V-2 これが泥沼ってやつ?
チョコレート色の玄関ドアの前で、日向はひとつ深呼吸をした。
いつも少しだけ緊張する瞬間だ。
「はぁい」
202号室のインターホンを押すと、赤フレーム眼鏡の快活そうな女子が出てきた。
「水無月くん、お久しぶりー!」
「野巻先輩!?」
いきなりのハイテンションだ。
野巻アカネは日向をまぶしそうに見つめて、
「あぁ、もう既に高校の制服が懐かしいわ。元気だった? インフルエンザとか大丈夫だった?」
「はい。えと、先輩は、お元気そうですね」
「アタシはいつも元気モリモリだよ!」
「先週まで高熱を出していたくせに」
ようやく部屋主が登場した。
アカネは光に抱きついて、えへへと漫画っぽく笑う。
「風邪で休んでた講義のノートを貸してもらいに来たの。いやぁ持つべきものは光だね。ごめんねお邪魔しちゃって。――早乙女くん、帰るよ!」
はーい、とリビングから返事がして、なよっとした男子が光の後ろに現れた。
えっ……男……?
なよっとした人――早乙女は、大学生にしては子供っぽいキラキラした瞳をしている。
「うわぁ」
アカネを押しのける勢いで迫られて、日向はのけぞった。
「これが噂の彼氏君かぁ、うわぁうわあうわ~あ。すごい美少年だ!」
「でしょでしょ!? 水無月くん、志望校黒志大だよね。今度こそ演劇部で待ってるからね」
「うんうん、彼がいたらシェイクピアとか出来るんじゃないかな。光ちゃん、ジュリエット演る?」
「私は裏方志望だ」
「つれないなぁ」
無理やり握手を求められ、じゃあまた、と慌ただしく去っていく。
嵐のあとの静けさが訪れた。
「入ったら?」
光に手招きされて、日向はようやく靴を脱ぐ。
「いまの人……」
「演劇部の早乙女だよ。ほら、剣道部を辞めてそっちに入ったって言ったろ」
アカネに誘われて入部した光は、裏方で大道具や小道具を作成しているらしい。
夏休み、実家の庭でトンカチを手に書割り(背景)を作っている姿を目撃したことがある。光にトンカチで、『リアル鬼に金棒だな』と連想したことは極秘だ。
「サークル帰りで、野巻に付いてきただけだよ」
「だったら別に部屋に入れなくてもよかったんじゃ……」
「あのなあ」光は面白そうに笑って、「早乙女のことだったら気にする必要ないよ。日向のことだって、伝えてあるし」
「…………」
突っ立ったままでいると、おいで、とソファに押し込まれる。
髪をサイドに緩くまとめた光は、いつもより大人っぽい雰囲気だ。そういえば、最近ポニーテールをしなくなった、と今さら気づく。
互いに予定が合わなくて会えたのは久しぶりだったのに――いや、久しぶりだからか、やけに距離を感じてしまう。
「で、さっきのはなんだ?」
隣に腰を下ろすなり、本題を切り出してきた。
言わずもがな東雲莉麻の件である。
「ええと……」
日向はしどろもどろに説明した。
告白されたこと。宇宙研に入会希望されたこと。『二十七日間契約』のこと。
「ふうん」
床に放っていた日向のコートとブレザーをハンガーにかけながら、光がぼやく。
「その東雲って子、変だな」
「ですよね。変わっているっていうか……あ、告白はちゃんと断りましたから」
「そうじゃなくて――二十七日間、日向を下僕にしたって、どうなる?」
「下僕になれ、とまでは言われてないですけどね」
「日向だったらどう? 告白してフラれた後、そんなことを望むか」
ふむ……?
たしかに不自然な気がする。フラれた相手と一緒にいたいなんて。捻くれているというか、自虐的というか。
「たんなる腹いせだと思いますけど」
「どうかな」
こくり、とかしげた頭を肩に乗せられた。
間近で花のような香りが漂う。考え込むように、桜色の爪を押しつけた光の唇がやわらかそうで、思考はそちらに奪われた。
「――ん」
突然キスを仕掛けてきた日向を、光は押し返す。
「まだ話の途中だろ」
「ひさしぶりに会えたから、嬉しくて」
「何か……怒ってる?」
細い指が伸びてきて、眉間を突かれる。
「ここ。皺寄ってる」
「怒ってません」
「もしかして、まだ早乙女のことを気にしているの?」
「……そんなのどうでもいいじゃないですか」
日向は続けて小さくつぶやいた。
「光さんだって、僕のこと信じてないくせに」
自分でもぞっとする冷たい声音だった。
「いい加減にしろ!」
ものすごい衝撃を感じて、目をつむって開けると、ソファから転げ落ちていた。光に突き落とされたのだ。
「なにするん……」
仁王立ちした光を見上げて、背筋が震えた。
今まで見たことがない、怒りと軽蔑が混じった表情だった。
「信じてないってどういうことだ? 言いたいことがあるなら、ちゃんと言えよ。ごまかそうとするな」
「…………」
獣みたいな荒い息だけが響いている。
日向は唇を結んだままでいる。
「ひなた――」
名前を呼ばれる。愛おしいとは、ほど遠い口調である。
部屋の隅まで追い詰められて、芋虫のような体勢のまま叫んだ。
「光さんだって……光さんだって、僕のことを全然信用してないくせに!!」
「だからなんだよそれは」
「星住さんとか宇井川さんに色々根回ししていたじゃないですか……入会テストとか色々。僕が、どれだけ惨めな気分になったか」
「……あ」
ギラついた猫のような目が、かすかに揺らいだ。
「気に障ったなら謝る。でも、日向がいつも無駄に愛想をふりまくから……心配していたら、案の定、後輩に告白された? どうしてひと月も黙ってたんだ」
