1-4 まだまだ検証する
「中園ぉお! こらあ!」
鬼の形相でせまってくる光に、「うお」とも「げえっ」ともつかぬ叫びを上げて、中園が転びそうな勢いで走り出そうとした――。
あれ? 日向は思わず目を見張る。一度は背中を向けた中園がUターンして戻ってきたのだ。忘れ物に気づいたかのように。
置き去りにされそうになった女子が、むしろ中園を不安げに見つめている。
なんだろう。この一連の彼らの動きに、日向はひどく違和感をおぼえた。
「夏見、どうしてここにいる。新人戦が近いのに練習を抜けてきたのか」
中園の腕を掴んでがっちりと拘束した光が女子に言う。叱る、というよりは、意外そうな口調で。彼女、夏見香織は一瞬中園と目を合わせたが、すぐに逸らしてうつむいた。
「すみません、すぐ戻ります」
「中園と何を話していた?」
「雷宮先輩――」
香織をかばうように中園が一歩前にでると、体格の良い身体を二つに折った。硬質そうな短髪の頭頂部があらわになる。
「心配かけてすみません。田雲先生には俺と京島が話をつけますから」
光は眉をぴくりと上げる。
「どう話をつけるつもりだ」
「俺と中園が言い争いをしてるうちに、かっとなって互いに手が出てしまった――それだけの話です」
「二人? 三人の間違いだろう。中園を殴ったのは京島だろうが、京島を襲ったもう一人がいるはずだ。階段でこけた、とか言っていたが嘘だな。どんな転び方をしたら頭のてっぺんにタンコブが出来るんだか」
「……っ」
頭頂部にタンコブ。
不注意で転んだにしては、たしかに妙な位置だ。反論が出てこないのだろう、中園は悔しそうに唇を噛む。
日向は感心した。猪突猛進タイプにみえる光だが、ちゃんと観察すべきところはしているらしい。
「もう一人なんていない。あの場にいたのは俺たちだけだ」
「どういうつもりか知らないが。田雲先生にそれで通用すると思うか。あの人、ぼんやりしているけど馬鹿じゃないぞ」
「……わかってます。でも、自分たちでケジメをつけたいんです」
静かだが断固たる物言いを、中園はした。太い眉の下の瞳は鋭い光を放っている。
いっそう空気が緊迫する。空手道場のかつての先輩と後輩同士が睨み合う。やがて、折れたのは光だった。
「勝手にしろ」
「……ありがとうございます」
目礼した中園がふたたび背中を向ける。
外見は京島とよく似ているが、この中園のほうが礼儀正しい印象を日向は受けた。正々堂々として武道家らしいというか。
夏見香織も一礼して場を去る。袴の裾が重たげに揺れていた。
二人を見送ったあと、アカネが「ふはあ」と大きく吐息した。
「なんだかよくわからないけど、緊張したなぁ。ねえ水無月くん」
「え? あ、はい」
話しかけられた日向は思考にふけっていたのか、大きな目を何度もしばたかせた。
「これにて一件落着、でいいわけ? 光」
「よくない。でも、どうしようもないだろ。あんな風に言われたら」
「うーん。確かにどうしようもないか」
ぶっきらぼうに呟いた光の肩に、アカネが優しく手を置く。
放課後の校舎にやりきれないような物憂い雰囲気が漂う。
どこからかフルートの音色が聞こえてきた。エンディングテーマにしては、つたない。吹奏楽部のパート練習だろうか。
「水無月くん?」
光が声をかけるのを無視して、ハーメルンの笛吹き男に誘われた町の子供のように、日向はふらふらと特別棟の上階へ昇っていった。
*
夢遊病のような動きで階段を上がっていく日向を、光とアカネが追う。特別棟の最上階、三階にたどりついた。
階段近くの空き教室――演劇部の練習場の真上だ――で、男子が独りフルートを吹いていた。音源はここか。ときどき耳にしているのだろう、今日はドビュッシーか、とアカネがつぶやいた。
「えっ、なに、なんですか」
ガラス窓越しに三人でうかがっていると、気づいた男子がぎょっとして演奏を止めた。
「根本」
「お、水無月」
「いつからここで練習してたの?」
「一時間くらい前からだけど」
クラスメイトだろうか、気軽な調子で会話するふたり。吹奏楽部の少年は丸い目をぱちくりさせて、日向と、背後にひかえる光とアカネを交互に見つめていたが、
「そういや、さっきスゴイ音がしたけど何が起きたんだ。地獄から悪魔かなにかが地上に召喚されたのか」
「黒魔術じゃないから大丈夫。そのときのことなんだけど――誰かが三階に上がってこなかった?」
「えっ」
数秒考え込むが、「ない」とすぐに答える。あっけないほど明確な否定だった。
「何事かと廊下に顔を出してみたけど、生物と呼べるものは存在していなかったよ」
「本当に?」
「いや……コバエとか小さいクモなら居たかも」
「わかった。ありがとう」
「? うん」
あっさり引き上げた日向に、釈然としないようすで練習に戻る吹奏楽部員。日向が戸を閉めるなり、光が低くうなった。
「三階にも不審人物はいなかったのか」
「はい。そのようです」
光はもどかしげにポニーテールの尻尾を撫でる。
「京島を襲撃した犯人はどこに消えたんだよ。透明人間じゃあるまいし。――野巻、二階に誰もいなかったっていうのは確かなのか」
「アタシを疑うの?」
不満そうに唇をとがらすアカネ。だって、と光は悩ましげに眉を寄せる。
「論理的に考えてあり得ないだろう。その場にいたはずの〈三人目〉がいないなんて」
「んん……やっぱさ、ふたりの他に誰もいなかったのよ。京島くんと中園くんが相打ちになった。実力伯仲の関係だし」
「ならばどうして、京島は『階段でコケた』なんて下手な嘘をつく必要がある? 中園も〈三人目〉の存在を隠そうとしているし」
「ああんっ、もう、さっぱりわかんないよぉ!」
アカネが明るい髪色の頭を抱える。まったく混乱した状況だった。日向もひたすら首をひねっている。
「いや……すまない。この件はもう決着がついたんだった」
ふいに光がこぼした。
自分たちでケジメをつけたい、と申し出た中園を、勝手にしろ、と彼女は突き放したのだ。
光の凛々しい顔付きに、わずかに影がさしている。後輩たちのトラブルを解決できなかったことに、無力さを感じているのかもしれない。