V-0 運命が変わった日
「好きです。水無月先輩」
冬も終わりに近づいた、二月中旬。
階段と踊り場を背景に、女子生徒がチョコレートを胸に抱えていた。うつむいた頬が林檎みたいに紅い。
「ごめんなさい――」
「知ってます、彼女さんがいること。……好きなんですよね?」
最初から諦めていたようだった。
うなずくと、少しだけ笑って、ラッピングされた箱を差し出してくる。
「これ、よかったら貰ってくれますか」
「……ありがとう」
ぱたぱたと階段を上がっていく足音を背に、水無月日向は首の後ろをかいた。
いたたまれない瞬間だ。
ふーっと息を吐くのと同時に、階段裏から白衣の優男が出てきた。
「いやぁ、青春の光景だね」
「田雲先生……!? どうしてこんなところに」
養護教諭は得意げに笑って、
「僕はここの卒業生なんだよ。告白イベントが発生しそうな場所は押さえている。今日はバレンタインだし、もしや、と思ってね」
じとっとした視線を向けると、田雲政宗はいつもの柔和な笑みを浮かべた。
「冗談だよ。そこの物品庫に用があってね、ほんとうに偶然だ。それより――ちょっと寄っていかない? コーヒーごちそうするよ」
まるで自宅のように誘われたが、向かった先は校内の保健室である。
「砂糖入れる? いくつ?」
「五つ」
「多いな。疲れてるのかい」
「……放っておいてください。どうせ僕なんて将来、糖尿病まっしぐらです」
テーブルに突っぷす日向は、チョコレートの山が築かれた事務机を見やる。
女生徒や同僚から貰ったのだろう。甘党の日向でさえ、おじけづく量だ。さすがモテ男。
「さっきの一年生? 純情そうな子だったねえ。しかし、君はマジメだな」
「?」
「光ちゃんは、もう高校にいないんだから。適度に遊べばいいじゃないか、バレないようにさ」
大学生の彼女の名をあげて、チャラい提案をしてくる。日向は半笑いで返す。
「出来ませんよそんなこと。先生じゃないんだから」
田雲は黒縁眼鏡の奥の目をしばたいた。
「……君もなかなか言うようになったねぇ。というか、何だか変わった? たとえばそれ」
さっき告白で貰ったチョコレートを指して、
「以前の君だったら、受け取りさえしなかったんじゃない? 告白されること自体、災難と思っているような、そんなところがあったろう」
甘いコーヒーを啜って、日向は田雲から目をそらす。
天井に昇っていく加湿器のスチームを眺めて頬杖をついた。さらり、と髪を撫でられて、ようやく日向は顔を上げる。
「何かあったのかい?」
好奇心をマイルドに抑えた大人の表情。さりげない口調に、つい秘め事が漏れだした。
「先生」
「ん?」
「……好き、って重いですよね」
「重いね」
「そのことに、ようやく気付いたというか。今さら気づいたというか」
養護教諭は片眉を上げた。白衣の腕を組む。
「で、何があったの?」
「……もう去年のことですよ」
*
さかのぼって、去年の秋。
運命が変わる日はとうとつに訪れる。
東雲莉麻はジャンプしていた。
嬉しくて飛び跳ねているわけではない。横着のためだった。
最上段の棚に、あと数センチで手が届きそうなのだ。部屋の隅に積み重なった椅子を引き抜いて持ってくる、という重労働をせずに済むかもしれない。
「……やっぱ駄目か」
ぜいはあと息を弾ませ、諦めかけたとき――
にゅっと腕が出てきて、目的の紙筒を掴んだ。
「はい。どうぞ」
「――っ!?」
心臓が飛び出るかと思った。
振りむいた莉麻の、ほんの一歩後ろに男子生徒が立っていた。あまりの近さに後ずさり、背中を棚にぶつける。
「な、なんですか、アナタは……!? 人の、そんな、すぐ背後に潜んでいるなんて……声もかけずに」
「一応声はかけたんだけど」
紙筒を持ったまま、男子生徒は頬をかいた。
莉麻はすばやく物理準備室を見回す。閉めきっていた扉が開け放たれていた。むろん彼が入ってきたからだろう。特別教室は内側から鍵をかけられないのが難だ。
「取ろうとしていたの、これですよね?」
無謀なジャンプから見られていたらしい。
むっとした表情で、莉麻は紙筒を受けとる。同時に、追いつめられるような緊張を感じていた。
なぜなら彼女は男性恐怖症なのである。
こんな狭い室内に、男と二人っきりだなんて災難以外の何物でもない。
「あ、ありがとうございました……他に用がないなら出ていって欲しいんですけど!」
お願いだから、どこかに行って。
メチャクチャなことを、と自分でも思ったが、やはり男子生徒も唖然としている。制服のネクタイの色から察するに二年生らしい。先輩か。
「えっと……自分も今から、ここを片付けるところで」
「片付け?」
「今日から、宇宙科学研究会が部室として使うんです」
莉麻はいぶかしむ。
宇宙科学研究会なんて聞いたことがない。そもそも、物理準備室は天文部の部室だったはずだ。その天文部も、夏休み前に廃部になったと聞いたが。
ますます怪訝そうになった莉麻に、二年生の男子は困り果てたように自己紹介した。
「あ、僕は会長の水無月です」
端正な顔をくしゃりとさせて笑う。
その笑みに――莉麻は強烈に惹かれてしまった。運命が変わってしまった。
もしも別の日に逢っていたら、違う結果になっていたと思う。
やたら整っていて人形みたい、と感じただけだったろう。好みの外見じゃない。でも、九月初旬の、この日だったから……
無機質な印象から一変して、気取りのない素朴な笑顔に――彼女の心は根こそぎ持っていかれてしまった。
ひとめぼれにして初恋だった。
「あの、驚かせてすみませんでした。出直します」
「……待って!」
呆然自失のまま、莉麻は行動を起こしていた。
明らかに良くないパターンだ。頭のなかで、警告ランプが回っている。思いつきも甚だしい。高い塔から墜落していく自分の姿をリアルに思い描くことができた。なのに止まらなかった。
「待ってください!」
彼の腕をひしっとつかむ。ブレザーを通して肉に指が食い込むほど、力強く握っていた。
男子生徒はさすがに顔をゆがめている。
「あなたが――あなたのことが……すっ、好きになりました!」
「は、はい?」
「私と、将来を見据えてお付き合いしてください!!」




