1-3 事件を検証する
「政宗、居るんだろ」
保健室の扉のプレートには『会議中のため不在』とある。が、光がノックして呼びかけると、あっけなく内側から扉が開いた。
「――光ちゃん。久しぶり」
黒縁眼鏡をかけた、温和そうな男が顔をのぞかせる。よく見ると後ろ髪がはねていた。あきらかに寝起きの感じだ。
「ケガ人だ。手当を頼む」
「ありゃりゃ」
養護教諭――田雲政宗は、京島を押しつけられて寝ぼけ眼を開く。いかにも優男といった容貌だが身長は高い。一八〇センチ以上ありそうだ。
放課後の保健室は西日がゆるく射し、けだるい雰囲気である。
田雲は、まだ足元がおぼつかない京島をベッドに座らせ、彼の頭頂部をそっと撫でた。
「ん~これは見事なタンコブだね。吐き気や手足の痺れは?」
ガーゼで包んだアイスノンを患部に乗せられた京島は「いいえ」とうつろな表情で答えて、
「オレなら平気です。もう、行きます。部活あるし」
「二年B組の京島大翔くん。空手部だよね。念のため今日の部活動はお休みしよう。顧問の先生に僕が連絡を入れておくから」
「っ、平気って言ってるだろ!」
激高した怒鳴り声に、保健室の隅にいた日向は身をすくませた。京島は、はっとした顔になり、バツが悪そうに「スミマセン」と下を向く。
「何か理由あり? まさか、光ちゃんにやられたとか」
本気なのか冗談なのかわからない語調で田雲が言う。それを無視して、光は京島の正面に移動した。
「京島。いい加減、説明しろよ。もしかして空手部のもめ事か?」
「……雷宮先輩には関係ないだろ」
「なんだとお!」
一触即発のふたりを養護教諭が「まあまあ」となだめる。
「トラブルかい? ただのケガならいいけど、そうじゃないなら担任の先生に報告しないと」
京島は唇を一文字にむすび黙っているが、膝の上の拳が小刻みに震えている。動揺を隠せていない。緊迫した沈黙のなか、光が何事かを決心したように、凛々しい表情をさらに引き締める。
「政宗、報告は少し待ってくれないか。この件には別の生徒も絡んでいるんだ。場に居合わせた以上、放っておけない」
「う~ん」
「今日中に始末をつけるから。明日まで待ってくれ。お願い」
「……光ちゃんがそこまで言うならいいけど。京島君は? 具合悪くないかい」
「大丈夫です」と、くぐもった声で返事する京島。額の汗がつうっと流れる。
「ま、いいか。具合が悪くなったらすぐに連絡して。激しい運動はNGね」
田雲は京島のタンコブを観察していたが、ふと気づいたように、棒立ちしている日向をまじまじと見つめた。
「ところで、君は?」
「あ、一年D組の水無月です」
「知ってるよ、水無月日向くん。僕は全校生徒の顔と名前を記憶しているからね。聞きたいのは、どうして君がここにいるのか、ってこと」
「えっと、雷宮先輩と一緒にいるときに悲鳴を聞いて」
「で、京島くんを介抱してここまで運んでくれたんだね。次の質問――放課後に光ちゃんと、どういう用件で一緒に?」
「……それは」
田雲に質問され、日向は空き教室での出来事を思い出してしまう。
赤面して光を睨むが、当の本人はいたって涼しい顔で「じゃあ」と保健室を出るところだ。後に京島が続く。扉が閉まる寸前まで、田雲に興味深げな視線を向けられた日向は、ぶるっと背筋をふるわせた。
「あの」
「なんだ」
「雷宮先輩と田雲先生って、どういう知り合いなんですか」
政宗、と光は彼のことを呼んでいた。生徒が教師をファーストネームで呼ぶとはただ事ではない。怒りよりも好奇心を抑えきれず尋ねると、光はポニーテールの毛先をいじりながら、つまらなそうに答える。
「私が通っている剣道道場の師範の息子だ。ケガした門人たちを介抱しているうちに、剣の道じゃなくて、看護の道に目覚めたらしいがな――おい、京島!」
渡り廊下を足早に去ろうとしていた京島がびくりとして立ち止まった。