「すぐに断ったし、心配させたくなくて……」
「黙っていられるほうが嫌なんだよ私は」
「……じゃあ言いますけど。そっちだって、僕の知らない男を家に上げてたじゃないですか。ひとり暮らしの部屋に男を入れるなんてバカなんですか!? 襲われたらどうするんです?」
「私が早乙女ごときに襲われるか」
「そういう問題じゃなくて!」
「じゃあどういう問題なんだよ!」
平手が飛んできた。
すんでのところで避けたが、鼻先をかすめたのか血が流れ出した。かっとして反撃のかまえをすると、今までの何倍も強烈な一撃をお見舞いされた。
「――ッ!!」
両膝が床につく。
さすがにやり過ぎと思ったのだろう、光がかけ寄ってきて日向を膝に寝かせる。
「バカ、かまえの姿勢をとるから」
反射的に攻撃してしまったらしい。
光に歯向かうのがどれだけ無謀で危険かが分かった。鼻血を拭いてくれる手を退けて、むすっとしたまま日向は立ち上がる。
「帰る」
「待って。話が終わってない」
「……話し合いなんてできない」
もう殴られるの嫌だし、と吐き捨てると、憤怒の気配がして上着を投げつけられた。
「っ、いいよ帰れ!」
語調も荒く怒鳴られる。
光の双眸が潤んでいることに気付いたが、優しい言葉をかける気持ちにはなれなかった。
「二十七日間じゃなくて――ずっとでいい! お前の顔なんて当分見たくない!!」
*
ちらちらと粉雪が舞っている。
自宅付近のバス停で、日向はベンチに座っていた。
雨風を凌ぐには簡素すぎる小屋のなかで、寒さに震える。今日は家族がそろっている日だ。腫れ上がった顔の惨状について、どう説明すれば良いだろう……?
触れた頬はまだ熱を持っていた。
「痛っ」
夏休みの甘ったるい思い出が全て吹き飛んだ。
やっぱり雷宮光は乱暴者だ。
自分にも非があった、とは思う。が、体中を断続的に襲ってくる痛みが、反省を上書きしていた。
「水無月先輩……?」
薄暗い小屋に、ボブカットの少女が入ってきた。
「どうしたんですか、その顔!」
「……東雲さん?」
一瞬、誰だか分らなかった。
数時間前はロングだった髪が短くなっている。真っ青になった東雲莉麻は髪を乱して、気遣ってくる。
「誰にやられたんですか!?」
「…………」
日向は顔をそむけた。そもそも、彼女さえ現れなければ、こんなことにはならなかったのだ。なんだか無性に苛立たしくなって、ぶっきらぼうに言う。
「東雲さんさ、二十七日間で何するの?」
「え……」
「東雲さん、男性恐怖症なんでしょ。そんなんで、まともに男と付き合うとかできると思わないけど」
「……私はただ……少しの間でいいから先輩の一番近くにいたいと思っただけで……具体的に何がしたいとかは」
おどおどした表情や仕草にイライラした。
莉麻といると落ち着かなくなる。理由は分かっている。昔の女性恐怖症ぎみだった自分自身を見ているようで、苛立たしくなるのだ。
「やあ、こんばんは」
重苦しい沈黙のなか、第三の人物が顔をのぞかせた。
「推森先輩……!」
驚いた莉麻が白い息をはく。
粗末な小屋は、いまや人口密度が限界を迎えた。日向は腰を浮かせて小屋を出る。
マフラーをぐるぐる巻きにして顔半分が隠れた人物は、雪が降るなか、くつくつと笑った。
「ご無沙汰だな、東雲さん。悪いけど、尾行させてもらったよ――水無月くん」
隣のクラスの男子生徒、推森琢也だった。
合同授業の体育では、小柄だがすばっしこい動きに定評がある。そして、推理クイズ研究会の会長でもある。
「東雲さんは推理研の会員なんだ。勝手にスカウトしないでくれるかな」
「……は?」
違うんですそれは私の意思で、と莉麻が遮るのを無視して、推森は続ける。
「困るんだよねえ。宇宙科学研究会だか何だか知らないけど、自分以外、女子ばっかり集めてさ。カルトなハーレム作らないでくれるかな」
作ってない……!
思いっきり舌打ちする日向にかまわず、推森は顔を近づけてきて、
「ん? その顔はどうした? いや説明しなくていい。推理するから――。
ちなみに君、カラダにもダメージを受けているね。体勢が傾いているからわかる。左の方が腫れがひどいね。おそらく右利きの人間に、力いっぱい殴られたんだろう。その後、右を殴られ、蹲ったところを袋叩きにされたってところかな。鼻血も出たね。いや、爪の間が血で汚れているから、すぐ分かったよ」
喋りながら、顔をゆがめる推森。
「しかし――痛々しいね。犯人は、ゴリラ並みの腕力を持つ大男だろう。君も見た目に似合わず無理をする、無謀なケンカはよしたほうがいい」
「……うるさいな」
不愉快すぎる推測だった。
肝心なところが間違っているのが、よけいに腹立たしい。日向はそっぽをむいたまま、何か用、と尋ねる。
「実はね――果たし状を持ってきたんだ。聞いたよ、君、推理クイズが好きなんだって?」
「……クイズ?」
にたぁ、と粘着質な笑みを浮かべて、推理研の会長は不敵に宣った。
「我ら研究会の推理クイズを見事に解いたら、東雲さんを宇宙研に譲ろう。――だが解けなかったら、彼女を推理研に返してもらおうか」
記念すべき100話目なのに、こんな話になってしまいました…。次回は『V-3 H₂O殺人事件【問題編】』です。(※早乙女は拙作の『投票会場の論理パズル』にも登場してます)




