10-10 好きですサヨナラ
リハーサルは終わったらしい。
卒業ソングが延々と流れていたスピーカーは静まり、場の沈黙を深くした。
「なんていうか。似すぎていたんです」
どこかおぼろげな様子で、日向は言う。
「ふたつの事件。部VS部の構図とか……〈本当の目的〉を隠すために、互いを疑り合うフリをしていたんですね」
微かに頷いた縫野は、出来上がりの状態とほぼ変わらない人形を抱いている。歩み寄った乃維は、首の切れ目を撫でた。
「うまく補修したね。私より全然上手いよ」
褒められた縫野は、叱られた子供が泣き出すのを堪えるような顔をしている。
「バカだね。切り口をカモフラージュなんてしなくて良かったのに」
「……私じゃありません。気付いてくれたのはサヤです」
演劇部のショートカットの少女が、「趣味で、少しだけど手芸やるので。でも、墓穴だったみたいです」と沈んだ声で釈明した。
「私たちを撮ってどうするつもりだったの?」
「映像を編集して……。〈卒業ライブ〉で、放送部の発表後に流すつもりでした」
ドッキリのようなものだろうか。
急に居心地が悪くなって、日向は目を逸らす。実は、と放送部から事前に聞いていた情報だった。
「私たちのこと恨んでいたの?」
直球の問いに、他の三年生らが動揺を見せる。
問われた少女は、しずかに瞑目する。
「きっかけは、二月の部長会でした。
定期活動報告で、私たち以外の部は、二年生主体の新体制がしっかり出来ているな、と感じました。三年生が引退して半年経ってるから当然といえば、当然のことですけど……。でも、自分たちは――っていうと、まだまだ先輩たちに依存していて……“新体制”とは程遠い状況です」
縫野は小さな肩を震わせる。
「私たちはそれを――三年生がきちんと引退してくれないせいだって思い込んだんです」
「練雨先輩には感謝してます」天文部の天野川が消え入りそうな声で言う。「こんな時期まで、部のことを考えて、リーダーシップを取ってくれて……」
「星座のこと、もっと教えて欲しかったです」と星住。「でも――ずっとこうしていられるわけじゃないですよね」宇井川が目を伏せる。練雨が面長の顔を歪ませた。
「恵庭先輩も。受験で大変なのに、苗の様子とかちょくちょく見に来てくれて……。楽しくて充実してたし。新入部員を増やすことなんて、全く考えられやせんでした」
「……石林」恵庭が象のような眼を瞬かせる。
「アカネ先輩はすごい人です!」演劇部部長のブッチが突然大声を上げた。「実力も飛び抜けてるし、他校や社会人劇団とのコネクションも強くて……でも、先輩がいなくなった後を考えると、私たちだけで何が出来るんだろうって、どうしようもなく不安になるんです」
「何言ってんの!?」赤フレーム眼鏡の奥の目を潤ませてアカネが身を乗り出す。「大学に行っても続けるよ! これからも出来るだけ、力になるからっ」
「いい加減にしろ」
投げつけるような言葉を放ったのは光だ。
教卓まで歩み寄ると、アカネ、乃維、練雨、恵庭を順にねめつける。
「こいつらの言う通りだぞ。――お前たち、こんな卒業間近まで深く関わって。それは本当に、部の今後を考えての行動だったか? ただの、“自己満足”というやつじゃなかったか」
どんより沈む三年生らに、容赦ない鉄槌を下す。
「引退から卒業までの時期は、見守りの期間なんだよ。お前たちは、後輩たちから、その猶予期間を奪ったんだ」
なおも責め立てようとする光を遮って、縫野が前に出る。
「先輩たちは、四月から大学に進学して、新しい生活が待っていますよね。
でも、私たちには――“先輩がいない新学期”しか来ないんです。そんなの何だかズルいっていうか……だから、これは、私たちなりの〈復讐〉のつもりでした」
すみませんでした。縫野に続いて、一、二年生年生らが頭を下げる。
日向は遠慮気に口を挟んだ。
「僕は今、部活動に入っていませんけど……。でも、今日まで一緒にいた人が、明日から突然いなくなるのって、何ていうか――暴力的だと思いませんか」
誰かの、疲弊したような呻きが響いた。
「乃維先輩」