「先生がなぜお前をあっさり開放したと思う。さっさと落とし前をつけろ、ってことだ。理由によっては協力してやってもいいぞ。空手部の部長を決めるとき、お前か中園のどちらかで揉めたらしいが、その件が関係しているのか」
京島は一瞬きょとんとした顔になったが、すぐ厳しい面持ちに戻った。精悍さが増す。
「オレが中園を攻撃した。それに間違いはないです」
踵を返そうとした京島を、「待ってください」と日向が呼び止める。
「中園さんを殴ったのは、京島さんなんですよね?」
「あ? だからそういってるじゃねえか」
一年生の日向に、あきらかに横柄な態度になる京島。
「じゃあ、京島さんを襲ったのは誰なんですか?」
その問いかけに、京島は気まずそうに角ばった顔を逸らす。
「……階段でコケたんだよ、悪いか」
ぶっきらぼうに返すと、頭頂部のアイスノンを抑えながら男子トイレに消えた。
光はなおも彼を詰問しようとしたが、思いとどまり、代わりに大きなため息をはいた。
「まったく。あいつら昔から道場でも衝突ばかりして」
「道場? 京島さんと中園さんは空手部じゃ」
「私も過去に空手をやっていたんだ。だからアイツらは弟分みたいなもので……放っておけないっていうか」
「雷宮先輩、剣道だけでなく空手もやってたんですね」
「いちおう黒帯だ」
「うわ……すごい」
違うポイントに青ざめる日向だが、唐突に静かになって硬直した。呼吸さえ聞こえないほど静かだ。呆気にとられた光が顔を覗き込むと、なんと白目をむいている。
「おうい、水無月くん? そういえば、治療の続きがまだだったなあ。キスしても、いい?」
「……はっ! 断固拒否します」
「ちっ」
「ち、じゃないでしょう、ち、じゃ。すみません、考えごとをしていて」
「白目むいてたぞ」
「癖なんです。不思議なことがあると気になって仕方がなくて――。先日も、赤い飛行機雲を目撃して、『なぜ赤いんだろう』と考えていたら、いつの間にか雨に打たれて、雷に打たれそうになるまで動けませんでした」
「動けよ死ぬぞ! 変わったヤツだな君は」
恥ずかしげに頭をかく日向に、光は訊く。
「ところで、気になるとは?」
「〈順序〉です」
日向は人さし指を薄い唇に押し付ける。
「中園さんを殴ったのは、京島さんなんですよね」
「アイツの証言によればな」
「では、京島さんのタンコブを作ったのは誰なんでしょう」
「京島は転んだと言っていたが……たぶん」
「「それは嘘」」
ふたりの声がかさなった。
「……でしょうね。中園さんの仕業でもないと思います。彼は僕らが駆けつけるまで倒れていましたから。あれが演技だったとは到底思えない。京島さんを襲った人物は別にいるはずです」
現場の状況を思い返すように、日向は視線をさ迷わせる。
「あのとき、悲鳴が聞こえて、僕らはすぐに教室を出ましたよね。到着するまで十秒程かかったけど、階段下は視界に入っていた。廊下に出てから、誰かがこちらに逃げてくるのが見えましたか」
「いや、倒れている中園以外は見なかったな。そもそも、だ。逃げるっていっても、一階の廊下の突き当たりだろう」
指摘する光に、日向はうなずいて、
「しかもあそこは〈特別棟〉です。特別教室はふだん施錠されてますから、逃げ込もうにも入れません。つまり、京島さんを襲った人物は階上に逃げたということになりませんか」
「二階にいた野巻と演劇部員に聞けば、何かわかるかもしれないな」
だが、と光は日向の鼻先をずいっと指して叫ぶ。
「そんな回りくどいことは無駄。京島か中園を捕まえて白状させればわかることだろ。考えるだけ無駄!」
「……ですよね」
息巻く光の迫力にのけ反った日向は、がっくりと肩を落とした。
「それより京島の奴。やけにトイレ長いな。便秘か」
「京島さんなら、雷宮先輩が僕と話している間にトイレを出て、二年生校舎の方へ行きました」
「なにぃ! なぜ止めなかった!」
「す、すみません、つい見逃してしまって……っ、ごめんなさい、あんまり近寄らないで」
