
毛髪を捨てた正木のどこか冷めた表情を、日向は思い出す。
それでもなお、彼は東雲里香に寄り添うことを選んだのだ。
「物好きですよね、先生も。私も、こんな酷い姉のことが嫌いになれないんです。大嫌いと大好きが共存していて……」
語尾が涙声でかすれる。もう喋らなくていい、と日向は思った。でも、莉麻は続ける。
「米国にいる父には、ありのままを相談していました。姉さんも結婚するし、少し距離を置いてみたらって。父は、私に留学を勧めてくれました。そうしようと思います」
「留学……?」
予想外の展開に、日向は思わず声を上げる。
「いま手続きを進めているところです。
宇宙研には半端なかたちで関わってしまい、ご迷惑をかけました。推森先輩と七条原さんにも伝えてあります。はなむけに、って推理クイズをプレゼントしてくれて嬉しかった」
あの推理クイズが、莉麻への餞別……? 日向は少し脱力した。
「水無月先輩」
「ん?……っ!!?」
耳朶に近い頬に柔らかい感触がした。
至近距離から引いた莉麻が、恥ずかしそうに笑っている。
「お別れのキスです。大丈夫。私はもう――失恋し終えてますから」
いつの時点でだったか分かります?
と、真っ赤になった日向にイタズラっぽく微笑んで、ボブカットの襟足を撫でる。
「私が宇宙研を訪れた日、覚えていますか。――先輩、私を『光さん』と間違えましたよね?」
「……ご、ごめんなさい」
思い出すだけで悶絶したくなる出来事だ。
「実は私、あのとき、まだ先輩のこと忘れられずにいたんです。
でも、光さんって呼ぶ声がとても愛しげで……抱きしめる動作も泣きたくなるほど優しくて……完全に打ちのめされちゃいました。
放課後、学校から真っすぐ美容院に寄って髪を切ったんですよ。もうあんな想いは二度と御免だったから」
「…………」
やっぱり、ごめんなさい、だ。
謝ろうとした日向を、莉麻が止める。
「水無月先輩、好きです。大好きでした」
ボブカットの頭を深く下げる。
「利用してすみませんでした。明日からお互い自由です。さようなら、水無月先輩……さようなら」
* * *
「――ふうん。そんなことがあったの」
冷めたコーヒーを啜って、田雲が独りごつ。
日向も甘いコーヒーで喉をうるおした。正木と東雲里香の件は、ぼかして話したつもりだが、田雲にはバレバレかもしれない。
「でもさ」
生チョコをようじで挿して、渡してくる田雲。「君は結局、利用されたわけだろ? 怒りはしなかったの?」
「……僕は利用されたかもしれないけど、でも、彼女は自分自身を利用していたんですよ」
怒れるわけがない。
莉麻が、好きと偽っていたのなら怒ったかもしれない。だが、彼女は、好きを偽っていたのだ。
あの二十七日間は、彼女が戦って、そして失った日々。日向も――
『何ねぼけたこと言ってんだ。嫉妬と失恋じゃ全然違うぞ』
楓の説教をようやく理解した。嫉妬は、向ける相手がいるが、失恋には、それさえない。圧倒的で絶対的な違いだ。
「難しいね」
悟った大人の表情で田雲がぼやく。
「好きな人が自分を好きになってくれたらいい。それだけのことなのに――ところで日向くん」
「はい?」
「僕が一番知りたいのは、君と光ちゃんがどうやって仲直りしたか、なんだけど?」
「……秘密、です」
回想した日向は、顔色を青くして、赤くした。
まあ、色々あったのだ。事後も含めて一生忘れられない思い出だ。
「ハッピーバレンタイン!」
保健室の扉がけたたましく開く。
野巻アカネが満面の笑みで入場してきた。雷宮光も一緒だ。ふたりとも高校の制服を着ている。
「おぉ懐かしいね、その恰好。いいじゃない」
「えへっ、コスプレしちゃいました! 私服で侵入したら目立つしね。スカートがきつくなってたのがショックだけど」
はいっ、と紙袋からファンシーな包装箱を出して、
「バレンタインチョコの配達ですよ。今年は光と一緒に作ったの」
「ありがとう。嬉しいよ」
「ホワイトデー期待してるからね! 水無月くんには、ブランデー抜きのやつ。はい」
「……ありがとうございます」
「なんだよ?」
呆けたように見つめてくる日向を、光は拗ねたように睨む。
ポニーテールに制服姿。まるで去年にタイムスリップしたような、不思議な感覚だ。にやけていると、光に箱を投げつけられた。
「痛っ!」
「東雲莉麻からのチョコだよ。さっき玄関でバッタリ会った、一時帰国してるんだって。日向に渡しておいてくれって頼まれたから」
日向と田雲は顔を見合わせる。
噂をすれば、というやつだ。
「直接渡したら、って勧めたんだけどね。光に遠慮したんじゃない?」
「ふざけるなよ。あいつのせいで別れそうになったんだぞ」
光が苛立ったように言う。
「……案外それも狙いのうちだったりしてね」
ぽつり、とつぶやいた田雲に、同意するようにアカネは頭を上下した。
「バレンタインに帰国なんてあざといしね。恐ろしや、偽天然巨乳っ娘」
じろり、と光が猫目でいっそう睨んでくる。
日向は疲れたように溜め息を吐いた。
「あの、誤解されてるみたいで、ずっと訂正したかったんですが。僕、巨乳好きってわけじゃないです」
「じゃあ嫌いなの?」
「好きですけど」
「やっぱりそうなんじゃん!」
アカネが爆笑しながら責め立ててくる。
日向は険しい顔をしている光の胸元をちらっと見て、
「それよりも、美乳派なんです」
と、へらり、と笑った。
【end】
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