にっこりと笑う縫野の目尻には涙がにじんでいる。
「大好きです。さようなら」
視界の片隅で、手芸部の二人が抱き合うのが見えた。
「水無月くん? 顔色悪いけど、大丈夫?」
すぐ傍で声をかけられて驚く。衣田乃々だった。
「……あの、さっきはごめん!」
いさぎよく頭を下げる。『黙っておいて』と頼まれた秘密をバラしたことである。
「ううん」姉とよく似た顔でかぶりを振る。「悪いのは私だから。鍵を開けたまま家庭科室を空けたのも、指示されてやったことなの。カナを騙すようなことしちゃって……。謝らなきゃ」
「でも、何故?」
当事者ではないのに、指示に従ったこと。
乃々は自嘲めいた表情になる。
「……高校に入ってからのお姉ちゃんは、部活ばっかりで。やっと引退したと思ったら、今度は受験で、それが終わったらまた手芸部。私も、色々話したいこととか教えて欲しいことがあったのに……寂しかったの。それだけだよ」
はかなげに笑う乃々が、霞がかって見えた。
ふと日向は思いついて、縫野に訊く。
「その、放映するつもりだった映像。〈タイトル〉は決まっていたんですか?」
「……『お節介で素敵なアナタへ』」
ああ――。
自分が暴いたことは、本当に正しかったのか? 疑問を感じると同時に、朦朧としてきた。視界が揺らぐ。
「水無月くん!?」
後のことは、覚えていない。
*
『天気予報です……北海道は大雨のおそれが……午後六時ころから雨脚が強まり……札幌では非常に強く降るところがあるでしょう』
途切れ途切れに聞こえてくるラジオの音声。
覚醒しかけの薄ぼやけの視界に、何者かが映り込んできた。
「わあっ!?」
お化け――と思ったら、顔の半分を白マスクで覆われた雷宮光だった。
体を起こそうとすると、いいからいいから、とベッドに戻される。
「マスク、お母さんがくれたよ。大事な時期に風邪ひかせちゃいけないからって。お母さん面白い人だな」
「……そうですか」
母さんと喋ったのか。なぜだか少し落ち込む。クスクスと忍び笑いされる。
「まだ熱が高そうだな」
昨日の記憶が甦る。
家庭科室でぶっ倒れた日向を、養護教諭の田雲が家まで送り届けてくれたらしい。高熱で寝込んだまま、今日に至る。
「そういえば」制服姿の光をちら見して、思い当たる。「卒業式は?」
光は卒業証書の丸筒を振った。
「無事に受け取ってきたよ。卒業ライブの、演劇部の公演を観てからこっちに来た」
「公演どうでした?」
「野巻がやたらと張り切っていたな」
「野巻先輩が?」
「空野の代わりに出演したんだ。昨日、お前が倒れてから間もなく、あいつも気を失ったんだよ」
「空野君も? そんな具合悪そうに見えなかったですけど」
「晴川碧が『男』だと知ったショックで」
「……それは」
ご愁傷さま。心の中で、手を合わせる。
「あのな――」
ふいに真剣な顔を向けられ、寝た姿勢のまま身構える。
「お前のやったことは間違ってないぞ」
「……そうでしょうか」
「ああいうことは、直接向き合って伝えなきゃ。心に響かない」
日向は口元だけで笑って見せる。「……先輩がそう言ってくれるだけで、僕は、十分です」
すっと頬を撫でられた。冷たい手が気持ち良い。
「『光さん』……」
猫のような目が見開かれる。日向は慌てて言い訳する。
「って、碧ちゃんが! 先輩のことを呼んでて……なんかズルいなって……。だから、僕もそう呼んでいいですか」
光は微笑む。許可するかわりに、ヒナタ、と柔らかな声音で呼び返してくれた。
「光さん」
もう一度呼ぶ。と、急に気恥ずかしくなった。
やばい。また熱が上がってきたみたいだ。気が付くと、マスクを取った光の顔が迫ってきていた。
「駄目です、風邪がうつる……っん」
大した抵抗もできずに、深く接吻けられる。ああ風邪が……。唾液を伝って、細菌が感染していく様がリアルに想像できた。
布団を捲られ、汗ばんだ手を握られる。
「ちょっ……」
じっとりした視線に当てられたまま、手を胸に押し付けられた。服越しでも伝わってくる、柔らかであたたかな感触。心臓の鼓動。
「あつい手」
艶っぽく光がささやく。