腕を引っ掴む光から逃れようと日向がジタバタしていると、
「ちょっ、ストップストップ! アンタらねえ公衆の廊下でいちゃつくのは止めてよ」
いつの間にやら、野巻アカネが渡り廊下からふたりを観察していた。
眼鏡の赤フレームをくいっと持ち上げて、ぷりぷりしながら小走りでやって来る。
「ああ、野巻。どうした」
「どうしたもなにも、京島くんは? 光が連絡くれないから気になって部活を抜けてきちゃったじゃないのよぉ」
「大丈夫。ケガは大したことない」
その言葉に、アカネはほっと胸を撫でおろすが、光は不機嫌顔のまま言う。
「でも、アイツ何があったか全然話そうとしない。中園も行方不明のままだし」
「ふうん。あの二人、空手部の新部長と副部長だっけ」
「中園が部長で京島が副部長な」
「新人戦が近いのに困ったもんだねぇ」
十月に開催される新人戦。日向が所属するバスケ部も公式戦をひかえており、二年生部員がピリピリしている。そろそろ部活に行かなきゃ怒られる、と焦りつつも目前で起きた事件を放っておけない。なにより、持ち前の好奇心がうずいていた。
「野巻先輩、いくつか確認したいことがあるんですが」
「なあに。そういや治療は成功したの?」
「未遂だ」と光。
「ほ~お。未遂」
未遂ってなんだ。
日向は目を泳がせる。アカネの目つきが好色そうでいたたまれない。
「で、聞きたいことって?」
「ええと……京島さんと中園さんを発見したときのことです。悲鳴が聞こえてから駆けつけるまで、野巻先輩はどこに?」
「二階の空き教室だよ、階段横の。演劇部全員でね」
「空き教室?」
「小規模部活の厳しいところで正規の部室がないのよ」
「今年も部員入らなかったらしいな」と光。
アカネは嫌味たっぷりな口調で、「女子剣道部は人気があっていいわね。美しい元部長様のおかげかしら」
「九月も過ぎたのに部長職を引退しない野巻には負けるぞ」
「はいはい。有望な子がいたらぜひ紹介してよ。――でもね、練習場としては悪くないんだ、特別棟の二階。たまに三階で吹奏楽部がパート練しているけど、基本的には静かで集中できるし。水無月くん、どうよ演劇部?」
「僕、演技とか無理なんで。話、戻しますね。悲鳴が聞こえてからの状況を詳しく教えてもらっていいですか」
アカネは回想するように人差し指を唇に当てる。
「衣装合わせをしているとき、叫び声が聞こえたの。ほら、悲鳴なんて普段なかなか聞かないじゃん。しかも男子の。だから、怖くて皆でしばらく固まってたんだけど、外が騒がしくなってきて、廊下に出たの。踊り場を見下ろしたら、京島くんが倒れていて……光と水無月君もいて」
あとは日向と光も目撃したとおりか。ゆっくりと慎重に頷いて、日向はさらに質問する。
「京島さんを発見するまで、誰かとすれ違いませんでしたか」
「誰かって? アタシたち以外誰もいなかったけど」
「ちなみに、空き教室を出るまでに誰かが教室を通り過ぎた気配はありましたか」
「いやいや!」
ありえない、とばかりにアカネがぶんぶんと首を振った。いちいちリアクションが大きい。演劇をやっている影響かもしれないが、彼女の本来の性格という気もする。
「アタシたちがいたのって、階段のすぐ横の教室じゃん。誰かが通ったら気づいたと思うよ。練習中はそりゃうるさくしているけど、あのときは緊張して感覚が研ぎ澄まされていたしね。一階に降りたんじゃない?」
「それはない」
黙りこんでいた光が口を挟む。
「一階には私たちがいたが、誰も降りてこなかった。京島を襲った奴は、階段を昇って上へ逃げたはずだ」
「えぇえ? じゃあ、三階に上がったってこと? そんな気配なかったけどな」
言いかけたアカネが、あ、と間の抜けた声を出した。
指をさした方向、特別棟へと続く渡り廊下に一組の男女がいた。道着姿の女子と、制服姿で坊主頭の男子。後者は、おたずね者の中園颯馬である。日向が気づいたときには、すでに光が全力疾走していた。