ズルいな、と思う。指先さえ力が入らないときに、こんな風に煽るなんて酷すぎる。
「本当に動けないんだ? このまま襲っちゃおうかな」
「……どうか、しました……?」
尋ねたのは、その声がどこか普通でなかったからだ。中途半端で余裕がないような、判然としない声。
光は、細く長い息を吐いた。
「東京で受けた試験。まだ結果出てないけど……。受かってたら、そっちに行こうと思ってるんだ」
「……でも、本命は黒志山大だって」
「こっちの大学も悪くはないけど、建築学科としてはあっちの方が上なんだ。受かる確率は五分五分だから、まだ分からないけどな」
胸に添えられた手に力を籠められる。
「受かっていたら、本州に行くことになる」
「そう、ですか」
きいんっと、耳鳴りがした。
光が何を喋っているのか。熱に浮かされた脳は、上手く理解してくれなかった。
「――じゃあ。治ったらまた来るね」
ベッド側に寄せていた椅子を机に戻して、部屋を出ていく。
「そっか……」
誰もいなくなった空間で独りごつ。
将来の夢の為ですもんね、応援してます。
――嘘を吐くな。
たった四年だろう。我慢しろよ。
――耐えられない。
答えは明らかだろう。諦めろ。
――そんなの知らない。
僕たちもう“終わり”ですか?
嫌だ。
少しの間、微睡んでいたようだ。
「嫌だ!」
今度ははっきり声に出ていた。
カーテンの隙間から、夕焼けが射し込んでいる。掛時計を見る。午後四時。ふらつく体で身支度すると、なるべく音を立てずに、家を出た。
光の家までは、地下鉄で二駅分の距離だ。二十分もかからず着く。
一度だけ訪れたことがある門扉のチャイムを押す。
『はい』
インターホンに応答したのは光だった。僕です、と伝えると、すぐに玄関ドアが開く。
「お前、熱あるのに、何やって……」
私服のワンピースに着替えた光は、二の句が継げない程に驚いている。
日向はおもむろに話し出す。
「先輩と逢ってから、僕の毎日メチャクチャです」
「……とりあえず、中に入りなよ」
招き入れようとするのを無視して続ける。
「僕は――もっと、心に波がたたないように、穏やかに平淡に過ごしたかったのに……でも、理想とは全然違う毎日で……なのに先輩は、そんなに簡単に、僕の前からいなくなっちゃうんですか?」
「…………」
「好きです」
だらりと下げている両の腕を、強引に掴む。
「好きです! 遠くに行っちゃ駄目です。ずっと、ずっと僕の近くにいてください!」
そのとき、ぱっと玄関の明かりがついた。
家の人だろう。当然だ。戸口でこれほど騒ぎ立てて、不審に思われないわけがない。
途端、恥ずかしくなった。
「……っ」
踵を返す。
背後で名前を呼ばれた気がしたが、振り向かずに全力で走った。ひたすら逃げた。
「は、……っはぁ……」
薄暗くなった空から、小雨がぱらついてきた。
戸建ての家の軒先に、テルテル坊主が逆さに吊ってあるのが見えた。
『お天気になりますように』――と対の願い。フレフレ坊主というやつか。家の誰かが、雨を祈願しているのだろうか。
日向は、地下鉄駅に続く階段を下りていった。
*
雨が降っている。ざんざんと。
日向は、夜に染まった雨空を見上げていた。顔に激しく雨が当たっている。服もびっしょりだ。
それでも動けずに、じっと天を仰いでいた。
もう光に会わない――残酷な決意と一緒に。
*
「雷宮先輩からの電話。出なくて良かったの?」
軽いノックの後、宮西カナが顔をのぞかせた。寝返りして背中を向けると、罵声を浴びせられる。
「ったく! 高熱のくせに雨に打たれるなんて、どうかしてるんじゃないの!? 日向くんなんて死んじゃえ馬鹿っ!!」「馬鹿!」
乱暴にドアが閉められる音。最後に被さった声は、弟の陽太か。
うん、と心の中で頷く。
大馬鹿だ。
本当に、本当に、ほんとうに――。
熱に浮かされた浅い眠りで、何度も光の夢をみた。
その感触も匂いも。とてもリアルで、現実のものとしか思えなかった。
目覚めると頬に涙が伝っていた。
すべては終わったことなんだ――と、それだけを強く認識した。




